Vol.158-1 減災力の強い家庭づくり・地域づくり・職場づくり
「防災から減災へ」
NPO法人減災ネットやまなし理事長/山梨大学客員教授 向山 建生
1 被災して
小学校5年生の夏休みのこと。正確には昭和34年(1959)8月14日、富士川に沿って猛スピードで北上してきた大型台風7号の、明け方まで続いた豪雨で釜無川の水位が上昇し、早朝から消防団が忙しく動いていた。午前7時過ぎ、上流の武川村の堤防が決壊したという情報が入り、集落(韮崎町祖母石)北部の桐沢橋に流木類が溜まり避難指示が出た。ここで父が得てきた情報は、「床上浸水程度だろう」というもので、私は、高い棚に教科書や夏休みの友を置き、家族と一緒に手ぶらで高台の寺に避難した。
ところが、一気に押し寄せた濁流は一瞬で集落を飲み込んだ。屋根がそのまま流れて行き、砕け散った。牛が水面から顔を出して流れ、すぐに沈んだ。避難場所のあちこちで悲鳴があがり、座り込んで念仏を唱える老婆もいた。川底を転がる石の振動が足に伝わり、それが深く記憶に残っている。
集落の中ほどにあった我が家では、改築中の蔵が流失し、ヤギ1匹と鶏20数羽、そして母屋の3分の2を失った。(写真1)
大工さんの大切な道具も流れた。集落内で4人が亡くなり、水田が河原と化したため復興に時間を要し、親たちは随分苦労したのを覚えている。
(写真1)
2 被災地に出向いて
平成7年(1995) 1月17日の朝、先に起床していた妻が寝室に来て、「淡路島で地震があったようだから、電話してみて下さい」と言った。すぐに、旧北淡町に住む従姉に電話すると、その従姉が出て、「すごく大きな地震だったけれど、みんな無事よ」と言った。それに安心し、いつものように洗顔して着替え、新聞に眼を通し、食事しながらテレビをつけると、信じがたい光景が映し出された。その時はもう、電話は通じなくなっていて、後で聞くと、余震が一時収まったので、貴重品をとりに家に戻った時、私からの電話が鳴ったのだという。
4日後、その従姉を支援するため徳島県の鳴門経由で現地入りしたが、まだ断続的に余震が続き、軒並み倒壊した家屋の前で消防団員が呆然と立ちすくんでいた。30数名の遺体が埋まったままだと聞いた。従姉の家の母屋は無残に倒壊し、棟続きに増築した一部が残っただけである。(写真2)
それから指定避難所の南小学校に向かうと、体育館の中には被災者がひしめき合い、入口に山積みされた弁当の残骸が悪臭を放ち、その脇で泣き叫ぶ赤子の声が妙に気になった。
(写真2)
3 減災研究の原点
阪神淡路大震災から3年後の平成10年(1998) 4月に(財)山梨総合研究所が設立され、私は山日YBSグループから出向した。
そこで初めて、各市町村に災害対策基本法に基づく「地域防災計画」があることを知った。私自身にその知識がなかったので他人の事をあれこれ言えないが、よくよく調べてみると、多くの住民はもとより、市町村の職員や消防団員さえその内容を知らないことが分かった。また、市町村によっては洪水や地震のハザードマップ等も作成されていたが、義務的に作られ、配布されているに過ぎないことも分かった。さらに、我が地域の防災訓練は、和気藹藹と楽しそうに訓練サイレンが鳴る前に集まり、点呼をとってから放水訓練、そしてカンパンなどの備蓄品を配って終わるといった、通り一遍の訓練であり、とてもかつての被災地の訓練とは思えなかった。
そんなことを気にかけていたある日、某町長から「今度できた介護保険法は悪法だよ。誰でも年をとる。特段、団塊世代が高齢化を迎えるのだから、要介護者にならないよう、健常者の方に力を入れるべきだと思うがね」と言われたので、「防災も同じですよ。自然災害は防げない事を前提に、普段、もっと真剣に訓練や対策をしておけば、発災時の被害を抑えることが出来ると思いますがね」と、投げかけると、「同感だね。しかしねえ、日本沈没のような大災害が起きない限り、住民の防災意識は高まらないだろう」と苦笑しておられた。さすが町のリーダー、よく分かっておられると感心したが、何とも納得のいかない課題であり、「本腰を入れて研究してみよう」と思ったのが山梨総研から山日YBSに戻った頃である。
4 減災の概念と減災力
研究した減災の定義は、「自然災害や突発的事故が発生しても、被害を受けにくい、または、受けても最小限にとどめことのできる平素からの備えや訓練のこと」であり、その力を減災力という。この減災力には、自助力・共助力・公助力があり、自助力とは、自分自身が助かる力、共助力とは、人を助けられる力、公助力とは、公的機関が住民を支援する力をいう。
その取り組み内容は、生活領域ごとに異なる。
家庭では、自助・共助を基本に、自分自身が助かる力、家族を助けられる力が求められ、具体的には、建物倒壊防止や家具類転倒移動落下防止、窓ガラスの飛散防止、暗闇対策、安全な避難路の確保、飲食物の備蓄などで、LCP(Life Continuity Power)と表現する。(図1)
(図1)
地域においては、共助を基本に、互いに助け合う力、避難生活を持続させる力、地域再生の力などを言い、具体的には、救急救命の技能、避難所運営力、初動規定の徹底、共助物資の確保などで、ACP(Area Continuity Power)と表現する。
職場においては、自助と共助を基本に、人命の安全確保と経営資源を失わない力を言い、具体的には、想定事態、復旧計画、初動規定、対策体制、内部情報交換、外部情報交換、訓練計画などを定めたリスクマネジメント計画を策定し、計画的に取り組むもので、BCP(Business Continuity Plan)と表現している。
このBCPは、概して民間企業の事業継続計画を指すが、東日本大震災以降、市役所や病院などの公的機関においても業務を早期に再開するためのPSCP(Public Service Continuity Plan)に取り組み始めている。
5 減災NPO設立上の条件
平成12年(2000) から「減災」の研究に着手し、平成16年(2004) からBCPの研究を追加し、さても研究熱に勢いがついて、いよいよ友人や各分野の専門家らとNPO法人の設立を計画したが、その運営計画を立てる中で、越えなければならない大きな課題(目標)が3つあった。
その1つは、多くの人の「何とかなる」や「行政が何とかしてくれる」といった防災意識を、新たな減災の概念で「なるほど」と頷かせ、高めることができるか。
2つ目は、持続可能なNPOを運営するためには、行政の防災政策の一端を担うことが求められ、予想される脆弱な財政基盤の中で、どうやってそれを確立していくか。
そして3つ目は、市町村に策定義務のある「地域防災計画」に、どうやって「減災」の概念を組み込ませるか、ということである。
そこでまず、NPO設立前に小地域で実証実験したく、居住する韮崎市にモデル地区の指定をしてもらった。その成果を確認した後、当該NPOを設立してすぐに、韮崎市・峡北消防本部と減災協定を締結した。(写真3)
(写真3)
繰り返す「なぜ減災か」の問いに対し、「防災」と「減災」の違いを理解してもらう必要があり、広く啓発活動を展開している中で東日本大震災が発生した。
6 防災と減災の違い
平成23年6月25日、東日本大震災「復興構想会議」は、菅直人首相に「防災から減災への転換」を答申し、それを受けて内閣は復興対策に組み込んだ。これを境に「減災」への関心が高まり、併せてBCPへの問い合わせも急増した。
防災とは、公助を原則に、発災後の救命と復旧・復興の対策を重視した法定計画に従う平時の備えや訓練をいう。ゆえに、住民には、行政が何とかしてくれるという意識がある。
減災とは、自助・共助を原則に、災害や突発的事故などは防げないという前提に立ち、被災した場合、被害を最小限にするための平時の取り組みをいう。
見方を変えると図2のようになる。「防災」が行政主体、発災後の対策重視であるのに対し、「減災」は住民主体、発災前の対策重視であり、重なるところで行政は住民への減災指導を担い、住民は減災の取り組み結果から行政に要望を出し、互いに協働して減災力をつけることになる。そして、これらが「地域防災計画」にしっかり組み込まれることで、「生きた計画」になるのである。
(図2)
7 BCP/LCPの追加
「地域防災計画」には、もう一つBCP/LCP(事業継続計画)を盛り込む必要がある。
今回の東日本大震災は、産業界にも大打撃を与え、被災地では多くの小規模事業所が再起不能の危機に追い込まれた。この原因の一つに、防災が総務省、BCPは経済産業省・中小企業庁という国の管轄を市町村が踏襲したことに現れている。換言すると、多くの市町村はBCPを、防災担当と産業担当が譲り合う形となり、中にはまったく配慮していない市町村もある。
概して産業界は、常に自主努力で市場の変化や困難に対応している。行政は、「だから、自然災害や突発的事故への対策や復旧・復興も自主的に」という見解ではなく、地域防災計画でしっかり捉え、指導的役割を担っていただきたいものである。
また、BCPでは従業員の家庭の減災力を高めることも重要であることから、LCPまで配慮した計画が求められる。
8 東日本大震災の教訓
東日本大震災の発災から2週間目の3月25日、白米を中心とした支援物資をトラックに積み、助手席に乗せてもらい、前日開通したばかりの東北自動車道を走った。日が落ち、福島の先で雪になった。仙台の泉パーキングで夜を明かし、緊急車両に先導されて目的地の宮城県東松島市内に入った。被災地に立ち、眼を覆いたくなる悲惨な光景に言葉を失った。(写真4)
(写真4)
この未曽有の発災から半年経過したが、復旧・復興は遅れている。記録的な大規模自然災害は、津波と福島原発事故が重なり、多くの課題と教訓をもたらした。
思うに阪神淡路大震災以降、頻繁に自然災害が発生した。私たちは、日本は自然災害の多い国であることを再認識し、災害から多くを学び、対策を施してきた。しかしながら、今回の東日本大震災では、宮城県の大川小学校の悲惨な事態を例に、まだまだ整備や訓練の不十分さ、不徹底さを反省する必要がある。
そして、自助と共助を基本に、一人ひとりが、一地域ちいきが、一企業きぎょうが、減災力をつけるために何をすればよいか考え、それを実行し、検証を繰り返すことである。その力が地域防災計画に反映されることで、減災力の強い県土になると確信する。