Vol.162-1 なぜ、今ドラッカーなのか


ドラッカー学会 理事 上野 周雄
ドラッカー学会 URL: http://drucker-ws.org/

はじめに

 今、「もしドラ」と聞いて知らない人は少ないであろう。『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』と長いタイトルの本が売れ、それがきっかけで空前のドラッカー・ブームである。
 ドラッカー、つまりピーター・F・ドラッカー(Peter F. Drucker)は、1909年にハプスブルグ家が最後に統治した国家オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンに生まれた。1927年17歳でオーストリアを離れ、ドイツ、英国、米国に移り住んだ。その過程で貿易商社の事務員、新聞記者、大学教授などを経験した。2005年11月11日、96歳の誕生日を目前にして米国カリフォルニア州クレアモントの自宅で逝去。マネジメントの父とされ、一貫して「人間中心のマネジメント」を追及した「現代社会最高の哲人」(ケネス・ボールディング(1))である。
 ドラッカーは、1959年の初来日以来、頻繁に家族を伴い日本を訪れ、戦後の日本経済と産業界の復興と発展に多大な貢献をした。1996年86歳での来日を最後に日本へは来られなかったが、クレアモント大学院大学のドラッカー・スクール(Peter F. Drucker & Masatoshi Ito Graduate School of Management)で、亡くなる直前まで教鞭をとり、多くの著作を残した。
 ドラッカーが亡くなり6年が経った今、なぜドラッカーなのか、なぜ、これほどまでに人気があるのかを検証してみたい。

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2005年57日、クレアモントの自宅でマネジメントを語るピーター・F・ドラッカー(写真 by T. Y.)

ドラッカーとは何者なのか

 ドラッカーは自分のことを「社会生態学者=ソーシャルエコロジスト」と言っていた。社会生態学というのは、彼の造語である。
 生態学とは、生態の変化を見て、それを伝える学問である。社会生態学者も社会を生態として見て、変化を見つけ、その変化が、物事の意味を変える本質的な変化かどうかを見極める。そしてその変化を伝える。
 上田惇生氏(2)は「社会生態学者だからこそ、ドラッカーには、生きた存在としての組織、社会的機能としてのマネジメントがよく見えたのである」と言う。
 ドラッカーには『傍観者の時代』(1975年)という半自伝的な著作がある。原著名は、Adventures of a Bystander。バイスタンダーとは傍らに立って見る者、つまり傍観者である。ただドラッカーは、単に傍らに立って見ているだけの無責任な傍観者ではなかった。変化を見て、著書に表し、大学で教え、そしてコンサルタントとして相談に乗った。
 社会生態学者ドラッカーの著書を見てみよう。
 ドラッカーが29歳のときに処女作『経済人の終わり』(1939年)を出版した。本書は、「経済のために生き、経済のために死ぬという経済至上主義からの脱却を説く。出版後直ちに、のちのイギリス宰相ウィンストン・チャーチルの激賞を得た。これは、全体主義の起源を分析した世界で最初の本でもある」(『ドラッカー入門』上田惇生著2006年)。
 今日の転換期を予告した『断絶の時代』(1969年)、高齢化社会の到来を知らせた『見えざる革命』(1976年)、バブルの危険を警告した『乱気流時代の経営』(1980年)、企業家精神とイノベーションを体系化した最初の書といえる『企業家精神とイノベーション』(1985年)、ソ連の崩壊を予知した『新しい現実』(1989年)、今日の転換期の行方を書いた『ポスト資本主義社会』(1993年)、ビジネスの前提と現実が変わったことを知らせた『明日を支配するもの』(1999年)、そして92歳で著した、社会がいかに経済と経営を変えるかを示した『ネクスト・ソサエティ』(2002年)がある。

マネジメントの父

 ドラッカーが32歳で発表した二作目に、ドラッカー社会学の原点と言われる『産業人の未来』(1942年)がある。これを読んだGMの幹部が、同社の調査と研究をドラッカーに依頼した。その結果書かれた『企業とは何か』(1946)はフォード再建の教科書となり、GEの組織再編の教科書となった。ここからドラッカーのマネジメントは始まった。
 ドラッカーは、『企業とは何か』の発表のあと、経営の本質を明示した『現代の経営』(1954年)を発表し、これによりマネジメントの父と言われるようになった。本書は第二次大戦後の日本の経済発展に最も影響を与えた著作でもある。
 モダン(近代合理主義)と呼ばれる時代は終わり名も無い新しい時代(ポスト・モダン)へ移行したと書いた『変貌する産業社会』(1957年)、世界最初かつ現在も最高の経営戦略書といえる『創造する経営者』(1964年)、組織で働く全員がトップのように働かなければ組織の成功、社会の繁栄はないと説いた『経営者の条件』(1966年)、そしてマネジメントの集大成である『マネジメント―課題、責任、実践』(1973年)を62歳で発表した。
 この『マネジメント―課題、責任、実践』の主要部分を上田惇生氏が抜粋・編集し、改訳したものが、『【エッセンシャル版】マネジメント』(2001年)である。

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ドラッカー・マネジメント論の集大成である『マネジメント―課題・責任・実践』の原著:Management: Tasks, Responsibilities, Practices. New York: Harper & Row, 1973

日本との出会い

 英国時代の1934年24歳のときに、ドラッカーは、ロンドンのアートギャラリーで開催されていた日本画展に偶然出くわし、たちまち日本画の虜になった。同時に日本の文化や歴史にも強烈な関心を抱くようになり、これが彼の日本への生涯の関わりの始まりとなる。
 1950年代半ばの日本では、第二次世界大戦後の復興に起因する緊急の需要はほぼ満たされ、マネジメント能力の向上への関心の高まりにつながった。1955年の春に設立された日本生産性本部は、日米間のマネジメントのギャップを埋めるべく、経済団体連合会の石坂泰三会長を、トップ・マネジメント・チームの団長として視察団を派遣、全米各地を約5週間にわたり視察した。その報告書に、米国の経営者の間で非常に反響を呼んだドラッカー著The Practice of Management (1954) が、「訪問したどこの会社の重役室にも置いてあった書籍」として紹介され、日本で注目された。

日本訪問と山梨・キープ協会の支援

 ドラッカーの初来日は1959年、日本事務能率協会(現日本経営協会)主催のセミナーに講師として招かれての来日である。招聘を喜んで引受けたのは日本画を見たかったからであると言った。しかし、ドラッカーは初の日本訪問で、日本画だけでなく日本という国にも夢中になってしまったのである。
 この後、ドラッカーは数十年にわたって、家族を伴い、ほぼ隔年で日本を訪れ、毎回数週間は滞在した。これは1996年の86歳の時まで17回続いた。
 ドラッカーは、「日本で知り合った経営者はコンサルタント先ではなく友人であり、これまでにコンサルティング料を貰ったことは一度もないと思う」と言い、これについては、40年以上もの間親交のあった伊藤雅俊氏((株)セブン&アイ・ホールディングス名誉会長)も、「いつもお教えいただきました。著名な学者でいらっしゃるのに、いつも人としての真摯さを感じさせられました。そこが、(ドラッカー)先生の最も素晴らしい点であったと思います。しかも、コンサルタント料と称するものを一切お支払いしたことがありません」と、2009年12月のP.F.ドラッカー生誕100年記念講演会で述べている。
 初来日数年後に、ドラッカーは戦後日本の農村復興に取り組んでいたキープ協会(3)のポール・ラッシュ氏(4)とも知り合った。国鉄(JR東日本)中央線の車中で、ラッシュ氏の秘書を務めていた名取都留さん(廣島都留さん、現在、米国ニューヨーク在住)と出会った事がきっかけとなった。その後、ドラッカーは清里を何度も訪れ、米国側からのキープ協会への支援も行なった。清泉寮のゲストブックには、1962年7月23日にドリス夫人と共に宿泊した記録が残っている。

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清泉寮のゲストブックには1962723日付けで “Mr. & Mrs. Doris and Peter F. Drucker, 138 North Montclair Avenue, Montclair, New Jersey” とドラッカーの筆跡で記帳されている。

日本への貢献

 ドラッカーは、日本で最大の読者をもっている。米国と日本の人口を同じとしたときに日本ではアメリカの2.5倍が売れていると言う。
 日本でドラッカーの著書は出すごとにベストセラーとなり、ドラッカーの著書の現累計発行部数が、560万部(ダイヤモンド社出版分のみ。同社調べ)になる。
 これだけのドラッカーの著書が出版され、その読者が影響を受けないはずがない。「ある大企業幹部は、就職した後、大学に残って学問の道を進むか、官庁に入って国のために働くべきだったかと悩んでいた。そのとき、世界で500万部、日本だけで100万部という大ベストセラー、経営学の古典『現代の経営』の冒頭の言葉、『経営管理者は事業に命を吹き込むダイナミックな存在である。彼らのリーダーシップなくしては、生産資源は資源にとどまり、生産はなされない』を読み、選択は正しかったと勇気百倍したという。そのような人が無数にいる」(上田惇生氏『週刊東洋経済』のインタビュー(2001))。
 『現代の経営』の日本語版が出版されたのは、米国で出版された2年後の1956年、ちょうど、日本の国民総生産や鉱工業生産が、戦前の水準に回復する一両年前である。その後ドラッカー自身も、日本の友人たちから、『現代の経営』が、日本の企業、経済、そして国の再建にいかに役立ったか、また、企業や国のビジョン、方向づけ、目標と方針にいかに貢献したかを何度も耳にした、と述べている。
 山梨県出身でドラッカーとは初来日のセミナーで出合ったとき以来親交のあった小林宏治氏(5)は、「(前略)名著『現代の経営』によって、私どもが従事する経営管理の世界にも、合理的な原則があり、かつそれらが体系的にとらえうるものであることを明らかにしてくれた(ドラッカー)教授の役割の大きさが、あらためて思い起こされる。爾来、経済と産業の発展の節々において、教授が示された新鮮な諸考察は、多くの日本の企業人にとって適切な助言となり、勇気づけともなってきた」と、『イノベーションと企業家精神』(1985年)の「監訳者あとがき」において、ドラッカーの日本経済と産業の発展への貢献を称えている。
 ドラッカーは、エドワード・デミングとジョセフ・ジュランの2人の米国人とともに、第二次世界大戦後の産業経営の近代化と日米親善に寄与したことが認められ、1966年6月に、日本政府から勲三等瑞宝章を授与されている。

ドラッカー・ブーム

 なぜ今、ドラッカー・ブームなのか、それは「世の中がおかしいから」であり、「ドラッカーなら何かヒントをくれるから」である。ドラッカー・ブームは、今回が初めてではない。世の中がおかしくなるとドラッカーが読まれるようになるのである。
 『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』(『もしドラ』)と呼ばれている本が売れに売れている。ドラッカー生誕100年の2009年12月に発売され、すでに電子版も含めて累計発行部数が270万部を超えた。
 『もしドラ』を知らない方は、ちょっと本屋さんをのぞいていただきたい。多摩川のほとりに立つ女子高校生が表紙だ。それなりの年齢の男が手に取るには抵抗を感じさせる萌え風の表紙、それが本屋のビジネス書コーナーに大量に平積みになっている。
 手に取りにくい、でも手に取った二人に一人は買っていくという。父親が読んで娘に渡すと、娘はすでに読んでいて、久し振りに父娘の会話が弾んだとの話も聞く、「もしドラ現象」が彼方此方で起きている。
 『もしドラ』の著者である岩崎夏海氏は、『マネジメント』を読んで感動したからこそ、『もしドラ』が生まれたと語っている。それがヒットした理由の一つである。
 テキストとなった『マネジメント』が、多くの人々の間で今も読み継がれているのも、ただの経営の本ではなく、人と人が一緒に働くことの喜びや、社会的存在としての人間の幸せの意味など、普遍的なことが書かれているからである。
 『もしドラ』の主人公、川島みなみが教科書にして、チームを甲子園に導いたドラッカーの著作『【エッセンシャル版】マネジメント』も既に100万部を超えた。見た目はとても売れそうにない地味なビジネス書が、である。『もしドラ』が、ガイドブックの役割を果たし、『マネジメント』が売れ、他のドラッカー本が売れるという相乗現象の結果である。
 ドラッカーの『マネジメント』を買って読んだ一部の人たちだけであっても、行動すれば社会は絶対に良くなるはずである。ドラッカーを一時的な流行で終わらせてはならない。

最後に

 2011年もさまざまな出来事があった。中でも衝撃的だったのは、東日本大震災。福島第一原発の深刻な原子力事故。台風十二号や十五号などの気象災害も相次いだ。
 一方、「なでしこジャパン」が素晴らしいチームワークで女子ワールドカップで優勝、明るい話題を提供した。
 これらの出来事により多くの人たちが家族や仲間、地域とのつながりや、「なでしこジャパン」にみたチームワークの大切さを感じた。
 年末恒例の「今年の漢字」に「絆」が選ばれたのもその現われ、元旦の山梨日日新聞の県民100人へのアンケートでも「人のつながりや絆」に豊かさや幸せを感じると答えている人が多い。ドラッカーの言う「人と人の絆が社会をつくっている」ことが再認識された。
 経済も社会も袋小路に入り込み、出口を見つけられず、度重なる災害で一層先が見えにくくなっている。
 だが、もしドラッカーが生きていたら「日本は明治維新や、第二次世界大戦後に並外れた力を発揮し、二度の奇跡的な転換や復興を成し遂げてきた。第三の奇跡が起こせないはずは無い」と言うだろう。
 震災復興とともに、「人を大事にする社会」の構築が、ドラッカー・マネジメントにより進むことを願いたい。

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筆者、カリフォルニア州クレアモントのドラッカー・スクールにてドラッカーの頭像と

【注】

  1. ケネス・E・ボールディング (Kenneth E. Boulding) 英国リバプール生まれ(1910年-1993年)。イギリス出身のアメリカの経済学者。彼は伝統的な経済学は一部に過ぎずないと考え、経済学(あるいは社会科学)の領域を広げる諸著作を書いた。
  2. 上田 惇生(うえだ あつお) 1938年埼玉県生まれ。ものつくり大学名誉教授、立命館大学客員教授、前ドラッカー学会代表。ピーター・F・ドラッカーの主要著作の全てを翻訳。ドラッカー自身から最も親しい友人、日本での分身といわれる。
  3. 財団法人キープ協会 キープの創設者である米国人ポール・ラッシュは、第2次世界大戦で破綻した日本を再建するため、八ヶ岳山麓の農村をモデルに、酪農を中心とした高冷地農業を全国に広めた。この事業は清里を拠点に、Kiyosato Educational Experiment Project (清里教育実験計画)命名され、その頭文字をとってKEEP(キープ)とした。http://www.keep.or.jp/ja/
  4. ポール・ラッシュ(Paul Rusch)  米国ケンタッキー州生まれ(1897年-1979年)。大正15年、関東大震災の復興ボランティアとして初来日。立教大教授となり、日本にアメリカンフットボールを紹介。戦後は(財)キープ協会の創設、立教大や聖路加国際病院の復興などに貢献した。偉業を称え「清里の父」と呼ばれ、日本政府から勲三等瑞宝章を授与された。
  5. 小林 宏治(こばやし こうじ) 山梨県生まれ(1907年-1996年)。元日本電気(NEC)社長、会長。社長の時代に、NECは通信とコンピュータ、半導体を主軸とした総合電器メーカーへと発展し、「NEC中興の祖」と呼ばれる。1996年に亡くなるまでキープ協会会長を務める。

 

【参考文献】

  • 岩崎夏海著『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』ダイヤモンド社、2009
  • 上田惇生著 『入門ピーター・ドラッカー-8つの顔』週刊東洋経済 連載インタビュー 東洋経済新報社6.9-7.28
  • 上田惇生著『ドラッカー入門』ダイヤモンド社、2006
  • 上田惇生著『100分de名著 マネジメント ドラッカー』NHK出版、2011
  • F. ドラッカー著、野田一夫監修、現代経営研究会訳『現代の経営』自由国民社、1956
  • F. ドラッカー著、小林宏治監訳、上田惇生・佐々木美智男訳『イノベーションと企業家精神』ダイヤモンド社、1985
  • F. ドラッカー著、DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー編集部編訳『P. F. ドラッカー経営論』ダイヤモンド社、2006
  • F. ドラッカー著、牧野洋訳・解説『知の巨人 ドラッカー自伝』日本経済新聞社、2009
  • F. ドラッカー著、野田一夫・小林宏治・他編『ドラッカー全集』ダイヤモンド社、1972
  • 山梨日日新聞社編『清里の父 ポール・ラッシュ伝』ユニバース出版、1986
  • ドラッカー学会編 『文明とマネジメント4』ドラッカー学会、2010
  • “Peter Drucker’s Influence in Japan (What Drucker Means Around the World).” An article from: People & Strategy by Chuck Ueno(上野周雄), The Journal of The Human Resource Planning Society (Volume 32 Issue 4) , 2009
  • 上野周雄著『マネジメントとは ドラッカーの経営哲学』物流経済新聞「物流塾」連載1.4--12.27