Vol.178-2 三菱自動車工業㈱に見る企業文化の形成・進化〈 前編 〉


公益財団法人 山梨総合研究所
専務理事 福田 加男

1.はじめに

 企業文化についてのレポートは今回が3回目となる。そこで、本稿では具体的な会社を取り上げて企業文化の形成と進化を考えてみたい。
 2期連続で赤字計上となったシャープ㈱の高橋興三新社長は、中期経営計画の中でビジネスモデルの変革、財務の改善など「創業の精神以外は全部変える覚悟で、新生シャープをつくる」ことを強調している。この発言で思い出すのは、2000年6月に「破壊と創造」を掲げて松下電器産業㈱(現パナソニック㈱)社長に就任した中村邦夫氏である。中村氏は改革に際し「創業者の経営理念以外に聖域は無い」と言い、「V字回復」を主導した経営者として記憶に新しい。
 さて、両社とも創業から100年前後経過している老舗企業である。そして経営危機に直面した時、「創業者精神」「企業理念」の意味を問い直し、それを核として企業再興に取り組んでいる。こうした事例を引くまでもなく、不易流行の中で変えてはいけないものとしてこの「創業者精神」「企業理念」があるということはよく知られている。
 吉森賢氏は、放送大学の教材「経営システムⅡ」において、「企業文化とは、企業理念に基づき形成され、最高経営責任者から従業員に至るまで共有され、実践され、継承された態度と行動を意味する」と定義している。本稿では、この定義により三菱自動車工業㈱を事例に企業文化の形成・進化を辿ってみたい。そして本号では、「前編」として同社設立の歴史的経緯を述べ、次号「後編」において歴史的経路依存性に既定された企業文化の形成・進化を考える。

2.三菱グループにおける自動車生産史の概略

 三菱グループの自動車生産は、1917年に三菱造船㈱神戸造船所が試作車を製作したことに始まる。その後、自動車製造部門は、三菱内燃機製造㈱に移管され、同社は後に社名変更し三菱航空機㈱となった。一方、三菱造船㈱が社名変更した会社が三菱重工業㈱であり、同社に自動車製造部門が引継がれていった。当時、自動車の製造現場は名称の変更こそあったが、主に名古屋航空機製作所と東京機器製作所が担っていた。この三菱重工業㈱の時代、戦争という特殊事情を挟んで自動車製造部門である各製作所は統合と分離と名称の変更を繰り返しながらも自動車の生産を続けた。しかし1938年には軍の命令により自動車生産は禁止され、航空機、戦車、各種兵器類の生産を行っている。
 終戦後は、一転して各地に点在していた航空機工場(製作所)の大半は、「臨時航空機工場整理事務所」と「臨時発動機工場整理事務所」の傘下に組み込まれ、これら事務所の各出張所という位置づけでそれぞれに工場の維持・再建の道を模索するという歴史を辿った。そして各製作所が戦後の再建経緯を引きずりながら自動車事業へと発展していく過程で、三菱重工業㈱の3分割、再統合という試練があり、そして三菱自動車工業㈱の分離・独立に至るのである。これ等の経緯については、社史に詳しく記載されており、参考にして頂きたい。

3.戦後の各製作所の変遷

 同社における自動車生産史は、時代に翻弄されながら大変複雑な経緯をたどっていることが分かる。特に、戦後における各製作所の変遷は、目まぐるしく統合と分離が繰り返されており、ここで全てを既述すると返って理解の妨げとなるため、主な製作所5つを述べるに留める。なお詳細については、同社社史にある「生産事業所の系譜」と「終戦に伴う事業所再編図」を参照されたい。

(1)名古屋自動車製作所の事例

 1946年、「臨時航空機工場整理事務所」と「臨時発動機工場整理事務所」の一部が統合して「名古屋機器製作所」が誕生した。さらに臨時航空機工場整理事務所から熊本機器製作所、津機器製作所、古見機器製作所(以上1947年12月に設立)、菱和機器製作所(1948年1月設立)が名古屋機器製作所と統合して1949年12月に「名古屋製作所」が誕生している。その後、1960年10月に名古屋製作所は、名古屋機器製作所と名古屋自動車製作所に分離している。
 この間、名古屋製作所傘下の岩塚工場がエンジンを開発しているが、統合・分離の過程で岩塚工場は、名古屋機器製作所の傘下に入る。この結果、僅か4年の間にエンジン工場は名古屋製作所・岩塚工場 ⇒ 名古屋機器製作所・岩塚工場 ⇒ 京都製作所へと目まぐるしく変遷している。

(2)水島自動車製作所の事例

 戦後の混乱期には、航空機材料であったジュラルミンの在庫を利用して、鍋、釜、弁当箱、筆入れやメンソレータムの容器などを製造していた。その後、民需転換製品の生産が連合軍司令部から認められたことから1946年、小型3輪車を生産している。
 1950年の三菱重工業㈱3分割の際には、中日本重工業㈱の傘下に入り、水島製作所となっている。1959年には、軽3輪車を生産。1960年には、水島自動車製作所となり軽4輪車を生産している。しかし1962年、いったん自動車の生産打ち切りとともにエンジンの生産も打ち切られるという経緯を辿っている。この時の事情については、社史にも述べられていないが、分割された3社間における生産調整の影響と推測される。

(3)京都製作所の事例

 京都機器製作所、京都発電機製作所、名古屋発電機研究所の3事業所は、1945年11月に統合。新たに京都機器製作所として発足し、民需転換を図っている。その後、1950年の三菱重工業㈱3分割時に京都製作所に名称変更。
 同製作所は中型トラックの製作とエンジンの開発・製造を中心にして戦後再興を図った。しかし1949年には、トラック生産は打ち切りとなり、エンジンは消防ポンプ用、一般産業用あるいは、日産自動車㈱、トヨタ自動車工業㈱、GM社製トラックのエンジンとして販売された。エンジンは当時性能がよく、売上げにも寄与したようであるが、自社製の車体に乗せられることは無かった。

(4)その他製作所

①   東京機器製作所は、戦車を応用したブルドーザー、農用トラクター、ディーゼルエンジン、燃料噴射ポンプなどを生産して民需転換を図っている。

②   川崎機器製作所は、バス・トラックの修理や再生作業を行いながら、鍋、釜、洗面器など家庭用品30種類、リヤカー、壜詰機などを生産し戦後の混乱期を凌いでいる。

(5)製作所再興の要約

 以上、各製作所がそれぞれの得意分野と経営者・従業員の工夫により戦後の混乱期を乗り切り、自動車部門の発展に繋げた様子が分かる。
 とりわけ戦時中から航空機の開発、生産にかかわっていた技術者は、戦後一転して3輪自動車の開発へと一変した。この時、技術者のモチベーションに少なからず影響を与えた事実は重要である。当時の技術者であった久保富夫氏(三菱自動社工業㈱2代目社長)は、その心情を「それまで航空機をやってきた者が、今度は3輪車かという想いで、一同、心の中ではがっかりしたことは確かである。」と述べている言葉から技術者の無念さが伝わって来る。
 このように各製作所には、様々な苦境を経営者と従業員が心を一つにして、力をあわせ乗り切った歴史がある。苦しい体験を共有しているからこそ仲間意識が強まり、製作所ごとに独自の組織風土が生じ、各製作所単位における車作りの理念、信条、共通の価値基準が芽生えたとしても至極当然であろう。
 その後、1950年のGHQ指令による三菱重工業㈱の3分割、1964年の再統合、そして1970年には自動車事業部が分離され、三菱自動車工業㈱となっているのである。こうした時代背景の中で各製作所は、常に複雑で特殊な歴史的経緯が影のように存在し、同社の「企業文化形成・進化」の過程で強く影響を及ぼすこととなる。

4.三菱重工業㈱の分割

(1)GHQの3分割指令

 1950年、旧三菱重工業㈱は、GHQの地域別3分割指令により3社に分割された。3分割後の自動車部門は、大型車中心の「東日本重工業㈱」と小型車と2輪車中心の「中日本重工業㈱」が担うことになる。そして、東日本重工業㈱における自動車の生産体制は川崎製作所と東京製作所(後に合併し東京自動車製作所となるが、その後、再び分離)が担っていくことになる。
 一方、中日本重工業㈱の傘下には、神戸造船所、名古屋製作所、水島製作所、京都製作所、三原車両製作所の5事業所が入った。

(2)3分割時代の製作所

 3分割の時代、各社の傘下にあった製作所は、複雑な統合、分離と名称の変更を繰り返している。例えば、1957年に川崎製作所と東京製作所が合併し「東京自動車製作所」となっている。しかし5年後の1962年には、この東京自動車製作所が「東京車両製作所」と「川崎自動車製作所」に分離している。また、既述したように名古屋製作所が「名古屋機器製作所」と「名古屋自動車製作所」に分離している。こうした製作所の統合と分離の過程は「終戦に伴う事業所再編図」と「生産事業所の系譜」に詳しい。
 自動車生産の重要な部門であるシャーシー生産とボディー生産についても生産体制が複雑となっていた。それはシャーシー制作部門とボディー制作部門の分担生産で、三菱日本重工業㈱がシャーシーメーカーとして、新三菱重工業㈱がボディーメーカーとして発展してきた。その後も両社は一体ではなく、川崎機器製作所生産のシャーシーに他社製のボディーが架装され、また、名古屋機器製作所生産のバスボディーは他社製のバスシャーシーに架装されることが多かった。
 その後、1964年に三菱重工業㈱として統合されるまで変則的な生産体制は続いたことになる。

5.新生三菱重工業㈱として再統合

(1)再統合の理由

 3重工業合併の理由は初代社長、藤井深造氏の次の言葉からよく理解できる。「3社の分割が地域的に行われたため、造船部門はもちろん陸上機械部門、自動車部門においても競合するものが多くなり、3社間で激しい競争を余儀なくされた。このような競争は、過去においては会社発展のプラスの面もあったが、漸次広範囲に且つ深刻になるに伴いその弊害が現れてくるに至った。」というものである。
 この言葉から再統合の理由は、主に生産の効率化と経営の合理化であることが分かる。

(2)歴史的経緯を考慮した組織づくり

① 中途半端な事業部制

 複雑な歴史的経緯を考慮し、新生三菱重工業㈱は発足当初、事業部門を船舶、重機械・機械、自動車、航空機、特殊車両の製品別5事業部編成でスタートした。これは「事業部制的運営」と呼ばれたが、経営の合理性・生産の効率性からは中途半端であった。中途半端な事業部制となった理由は、「合併前の3社では、事業所に基盤をおいて組織運営がなされており、且つ多くの事業所が戦後再建経緯をそのままに発展への道を歩み続けてきたため、それぞれ広範多岐に亘る製品機種を生産していたことによる。従って、それぞれの歴史や実情を無視して直ちに再編成することはできなかった」と述べられている。

 この結果、事業計画、製品開発、受注・販売の機能は事業部長の直轄とし、生産関係の機能は、従来通り社長に直結する事業所に属させるが、各製品事業全体としての運営は事業部長が統括するという組織形態であった(図1、表1)。一言で言えば、指揮命令系統がたすきがけの組織となり、業務は階層的、部門的、手続き的、規則重視になったことは容易に想像できる。

〔図1 自動車事業部の組織形態1964.6.1(事業部長の管轄)〕

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出典:三菱自動車工業㈱社史(総務部社史編纂室1993年)

〔表1 自動車生産に関連する事業所と製品(社長の管轄)〕

制 作 所 名

合併前の主な製品

東京製作所

特殊車両、建設機械、各種汎用エンジン、重トラック

京都製作所

自動車用エンジン・部品、各種小型用エンジン、工作機械

名古屋自動車製作所

乗用車(含ジープ)、小型バス、大型バスボディー、

農業機械

川崎自動車製作所

大・中・小型トラック、バス、自動車用エンジン・部品、

各種汎用エンジン

水島自動車製作所

軽4輪自動車を含む乗用車、中・小型トラック、

軽自動車用エンジン・部品

出典:三菱自動車工業㈱社史(総務部社史編纂室1993年)参考に筆者作成

② 自動車技術センターの設立

 技術部門においても1969年に設立された自動車技術センターの内容を見ると組織として非常に中途半端なスタートであった。第一技術部、第二技術部は車体関係、第三技術部はエンジン関係、第四技術部は研究・実験・試作関係を担当した(図2)。しかし、第二技術部は水島自動車製作所の旧技術部門の人員、設備の大半を同製作所に置いたままであり、京都製作所にはエンジン・トランスミッションの技術部門を置いたままであった。
 社史の中には「自動車技術センターは、全体の形としては一大研究所を形成すると言うことには取り敢えずならなかったが、しかし研究・開発・試験担当部門にとっては念願の技術力総結集への風通しのよい体制となった」と述べている。自動車技術センターの設立についても「歴史や実情を無視して直ちに再編成することはできなかった」という歴史的経緯への配慮が現れた結果といえる。
 「仏作って魂入れず」の例え通り、組織体制は整えたが、ヒト、モノ、カネ、情報そして共有すべき企業理念、価値基準が各地に分散されたままの状態であり、そこで働く従業員が一つにまとまるような環境作りには至らなかったことになる。
 こうした事実は、同社の企業文化の形成・進化にとって決定的に重要な影響を及ぼしていくことになった。

〔図2 自動車技術センターの組織図〕

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出典:三菱自動車工業㈱社史(総務部社史編纂室1993年)

6.三菱自動車工業㈱の設立

(1)三菱自動車工業㈱誕生の背景

 三菱重工業㈱の全社売上高に占める自動車部門の比率は、合併初年度1964年の23%から、1968年には28%へと高まった。
 一方で、いっそう競争が激しくなる国内業界にあって、有力メーカーとしての地位を確保し、さらに国際競争力に耐えうる企業体質の強化を図るためには、抜本的な展開が必要であった。そこで出てきたのが自動車部門の分離・独立である。そして1970年、三菱重工業㈱全額出資の会社として三菱自動車工業㈱は設立された。

(2)三菱自動車工業㈱設立に対する思惑の違い

 新会社設立時における三菱重工業㈱牧田社長と三菱自動車工業㈱初代佐藤社長の挨拶から両社首脳が思い描く新会社に対する期待の違いが見えてくる。次に引用する。
 三菱重工業㈱牧田与一郎当時社長の挨拶は、「もとより、自工を別会社にするとは申せ、重工と自工はあくまで一体であり、自工は重工の一翼であると考えているのであります。」というものである。
 一方、三菱自動車工業㈱佐藤勇二初代社長の挨拶は「三菱重工業㈱の一事業部門として推進するよりも、全員が全力を集中しうる強力な専業体制すなわち会社のトップから従業員一人一人に至るまで常に自動車事業を考えこれを推進する体制を確立しなければならない」といものである。
 三菱重工業㈱社長の話からは、三菱重工業㈱の傘下にあるのが三菱自動車工業㈱であり、その一翼を担うことを期待されている。そして三菱自動車工業㈱の初代社長は、自動車業界の現実的な面から自動車専業会社としての業務発展を訴えている。両経営者の間には、企業の根本的なあり方という点で認識の違いを感じる。
 日経ビジネスの「会社の寿命-盛者必衰の理」(日本経済新聞社1984年、31頁)にこんな記述がある。「トヨタ自動車は、創業者豊田喜一郎が親会社である豊田自動織機に安住することを嫌い、一族の意に反しても自分の夢を実現させようとした『独走』がなければ、この世に誕生していなかったはずである」というものである。
 三菱自動車工業㈱は三菱重工業㈱の一員としてスタートし、トヨタ自動車㈱はグループからの独立を目指してスタートしたのである。両社の設立時における根本的な違いを示すエピソードとして面白い。そして現在、彼我の差は歴然としている。

(3)合弁会社としてスタート

 三菱自動車工業㈱は発足当初、三菱重工業㈱とクライスラー社との合弁会社、非公開企業としてスタートしている。
 同社の定款および、取締役会規則は、クライスラー社との基本契約の付属書に規定されており、その変更・改正には必ずクライスラー社側の同意による基本契約の修正が必要であり、硬直的な経営組織形態が浮かび上がる。
 特に合弁事業の運営の考え方においては、クライスラー社側の経営参加を考慮した内容、つまり特定の決議事項については取締役総数の85%、75%、65%を超える賛成を必要とする「特別決議条項」が加えられていた。その後、クライスラー社の経営状態の問題もあり、同社の経営関与は薄らいでいくことになるが、経営の意思決定が複雑に絡み時代の変化に即した対応が遅れがちの原因になったと思われる。
 このように全く企業文化が違う2社、しかもアメリカの自動車産業を担ってきた会社と一方、明治以降日本の殖産工業政策に乗り成長してきた三菱グループ企業の中核である三菱重工業㈱が合弁企業を作ったのである。国の産業史が違い、文化が違い、それぞれ国を代表する企業。それ故、際立って企業文化が違う2社の合弁企業が融合するには難しい状況が当初からあった。
 以上、三菱自動車工業㈱の設立経緯について述べた。次号ではこの設立経緯、つまり歴史的経路依存性と言う視点から同社「企業文化の形成・進化」を考える。

〈後編〉に続く