Vol.179-1 プロ農家としての活動の軌跡と地中熱を使った新しい栽培への挑戦


【山梨県指導農業士会会長 樋口 孝男】

【農業との出会うまでの軌跡】

 私は、都市化が進む昭和町で一応プロ農家をやっております。農業の世界に入ったのは約25年前。東京の大学で電気を学び、学生時代のアルバイトの延長で、地図会社で働いていましたが、地元の親が「山梨に戻って来い」というので、県内の建設会社に勤務することになりました。
 その会社は、橋梁工事を中心に県外での工事も多く、当時右肩あがりの成長をしていました。私はモノづくりの現場に行きたかったのですが、総務とか管理等に回されたため面白いはずもなく、いつ会社を辞めようかと悩んでおりました。
 そんなとき、社長の意向で建設業者特有のどんぶり勘定をやめて、独自の戦略会計システムを作る話が持ち上がり、私がそれを担当することとなりました。
 私は心の中で、これを何とか仕上げて、別の一生続けられる仕事に就こうと戦略を練っていました。会計システムの作成と仕事と並行しながら、一生楽しめて続けられる仕事を探しておりました。今でいえば、自分探しの旅かもしれませんね。

【農業との縁】

 立つ鳥跡を濁さずとは言えなかったかもしれませんが、なんとか建設会社での責任を果たすことができた中、福岡正信氏の「わら一本の革命」の著者(今でいえば、奇跡のリンゴの木村秋則さん)に感動した私は、何のあてもないのに、農業をやろうと決意しました。運命を変えた本でした。
 当然、周囲は大反対でしたが、私は、早朝は魚市場で働き、昼はファミレスで働きながら、実家を出て、農業の道筋を描こうと画策しておりました。当時の私の状況では、農業の道へ進むことは大変困難でありましたが、農業をやりたいという強い夢をあきらめずに頑張っておりました。
 そんな中、決心してから一年も経たない内に、会社をやめるのに大反対だった母の実家にいる叔父から、「息子たちは3人いるが、誰も後を継ぐ者がいない。農業は大変だけどやる気があるなら、うちで農業をやってみるか」という話がありました。

【営農開始】

 施設園芸(40a)と柿(40a)を作付している峡中地域(昭和町)の農家でした。最初は家出同然で実家から出て、町内のアパートから叔父の家に通勤して営農していましたが、叔父の息子との同意が得られたので、叔父の家に入ることとなりました。地域の組合に入れてもらってからは、叔父から「ここは、市街化調整区域で、今後も開発の見込みがなく、ずっと農業ができるので、お前がずっとここでやってくれ」と言われるようになってきて、叔父の代わりに地区の役回りを引き受けることも多くなってきました。

【試行錯誤と経験の積み重ね】

 全く農業の経験がなかった私は、理解できないことだらけで、市販の農業書や県の農業指導機関である峡中農業普及所等の教えを乞いながら、悪戦苦闘しつつ、なんとか叔父から引き継いだ仕事をこなしていきました。
 農作業にも慣れた数年後、昭和町にバブルの波が現れて、甲府市内の病院が叔父の柿畑に移転してくることになりました。これを機に柿栽培はやめて、収益性の高い夏秋ナスと野菜苗作りに移行しました。
 施設園芸に加えて露地栽培(夏秋ナス)を導入することは、農業経済的な面だけでなく、年間の労力分散を図る上でもメリットがありました。当時は、農業でよく使うA重油の価格は現在よりもずっと安価で、50円/㍑前後でしたから、施設園芸の経営は安定していました。しかし、施設内では真夏は暑すぎて作業できないので、夏場に露地で作業でき販売価格も安定しているナスの栽培が、ピタッとはまったのです。
 長年様々な作物を栽培してきた叔父も「ここ飯喰(昭和町)では、ホウレンソウやキャベツはガラクタ野菜だ」と言っておりました。自給的な野菜ではなく、市場出荷を狙ってお金を稼ぐべきという意味です。そういう意味で、暖房機を利用して単一作物を効率よく栽培して栽培回数を増やす施設園芸や、収量性の高い露地のナス栽培のほうが効果的だったのです。

【開発の営農の狭間で】

 叔父と話し合いながら、農地の土づくりや施設の整備等を進め、農業者としての経験を重ねている中、農業に理解がある妻と出会いました。結婚後、妻にも農業を手伝ってもらいながら、充実した農業ライフを送っておりましたが、そこに昭和町のあの巨大ショッピングセンターの区画整理の話が降ってきたのです。
 開発にあたり、地域やスーパー側と協議を重ねましたが、結局長年かけて土づくりを行ってきた圃場や施設をすべて取り壊しました。区画整備で50%ぐらいの減歩を受けましたが、スーパー側が土地を賃借することで話がまとまり、昭和町の飯喰地区の農地は無くなりました。
 私は、農業は農村地域のグランドデザインであり、地域のコンセンサスとともにあるものだと考えております。叔父の所で地域の役回りをさせてもらい改めて分かったのですが、皆で支え協力していかねば、地域農業は成り立ちません。当時の飯喰集落には、私以外に農業後継者はひとりもおらず、もはや農業を中心としたデザインを描くのは難しい状況でした。
 それでも、私は農業を続けようと、飯喰地域内で新しい農地を探そうとしましたが、困ったことに、地下水位が高い私の集落の近くでは、地下水排水設備等も含めると費用がかかりすぎ、施設栽培に適する土地がありませんでした。
 そんな状況の中、私は昭和町内の他地域で農地を借り、栽培品目もこれまでとは異なる酒米の栽培や、直売所での販売を行うための多くの品目を少量ずつ栽培する「少量多品目生産」に挑戦しようと決意しました。高齢化した叔父は農業から離れ、妻もパートを始め農繁期のみ農業と手伝うことになりました。

【最先端農業への挑戦~地中熱利用型ヒートポンプ】

 そんな折、県から「地中熱利用型ヒートポンプを利用した越冬トマト栽培を行うので、協力してもらえないか」という依頼がありました。甘くておいしいトマトは越冬栽培に限ると思っていた私は、二つ返事でこの依頼を引き受けることとになりました。
 この実験は、地中熱利用型ヒートポンプを農業用に導入してCO2発生量60%カットとランニングコスト40%カットを目指すものでした。
 山梨の年間気温は、夏は35℃、冬はマイナス10℃近くになりますが、地中の温度は、年間14℃~15℃でほぼ一定です。また、地中熱利用型ヒートポンプは、電気型のものと違い、デフスト(霜取り)や圧縮運転にかかる電気量も抑えられるし、最終的に熱を地中に戻すので、ヒートアイランド現象の対策にもなります。
 今回の実験で使ったヒートポンプを構成するコンプレッサーなどの機材は、中国のある企業の製品(写真1)で度重なる故障に悩まされました。加えて、一度トマトに甚大な被害をもたらす葉カビ病が大発生して、樹勢が弱くなったこともありましたが、これまでの経験で培った病害虫防除技術をフル活用(化学農薬と微生物農薬(納豆菌)の併用、耕種防除)して、実験を継続させ、なんとか実験は成功しました。

【写真1】中国製のヒートポンプ

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 今回の実験では、空気だけを暖める従来の温室ハウスとは異なり、ヒートポンプによりハウス内の土壌も併せて加温しました。暖められた土壌の中でトマトの根の活動が活発となり、真冬でも真夏の様な樹勢の強いトマトになりました。
 また、ヒートポンプは加温だけでなく、冷却も可能ですので、その特性を生かして真夏に栽培が難しいトマトでもヒートポンプを導入することで真夏の栽培ができるかもしれません。ハウス全体の冷却はエネルギー的にロスが大きいので、イチゴでの事例のようにトマトの株元のみの冷却する実験を行おうと計画しています。これによって花芽分化や着果の安定効果を確認することができれば、もっともっとトマトの生産効率が高まっていく可能性があります。

【自然エネルギーの農業生産への導入】

 施設園芸で使う農業用暖房機の燃料のA重油は過去50円/㍑でしたが、昨今は95円/㍑前後と高騰し今後も下がることもないでしょう。安定的に施設園芸を行っていくためには、燃料費等のランニングコストを低減していくことが必要です。
 地下水熱利用型ヒートポンプは、これまで未利用だったエネルギーを取り出し、農業生産に活用することでランニングコストの低減(約50%減)が図れますし、最近では、性能もよく故障も少ないメイドインジャパンの製品(写真2)も出回っていて、導入するメリットは十分あると私は感じています。

【写真2】日本製のヒートポンプ

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 今冬は太陽温水器をこのシステムに組み込むことで、真冬でも60℃の温水を得ることが でき、さらにシステムの性能が向上しました(写真3)。

【写真3】太陽温水器と熱交換器を合わせたシステム

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 導入・普及に向けての問題は、初期投資が現時点ではまだ高いということですが、自然豊かな山梨では、未利用の自然エネルギーを農業生産に活用していくことが、農業経営につながり、山梨県農業の特色を出していくことにつながっていくと私は考えます。

【最後に】

 最後に、文頭に一応プロ農家ですと言ったのは、プロ農家なら自分が所有する畑や施設があって当然だと思ったからです。農家にとって、土づくりとは永遠のテーマとも言ってよい位奥深いもので、自分の畑や施設で土づくりを日々研究して、改良していくものです。
 前述したように、私の畑や施設は現在大型ショッピングセンターの敷地になり、休日ともなると私のハウスがあった場所に多くの若者が車やバスに乗って訪れています。
 私はそんな様子を眺めながら、この地域で育った農業者として、この地域が望んだ豊かさとは一体何だったのだろうかと常に思います。
 確かに十分物質を消費する豊かさはあるが、昭和の時代のように不自由さを抱えながら、みんなが豊かさを何とか作りだそうと努力していた頃のほうが、今の豊かさより、よっぽど豊かだったと思わざるを得ません。
 私は一応50半ばのプロになり切れていない農家ではありますが、今後の人生をかけて魅力あふれる農業を再構築していき、若者から老人までが「豊かさ」を実感できる地域にしていきたいと思っています。