Vol.154-1 甲州金概説
~江戸時代の幣制のルーツは甲斐武田氏の甲州金だった~
山梨中銀金融資料館 館長 中込 力
山梨中銀金融資料館 入口
1.はじめに
わが国の通貨単位「円」が誕生して、今年でちょうど140年になる。「円」という呼称および「十進法」の計算単位がはじめて登場したのは、明治4年(1871)5月に制定された「新貨条例」である。以来現在に至るまで、「円」の呼称が使われている。これ以前の金銀貨の呼称は「両」「分」「朱」であり、また、その計算単位は「四進法」で、これらの始まりは甲斐武田氏が造った甲州金であった。
戦国諸大名によって造られた各種の金銀貨が秤量貨幣であったのに対して、甲州金は7段階に及ぶ量目体系に基づいて造られた先進的な計数貨幣[1]であった。甲州人の知恵が近世の貨幣制度のルーツとなったことはあまり知られていないが、現在も“金に糸目をつけない”、“太鼓判を押す”などの言い方に甲州金の伝統がしっかりと残されている。
山梨中銀金融資料館は、山梨中央銀行創立50周年事業の一環として、平成4年7月に開館した。当館が収集、展示している貨幣の中から、あらためて県内金融と我が国通貨の変遷の深いかかわりについて紹介したい。
2.甲州金の始まり
戦国時代、甲斐武田氏は領内の阿倍、金沢、黒川、湯之奥などの金山を開発し、採掘した金で「甲州金」を造り、軍費や恩賞などに用いた。
甲州金の始まりについては、なお不詳な部分が多く、当初は砂金や金塊の状態であった。次第に板金、碁石金、延金などへ変わっていくが、いずれも秤量貨幣であった。その後、武田信玄の時代に山下・志村・野中・松木の四家に鋳造の特権が与えられ、鋳造や秤量の技術の進歩に伴い、量目単位が確立し計数貨幣となった。量目単位は、「四進法」(両・分・朱)に「二進法」(朱中・糸目・小糸目・小糸目中)を加えて7段階に体系化したものである。このうち、四進法の貨幣制度は、徳川家康が踏襲して天正18年(1590)江戸市中に採用し、江戸幕府幣制の母体としたことで知られている。このことから“江戸時代の幣制のルーツは甲斐武田氏の甲州金だった”と言われている。甲州金は、江戸時代唯一の例外的な公認地方貨幣として、鋳造や通用が認められた。
甲州金の仕組み
(山梨中銀金融資料館資料)
3.甲州金の種類と増鋳
甲州金には二種類があり、このうち「古甲金」は元禄8年(1695)の改鋳以前のものをいい、それ以降のものは「新甲金」に区分される。古甲金の種類は100種以上で現存するものが少ないものの、代表的なものに「露一両金」「駒一両金」「一分金」「一朱金」「朱中金」「糸目金」がある。因みに、今もよく使われる“お金に糸目をつけない”(気前のよいこと)、“太鼓判を捺す”(大きな保証を与えること)の慣用表現は、この古甲金の量目や形態に由来すると言われている。
新甲金には、「甲安中金」「甲安今吹金」「甲重金」「甲定金」の4種類がある。このうち、「甲安中金」は宝永4年(1707)から、「甲安今吹金」は宝永8年から、一分・二朱・一朱の3種が鋳造された。「甲重金」は享保6年(1721)から、「甲定金」は享保12年(1727)から、朱中を加えた4種が鋳造された。
「甲定金」は、享保17年(1732)まで鋳造されたが、元文元年(1736)の改鋳以後、鋳造は許されなかった。そのため、甲州には中央貨幣が多く流入し、これらとの両替率などで問題を生じた。また、明和期には不利な両替を強制されたため、品位の高い甲州金は次第に退蔵されるようになった。その後、文政9年(1826)の甲州金増鋳の嘆願も許されず、天保・安政年間には、ますます退蔵や国外流出が起こり、甲州金はいつのまにか市中から姿を消すこととなった。しかし、日常取引や貸借などでの「甲金表示」はその後も使われた。
古甲金
(山梨中銀金融資料館所蔵)
4.「円」の誕生と旧金銀貨等の整理
明治4年5月、明治政府は、わが国初の近代的な貨幣法令「新貨条例」を制定した。その骨子は、①貨幣の単位を「円」「銭」「厘」とし、計算は「十進法」を用いる、②金貨を本位貨幣とし、純金1.5グラムを一円と定め、補助貨を銀貨・銅貨とする、③在来通用貨幣一両は新貨幣一円と名目上等価とする、などであった。
政府は、この条例に基づき金貨・銀貨・銅貨、新紙幣の明治通宝などを発行し、旧金銀貨や府県藩札等との交換により貨幣の統一を図った。
旧金銀貨については、明治7年(1874)9月の布告により通用が禁止された。それと同時に新貨との交換価格が定められ、交換期限は明治8年12月末までとした。しかし、旧金銀貨は永年慣れ親しんだものでもあり、また高価なものであるとの考えから、短時日での交換終了は不可能であった。当初の交換期限である明治8年12月には1年期限を延長し、その後も9~11年にかけて延長を繰り返した。そして、明治21年(1888)11月、旧金銀貨の交換を同年12月末をもって廃止とした。なお、これ以降も国庫収入金に限り認められていた旧金銀貨での公納も、明治32年(1899)8月廃止された。こうして、ようやく旧金銀貨の整理が終了した。
5.甲州金の終焉
本県では、明治初期も国中三郡(山梨・八代・巨摩)や郡内(都留郡)では甲州金が通用していた。しかし、旧金銀貨との実勢品位が相違していたため、明治4年1月、以下のとおり換算相場が布達された。
甲金ノ価格ヲ定メ之ヲ布達ス曰 一 古甲金壱分 此通用金弐両弐分 一 甲重壱分 此通用金弐両 一 甲定壱分 此通用金壱両三分弐朱 右甲金相場ノ儀当節金位釣合相違致候哉ニテ通用不致趣ニ相聞候ニ 付今般甲金通用相場書面ノ通相立候条当国四郡共通用可致候自然格 外ノ相場相立取引致候者於有之ハ急度及沙汰候条心得違致間敷事 辛未正月廿九日 |
出典:『山梨県史 第2巻』(山梨県立図書館 昭和34年)P727
また、古くから日常の売買・貸借などの諸取引において「甲金幾何等」の表示が使われていた。新貨条例の制定に伴い、明治4年9月大蔵省から従来の銀目やその外での呼称が禁止されたことから、甲府県では同年11月、次のとおり布達して甲金の呼称を禁止した。
新貨幣御発行ニ付テハ諸貨相場立ノ儀ハ都テ本位貨幣ヲ準拠ト致シ 金壱円ニ付何程亦ハ何品何程ニ付金何円何銭ト相場立致決テ従来ノ 銀目又ハ其外ノ称呼ヲ以新貨ニ相場相立候儀凝之無様可致候事 辛未九月 大蔵省 右ノ通被仰出候条市在無洩可相達候且当国ニテハ当時通用無之甲金 称呼ヲ以相場相立物品売買致シ不都合ノ次第二付以来甲金ノ称呼ハ 可相廃止事 辛未十一月 甲府県 |
出典:『山梨県史 第2巻』(山梨県立図書館 昭和34年)P735
こうした布達にもかかわらず、武田氏以来の甲州独特の貨幣単位であり、数百年来の慣習であった「甲金称呼」は短時日には改まらず、その後なお数年間は使用され続けた。
〔参考文献〕
- 『図録日本の貨幣 1』日本銀行調査局編 昭和47年
- 『図録日本の貨幣 3』 同 上 昭和49年
- 『創業百年史』山梨中央銀行 昭和56年
- 『山梨県史 通史編 3』 山梨県 平成18年
[1] 秤量貨幣、計数貨幣
秤量貨幣とは、使用の際に、貴金属としての品位・重さを検査したうえで、その交換価値を決めて用いる貨幣。これに対して計数貨幣とは、治世者が一定の品位・ 量目を保証し、額面を表示することで、枚数によって交換価値を計れる貨幣のこと。