メセナの真髄とは
毎日新聞No.127 【平成14年 5月14日発行】
~森村市左衛門が残したもの~
日本のメセナの先駈けである「森村豊明会」が設立されて100年になる。東京で洋装店を営んでいた森村市左衛門は1876年に貿易立国を志し、福沢諭吉の応援を得ながら弟の豊とともに輸出商社「森村組」を設立した。そして、陶磁器、洋食器などの輸出に取り組みノリタケ、INAX、日本特殊陶業、日本ガイシ、TOTOなど森村グループといわれる企業を次々と育て上げていった。1901(明治34)年には、教育・福祉・文化などへの慈善事業を目的に「森村豊明会」を結成し、日本女子大学、東京工業大学、慶応大学、早稲田大学への寄付をはじめ森村学園の設立など教育に力を注いでいる。さらに、白瀬中尉の南極探検隊への寄付や英国人宣教師のハンナ・リデルが私財を投じてつくった熊本の回春病院や北里研究所などへも次々と支援している。
その市左衛門が富沢町福士石合の荒廃していた山林1千町歩(1000ha)を購入して林業に進出したのは108年前、1894(明治27)年のことである。この山林の管理は、すべて林学博士の白沢保美氏に委ねられたが、博士は吉野地方からスギやヒノキの苗木を取り寄せ、20年間にわたって430万本を植林している。ある時、市左衛門が「この苗木は何年先に役に立つようになるのかね」と尋ねたところ、博士は「もしあなたが長生きされたら今植えたこの苗木であなたの棺を造って差し上げましょう」と答えたという。市左衛門は1919年81歳で亡くなったが、遺言に「棺材はすべて粗末なもの、上覆いも絹布を用うべからず、式場には花のほか菓子も線香も茶も供うべからず、花を供えんとならば庭前の草花一枝にても手向くべし」とあり、棺材には7寸板が取れるくらいに育っていた石合のヒノキが使われたそうである。
この山林は現在県有林となり、事務所や製材所、宿舎、蔵などが点在する活動拠点7haは富沢町に寄贈されている。企業を育て、人をつくり、そして白沢博士の手に委ねられたスギやヒノキの山林は今、豊かな水を育みつづけている。歴史的な大転換期にあってややもすると社会的貢献への取り組みは後退しがちであるが、森村市左衛門の経営哲学に真のメセナとは何かを学ばなければならない。
(山梨総合研究所・専務理事 早川 源)