Vol.171-2 行政は住民を「幸福」にするか~後編~
公益財団法人 山梨総合研究所
研究員 赤沼 丈史
幸福:みんな聞いたろう?この人のうちにも幸福がいるかだってさ。小さなおばかさん。あなたのおうちには、戸や窓が破れるほど幸福でいっぱいじゃありませんか。
1 はじめに
前編では、幸福をめぐる時代背景と幸福に関する指標化の先進的な取り組みを概観するとともに、現役行政パーソンに対するアンケート調査結果の報告を行った。
後編ではまず、ブータンにおける幸福の背景を考察する。その後においては、行政と住民の「幸福」の関係を明確にしながら、指標化の可能性を探っていく。
2 幸福の深い谷
ブータンの「GNH」を成功事例として日本を含めた世界がそれにあやかろうとしている。確かに海外の考えを取り入れながら、オリジナルな思想を創造していくことを日本人は得意としている。
しかし、ブータンと日本、それぞれの間には宗教・社会・伝統文化などによる根本的な価値観の相違が存在している。
日本においてもブータンと同様に幸福を指標化することが可能なのだろうか。そこに幸福をめぐる深い谷はないのだろうか。
(1)国民性の違い
ブータンはチベット仏教を国教とする世界で唯一の国であり、無論「GNH」にもその思想は反映されている。ブータンの幸福は、単一の宗教という共通で広大な背景に裏打ちされていると言える。そもそも、もとから幸福を感じていた国が単にそれを数値化しただけではないか、と考えることもできるだろう。
それに対して、日本人の幸福感は割と漠然としていて、「個」のものであるという意識も強い。幸福などと公然と言いだすと、気恥ずかしい感じもするし、何だか怪しいと疑ってしまいがちだ。余計なお世話だと怒る人もいるかもしれない。
輪廻転生を信じていて蚊を殺すことにも抵抗があるとされるブータンの国民性と日本のそれとは、確かに違いがある。
(2)ここではないどこか
人は「ここではないどこか」にこそ幸福があると信じている。劇作家モーリス・メーテルリンク(フランス)が童話劇「青い鳥」を発表したのは、1908年のことだ。チルチルとミチルの兄妹が、幸福の青い鳥を探して「思い出の国」や「幸福の花園」を旅する。しかし、実際に青い鳥を見つけたのは自分の家だったという物語は、今もって絵本やアニメの原作として人気がある。幸福を「ここではないどこか」に求める気持ちに対する戒めが必要とされているからだろう。
また、日本がブータンに幸福を見る図式は、かつて欧米が日本に幸福を見た図式と同様であるという指摘[1]もある。いつの時代にも隣の芝生は美しく見えるということだろう。
(3)均一化される価値観
幸福に関する指標化の動きは、日本だけではなく、フランスのサルコジ前大統領やイギリスのキャメロン首相などの手により全世界に広がっている。
この動きが継続したとすると、幸福は均一な価値観に統一されてしまうかもしれない。均一化(グローバル化とも言える)は比較する方法として非常に強力なため、一度可能になってしまうと、加速度的な客観化が進み、幸福に優劣がつけられてしまう恐れがある。
このように考えていくと、ブータンは価値観や幸福の均一化が進んでいるのかもしれない。と言うのも、2005年に実施された国勢調査で幸福だった国民は96.7%もいたはずなのだが、2010年の国勢調査においては、質問や手法が異なったことも影響したのか、幸福と判断された国民は41%にまで減少してしまった[2]。
3 「幸福」の青い鳥
確かに、幸福は定義が難しい。そう言って取り合わないことはあまりにも簡単だ。ただし、今後しばらくは幸福に関する指標化の動きが続くのではないかと予測される。
幸せ経済社会研究所が47都道府県及び54政令指定都市等市区を対象にした調査結果では、20.8%にあたる21の自治体が指標化に関する試みがある、と回答している(2012年8月時点)。
都道府県で実施されるということは、基礎自治体における意見集約の必要性も高まるだろう。であるならば、一度立ち止まってこの動きを見つめる必要もあるのではないか。指標化された「幸福」は、深い谷を飛び越える青い鳥たりえるのだろうか。
(1)行政にはできない幸福、行政にしかできない「幸福」
ここまで来て幻惑しようというわけではないのだが、私たちが心の中で大事にしている幸福と行政が指標化しようとしている「幸福」とは違う。それらはちょうど、眠っている間に見る夢と将来そうなりたいと願望として抱く「夢」が異なるのと同じ性質において相違点がある。
眠っている間に見る夢は、混沌としていて曖昧だ。矛盾しているし、時空間にも縛られない。コントロールは効かないうえ、内容を説明することができない。それに対して願望として抱く「夢」は、理路整然としていて、わかりやすい。時間軸は将来にだけ向かっている。自らの管理下にあり、時として修正や変更を受容する。
(図表1)
① 眠っている間に見る夢 | ② 願望として抱く「夢」 | |
状態 | 曖昧・情緒的・観念 | 明確・論理的・実体 |
矛盾 | 受容する | 受容しない |
時間(軸) | 存在しない(多方向的) | 存在する(一方向的) |
管理 | 不能 | 可能 |
共有 | 不能 | 可能 |
伝達 | 困難 | 容易 |
図表1において、表頭の①を、〈私たちが心の中で大事にしている幸福〉に、②を〈行政が指標化しようとしている「幸福」〉に置き換えても遜色がなく、それぞれが有する性質を共有していることがわかる。幸福の対応概念として夢を挙げることが可能なのは、幸福も夢も、個人に深く、かつ複雑に根差している点が同質だからだろう。
眠っている間に見る夢は曖昧で把握が出来ないのと同様に、住民の幸福を定義づけることはできない。しかし、願望として抱く「夢」が明確であるのと同様に、住民の「幸福」については定義づけが可能ではないかということだ。
ここで定義という難題は、解決に向けて端緒が開かれた。多数の事例から「幸福」に関する指標化においては、健康や子育て、教育、環境が多く挙げられるなど、共通項があることがわかっている。幸福に占める主観を「幸福」の指標に置き換えることはできないが、多数が感じる「幸福」の共通項というのは確かにある。その共通項によって、私たちの(地域の)「幸福」とはこれであると決めること、これは行政にしかできない「幸福」だろう。
(2)住民の「幸福」を支える行政
ここでは、前編において結果報告したアンケート調査において、自由記述欄に寄せられた意見から行政と住民の「幸福」の関係について考える。
①最も多かった考え方は、「基盤を整える」「環境を整備する」「住民をサポートする」「間接的」といったキーワードによる表現だった。
つまり、「幸福」という特別な表現にこだわらずとも、行政はすでに住民の生活を支えているではないか、というものだ。マズローの欲求階層を具体例として挙げた方もいる。
心理学者アブラハム・マズロー(アメリカ)は、人間の欲求を五つの階層に分けられると考えた。
(図表2)
以下、高次の順に Ⅴ自己実現の欲求・・理想の実現など Ⅳ承認の欲求 ・・認められ、尊重されることなど Ⅲ所属と愛の欲求 ・・他者とのコミュニケーションなど Ⅱ安全の欲求 ・・経済的安定や健康維持、危険回避など Ⅰ生理的欲求・・本能的な食事、睡眠など となっている。 |
こうしてみると確かに、両端のⅠとⅤを除いて、ほぼ行政が大なり小なり関与していることがわかる。
Ⅱはいわゆる「安全・安心」の分野(福祉や衛生、防災など)や「雇用」の色彩が強い。Ⅲの所属には関係性が含まれているため「教育」や「地域コミュニティー」が関連しているだろう。Ⅳにおいては、地域における福祉全般や交通や買い物など生活弱者に対する視線が必要になってくる。
民間企業における企業理念が、「自らが取り扱う商品を通じて社会の幸福に貢献する」ことだとしたなら、「取り扱う商品」が幅広い分野に及ぶ行政とすれば、この結果は当然のことかもしれない。
Ⅴの理想の実現を、「幸福」の実現とすると、アンケート調査で多くの記述が寄せられたとおり、行政はすでに住民の「幸福」を支えている、と考えられる。
②既に実施されている住民満足度(調査)との相違について疑問視する意見もあった。
しかし、これは一つ一つケースバイケースで検証しなければわからないのかもしれない。住民満足度といっても多種多様であるし、満足度の評価の中に何かしらの形で「幸福」という概念をすでに含んでいる場合もあるだろう。
いずれ「満足度」+αとして「幸福」の要素を取り入れる必要があるのだろうが、その要素が何であるかは独自に検討し、決定しなければならない。あるいは、その過程こそが
既存の住民満足度との相違点かもしれない。それは、住民との協働の密度を濃くし、納得感を高め、安易な優劣比較を許さないものにしてくれるからだ。その意味において、漠然としたみんなのための幸福というものは存在せず、全国一律の均一化された指標にはなりえない。
また、住民満足度は、単体の調査で直接的に判定しがちなのに対し、「幸福度指標試案」や「GAH」は、直接的な判定と共に、すでに集計されている様々な統計(「国民生活選好度調査」や「国民生活基礎調査」のほか、経済的要素も含まれる)から引用して間接的に判定するという違いも見られる。満足度は既存の評価に過ぎないが、「幸福」に関する指標化は新たにあぶり出される(=発見される)価値観とも言える。
(3)総合計画と住民の「幸福」
時を同じくして、総合計画の有用性が凋落している。(公財)日本生産性本部による「地方自治体における総合計画の実態に関するアンケート調査」の報告書によると、地方自治法改正によって基本構想の策定義務が撤廃された総合計画を今後も策定するか、という質問に対し、41.3%の自治体が「未定」と回答している(「策定する」57.9%「策定しない」0.7%)。
主に内部管理部門が所管していて愛着が薄く、策定の手順も大掛かり。事業担当課が自ら策定する個別の部門計画に比較して、抽象的な表現が多く総花的な内容になりがちな総合計画は、今後「策定離れ」が進んでしまうのではないだろうか。
「策定離れ」に伴う総合計画の形骸化を防止することができるのか。荒川区では目指すべき都市像として「幸福実感都市あらかわ」を掲げた基本構想(2007年3月)を補完する仕組みとして、「GAH」を利用しようとしている。
(2)②及び(3)のことから、「幸福」の指標化は、住民満足度と総合計画を刷新する要素として効果が期待されている。
また、過去に検討はされたものの支持を得ることが少なかった国民純福祉や国民生活指標といった取り組みは、主体が国だった。その場合、どうしても均一化された価値観を持ち込まざるを得ない。
住民とその生活に最も身近な基礎自治体こそ「幸福」の問題に取り組むべきという姿勢においても、荒川区の「GAH」は注目される。
4 いま、ここにある「幸福」の姿
東日本大震災が私たちに突き付けたもの。それは幸福、絆、家族、故郷だけではない。神話もその一つだろう。地域の防災や原発の安全神話は、検証が不十分で根拠が薄弱なまま、形而上の存在としてただ有難がられるだけだった。それを一つの教訓とするならば、共有・共通の概念を棚上げしておくのではなく、白日のもとに晒しながら検証することで形而下のものとする(=指標化する)のもあながち無意味だとばかりは言えないのではないか。
また、価値観が多様化したため、以前のように漠然としたみんなのための幸福という概念がもうないのだとしたら、「幸福」の指標化も有効だろう。日本経済新聞によるアンケート結果[3]においては、回答者の約60%が国民の「幸福」の概念や定義の検討を実施することを求めている(図表3)。
行政はすでに住民の「幸福」を支えている、と主張できたとしても、概念や定義が明確でないと理解は得にくくなっているのかもしれない。
(図表3)
5おわりに~「幸福」行きの切符
不幸のどん底にあるとき、人は幸福を論じたりはしない、と言われる。また、未来により大きな希望がある場合、現在を幸福とは感じない傾向もあるとされる[4]。
これらの仮説が正しいとするなら、幸福に関する指標化を試みる私たちは、決して絶望しているわけではなく、依然として未来に対する夢や希望も持ち続けているということになる。
北海道帯広市にある幸福駅は、近接する愛国駅からの切符を買うことが「愛の国から幸福へ」という語呂で縁起が良いとされ、有名になった。国鉄広尾線が廃線となって四半世紀が経過したにも関わらず、公園となった跡地には今も観光客が絶えない。保存された駅舎一杯に観光客たちが書き込んだ「幸福になりたい」というメッセージの迫力には気圧されるほどだ。全国で自分たちの幸福を考える機運が高まることで、あのようなエネルギーがさらに結集され、指標化の動きとして具体化するのであれば、それこそがまさに「幸福」行きの切符となるのではないだろうか。
【引用・参考文献等】
- メーテルリンク 「青い鳥」 新潮社 昭和35年
- 枝廣淳子 草郷孝好 平山修一「GNH(国民総幸福)みんなでつくる幸せ社会へ」
海像社 平成23年 - 幸福度に関する研究会 「幸福度に関する研究会報告-幸福度指標試案-」平成23年
- 公益財団法人荒川区自治総合研究所
「荒川区民総幸福度(GAH)に関する研究プロジェクト中間報告書」 平成23年 - 幸せ経済社会研究所 平成24年
「自治体の幸福度や真の豊かさ等の指標化や政策目標への考慮状況に関する調査」報告 - 公益財団法人日本生産性本部 平成24年
「地方自治体における総合計画の実態に関するアンケート調査」調査結果報告書 - 五木寛之 「新・幸福論」 ポプラ社 平成24年
- 坂本光司&幸福度指数研究会
「40の指標で幸福度をランキング!日本でいちばん幸せな県民」PHP研究所 平成23年
[1] 広井良典 「しあわせのカタチ」 月刊ガバナンス2012年3月号 ぎょうせい
[2] 朝日新聞 2012年7月1日 「物欲を税で抑える幸せの国」では、グローバル市場に翻弄されるブータンの現状が1面~2面にわたって報道されている。
[3] 2012年9月23日 日本経済新聞 「幸せの数値化、解はどこに」
[4] 国民生活に関する世論調査(2011年)において、「現在の生活に満足している」世代は、20歳代が最も多くなっており(73.5%)、その点において不安は大きい。