脱成長という考え


毎日新聞No.330 【平成23年1月21日発行】

  昨秋、中国を訪れた。短い旅程ではあったが、その経済成長の速さを実感するには十分だった。急ピッチで進む道路や鉄道のインフラ整備、乱立する高層マンション。出会った日本人駐在員は、変化が激しすぎて地図を買うのがばかばかしいのだと話した。同国のGDPは、日本を越えると推定される。訪れた企業では、殺風景な作業場で大勢の女性が日本向けのアクセサリーを組み立てていた。みな地方からの出稼ぎ労働者で、アパートで共同生活をし、故郷に帰るのは、年1度、春節の時だけだそうだ。村には子供と老人が残される。ワシントンポスト紙によると、両親または片親がいない家庭で育つ子供は中国全体の4分の1を占めるという。急速に発展する大国はまたひずみも抱える。

  GDPで抜き去られようとしている我が国を顧みると、一丸となって追い求めてきた「経済成長」という目標が機能しなくなり、いまだに向かうべき方向が定まらないように見える。ひたすら経済の拡大を続けても、それが必ずしも幸福につながらないと感じながら、景気対策の名の下に借金を重ね、将来世代にツケを回す。今のままで良いのか、不安がぬぐえない。
  資本主義社会の原動力は経済発展であるかもしれない。成長を追わねば社会は成り立たない、と反論されるかもしれない。しかし、アクセルを踏み続けなければ倒れてしまうような社会システムが未来永劫続くとも思えない。既に有限の系の中で無限を追い求める事のひずみが地球温暖化や、生物多様性の減少として現れている。それらは症状であって、病理そのものではないことに目を向けたい。

  英国の政府委員会は「定常型社会」を掲げ、ゼロ成長のもと真の豊かさを目指すとする。フランスではサルコジ大統領が「脱成長神話」を模索しているとも聞く。欧州を中心に新しい動きが出始めている。アジアで最も早く成熟社会に入った日本は、急速な発展を続けるアジア諸国の中で、新しい価値をいち早く模索し、先駆けとなっていくべきではないか。中国の発展を目の当たりにしながら、そんな事を思った。資源も生き物たちも貧相になった世界に住むであろう子供たちがどんな社会を望むのか、再考すべき時期に来ている。


(山梨総合研究所 主任研究員 依田 真司)