虚にして往き、実にして帰る


毎日新聞No.381 【平成25年3月1日発行】

  春が来る。この季節特有の軽やかな雰囲気は何かを始める格好の機会になる。新年度を迎える準備で多忙だろうが、新たなことにもチャレンジしていきたい。高校を卒業したなら、運転免許証の取得もいいだろう。大学生や社会人なら資格試験も有益だ。早朝の時間帯を利用した「朝活」や交流サイトを入り口にしたまちづくり活動への参加はどうだろうか。自分の世界を広げるためには、新たな視点を獲得する必要がある。
  人口減少の局面を迎えた日本において、高齢化社会は数十年も昔の話。現在はれっきとした超高齢社会である。60歳や70歳は、かつての同年齢のイメージとは大きく異なるほどエネルギッシュだ。「若い-若くない」という尺度自体を見直すべき時期なのかもしれない。まだ誰も経験したことのない社会であるのだから、かつての郷愁や従来までのような考え方は通じない。

  去る10月に「山梨をつくり直す」と題して開催されたフォーラムの中で哲学者の中沢新一氏(山梨市出身)は、「山の中の閉鎖的な盆地」・「頑固で保守、非革新的」といった表面的な山梨像を、「海と山が交流するダイナミックな文化」・「柔軟性と伝統をあわせ持つ精神」にまで掘り下げる歴史的な証左を示し、山梨の原初的なイメージを明らかにしてくれた。知らず知らずのうちに陥っている自縄自縛からの解放こそが今後の新たなスタートラインとなるのではないか。
  「荘子」は、中国の思想家で、道教の始祖の一人とされる荘子が中心となって著した。既成の価値観を相対化してしまう思想に啓発されることも多く、現実と夢の境をあいまいにする「胡蝶の夢」や人間の賢しらな知識を疑う「無用の用」の挿話が有名だ。表題の「虚往実帰」もその中の一つ。何の知識もなく行った先で多くの教えを受け、充実した思いで帰ることを意味している。卒業式のシーズンに相応しい言葉だ。しかし、実となったということは、同時に虚にもなったということだろう。学ぼうという姿勢を持っている限りにおいて、終わりは始まりに過ぎない。

  春は種まきの季節だ。思い思いの実りをともにしながら、新規まき直していこう。

(山梨総合研究所 研究員 赤沼 丈史)