清里 百年の計画


毎日新聞No.123 【平成14年 3月28日発行】

~時間と時のゆらぎの中で~

 春がきた。春は様々な時となる。種蒔きの時、門出の時、いのち生命萌え出ずる時。私たちは知らず知らず「時」と「時間」とを使い分ける。時間に間に合わない、締め切りまでに時間がない、時間までに行かなければならない、と言う場合は「時間」の概念で話しをする。一方、収穫の時、待ちに待った時、と言う場合は、どうやら「時」の概念で話している。

  さて、清里観光振興会(舩木上次会長)が「清里百年計画」を構想している。そして百年という長い時との対話をはじめようとしている。幸いなことに私は、この営みのお手伝いをする機会を得た。先端技術産業という言葉さえ死語になりつつある今日、数ヶ月先を予想することでさえ難しいのに百年とは、という声も聞く。確かに、3ヶ月サイクルでパソコンのモデルチェンジが行われる時代に私たちは生きている。しかし、商品の寿命が3ヶ月しか持たないとすると、見方を変えればこうした産業を、先短技術産業と読むことも可能なのではないか。こんな中、清里百年計画では、百年を次のように考えている。
…百年後の社会を見通すことは至難の技である。例えば、明治の人々が、今日を予測できただろうか。一方、40歳の両親に10歳の子どもがいるとして、25年後、その子どもに孫が生まれるとすると、この両親は孫の顔を見ることができるであろうし、両親や子ども夫婦は無理であろうが、多分、孫はこれから100年後の世界に暮らすことになろう。こうした前提に立って、「百年後はどんな姿になっているのか」と考えると、百年は遠い彼方で、私たちの考えは到底及ばない。しかし「私たちが会える次の世代が活躍している時代」と考ると、百年の時は身近で、今も私たちと共にある。それ故、百年計画では「百年後の清里をどうするのか」ではなく「百年後の清里に何を残すか」を構想したい。…
このように捉えると、残すべきものは明らかである。それは「長い時を経ても風化せずに地域に凛として残るもの」に他ならない。清里では、八ヶ岳を中心に広がる美しい自然、ポールラッシュ博士にはじまる開拓の精神、などがまず考えられ、これらをどのように当たり前に伝えていくか、を手始めに百年計画は船出の時を迎えることとなる。

私たちは時間がくれば天命を全うする。しかし同時に、愛する人や志を同じくする人々が私たちの資産を引き継ぎ、自然や自然に支えられる生き物は毎年循環する時の中で生をつなげる。考えてみると、私たちは、実は有限の時と無限の時とを共有している。

永遠の国で見守るポールラッシュ博士が待ちに待った時が今、清里に訪れようとしている。

(山梨総合研究所・主任研究員 手塚 伸)