Vol.179-2 三菱自動車工業㈱に見る企業文化の形成・進化〈 後編 〉


公益財団法人 山梨総合研究所
専務理事 福田 加男

1.はじめに

 同社設立の経緯には、複雑で特殊な歴史的経路が際立っていることを前号「前編」で述べた。今回は、同社の「企業文化形成・進化」を歴史的経路依存性という視点から考えてみたい。
 例えば、その設立経緯から三菱グループと親会社である三菱重工業㈱の企業風土・企業文化の影響を受けながら三菱自動車工業㈱独自の企業風土・企業文化を築くものと考えるのが一般的である。しかし、社史から同社の企業文化形成・進化を概観する限り、残念ながら独自の企業理念もなく、従って、経営者から従業員に至るまで共有され、実践され、継承される行動規範も芽生えることなく、強大化した親会社の「官僚的企業文化」の様相を当初から引き継ぐことになったようである。従って、革新性に乏しく、常に過去の経緯を考慮した経営戦略や組織作りが優先された。また、組織構造や上下関係は階層的であり、部門指向型、安全・規則指向型、手続き指向型であったことが見えてくる。
 2010年2月、筆者が実施した「山梨県の中小企業経営者が自社の企業文化をどのように認識しているか」のアンケート調査結果から導き出された企業文化の形成要件として①企業理念の伝播は身近なコミュニケーションから、②企業の一体感の構築、③企業理念の浸透が重要であることが示された。このアンケート結果とは対極にあったのが三菱自動車工業㈱であった。それは企業文化の前提である企業理念が三菱重工業㈱からの借り物でスタートし、企業としての一体感は最後までなかったことから理解できる。

2.歴史的経路依存性からの考察

 勝又壽良・篠原勲著「企業文化力と経営新時代」によると「一般的に企業経営を論じる場合、利益率などを対象にして議論するのが普通である。しかし、『歴史的経路依存性』の言葉に表されるように、その企業がどのような発展コースを辿って、現在に至っているかという視点も極めて重要になってくる。1993(平成5)年、ノーベル経済学賞を受賞したD・Cノースが、この『歴史的経路依存性』という言葉を用いて一国経済発展の過程を論証した。これと同様な手法を『企業文化』という概念を通じて企業発展の過程に適応してみると、有益な結論が導かれるのである。」と言っている。
 この経路依存性とは、歴史的な経路によって現在は制約を受け、将来もその制約を受けるというものである。従って、三菱重工業㈱の一部門から分離・独立した三菱自動車工業㈱の設立経緯からすると、同社の企業文化を考える上で、三菱重工業㈱を抜きにできない。つまり同社の企業文化は三菱重工業㈱の歴史的経路の延長線上にあると言える。この歴史的経路依存性理論により、三菱自動車工業㈱の企業文化形成・進化に影響を及ぼした要因を考えることは有意義である。
 そこで、三菱グループの創設者である岩崎兄弟の基本的な考え方から辿り考察する。そして特異な事象として企業文化形成の根幹となる「企業理念」が親会社である三菱重工業㈱の借り物として社是及び、社規が継承された事実を指摘しておく必要がある。

(1)岩崎弥太郎の基本理念

 社史によると岩崎弥太郎の基本理念は、「国家的産業の建設」である。これはグループ内において、生産・流通・金融の三部門にわたる企業体制の構築を指向したものである。この思想の帰結として、各個別産業の中において三菱グループ傘下の企業は重要な地位を占める必要があり、これ等企業の集合体としてのグループ力結束により国家的産業の建設を目指すことになる。
 この思想の延長線上に自動車部門においては、三菱グループの名誉にかけてトヨタ自動車㈱、日産自動車㈱に続く業界第3位の地位確保が最重要課題であったことが伝わってくる。また、次のような経営陣のエピソードからは、三菱グループとしての名誉、誇りに対する意識がどのようなものであったか推測できる。
 1950年代半ば、新三菱重工業㈱の経営陣の間に自動車参入について2つの意見があった。一つは、「超小型車によって、早く乗用車市場に参入すべき」と、もう一方の上層部には「三菱が、しかも遅れて参入するからには、最初からドイツのベンツ車に匹敵するような超高級車の生産から出発すべき」という強硬な意見であった。この論争は激しく、歴史の一こまとして今も語り継がれていると社史に記されている。
 実に、「国家的産業の建設」を目指す三菱グループの体質、文化が理解できるエピソードである。

(2)岩崎小弥太の基本理念

 三菱合資会社4代目社長岩崎小弥太の信条は、事業を通して国家社会に貢献することであった。次の3つの基本理念がいかにも小弥太の思想を表している。

  • 国家社会に対する奉仕
  • 商行為の公明正大
  • 政治への不関与

 第1綱は、事業経営は国家社会に対する奉仕でなければならないと言う国家的事業感であり、創業者・岩崎弥太郎が理想とした信条と同じである。第2綱は、事業を経営し、如何なる場合にも不正不義に渉ってはならぬということである。
 第3綱は、「実業家は実業に専念すべきであって、政治に関与し政党に接近するが如きは実業家の使命の逸脱であり、あくまで自家の純粋性を保持し政治の干渉は寸豪も受けてはならない」と説いている。

(3)親会社の社是でスタート

 企業文化形成の上で必須条件である企業理念は、三菱重工業㈱からの借り物であった。

 ○ 社是(三菱重工業㈱と同じ社是)

  • 顧客第一の信念に徹し、社業を通じて社会の進歩に貢献する
  • 誠実を旨とし、和を重んじて公私の別を明らかにする
  • 世界的視野に立ち、経営の革新と技術の開発に努める

 ○ 1980(昭和55)年、三菱自動車グループの行動指針として「私たちの指針」が制定された。

  • すぐれた品質の個性ある車を創り出そう
  • いつもお客様の身になって考え行動しよう
  • 頭と体を使い協力して会社のために働こう

 放送大学教授である吉森賢氏は「企業文化の上位概念として企業理念がある。企業理念が企業内の大部分の構成員により合意され、共有された場合、企業文化となる」と、企業文化と企業理念は強い相関関係にあることを述べている。三菱自動車工業㈱の場合、当初から独自の企業理念は存在せず、従って独自企業文化は形成されることが難しいことになる。

(4)親会社の社規でスタート

 1970(昭和45)年、三菱自動車工業㈱発足時には、社規、標準などについては「株式取扱規則・自動車技術センター設置の件・臨時新鋳造工場計画室設置の件・外注業務規則を廃止し、その他については三菱重工で施行されていた社規全部を襲用する」とされた。
 その後、経営実態に合わせて改正が行われてはいるが、新たに会社設立するに当たっては、新会社の存在意義に相応しい社是、規則等が必要である。しかし同社は違った。ここにも三菱重工業㈱の一部門としての位置づけは強く感じられるが、一企業としての強い独立心の姿勢は感じられない。
 こうしてスタートした会社に独自の価値基準や、社長の理念、価値観、会社全体に亘る企業風土、企業文化が芽生えるか甚だ疑問である。

(5)独自の企業文化は形成されなかった

 岩崎兄弟の基本理念は、明治人らしく壮大であり、普遍的な理念である。しかし、素晴らしい基本理念も複雑で特殊な歴史的経緯から三菱重工業㈱、三菱自動車工業㈱へと継承されることにはならなかった。
 企業風土や社風あるいは、企業文化は、企業の経営者から従業員に至るまで平素の意思疎通をいかにして図っているかが重要な要件である。このことは、県内企業に対するアンケート調査結果(2010年2月)からも明らかになった。規模の違いはあっても、企業あるいは、構成員である経営者と従業員が共有してきた体験が重要な意味を持つことになる。
 しかしながら同社にはそれが生ずるような環境になかった。「一つ屋根の下に多数の会社(製作所)が同居」といった形態である。従って、各製作所単位では企業風土、あるいは組織文化は形成されたが、三菱自動車工業㈱としては、その歴史的経路性から企業理念を核とした企業文化が形成されにくい環境にあったといえる。
 それは、企業文化が形成される上で欠かすことができない共有すべき社是(企業理念)は三菱重工業㈱からの借り物であり、独自の車作りの理念、信条、共通の価値基準が芽生えることはなかったからである。合わせて、先述した複雑で特殊な歴史的経緯が加わり、独自の企業風土・企業文化が形成されるまでに至らなかったと言える。

3.歴史的経路依存性の事象

(1)三菱グループの一構成員としての存在意義

 三菱自動車工業㈱の親会社である三菱重工業㈱は、日本を代表する企業であり、また三菱グループは日本の最有力な財閥の一つである。こうした組織体、グループ企業が戦争という特殊な時代を経験し、歴史に翻弄されながらも時代の要請に応えようと奮闘する姿勢、企業の発展に努力した姿が社史から理解できる。
 しかし残念なことは、時代に適応しようとする過程で三菱自動車工業㈱を一つの独立会社として育て発展させようとする姿勢は見えてこない。それは、三菱グループの中で三菱自動車工業㈱の位置づけをどうするかといった経営判断と自動車事業部門の複雑な歴史過程が錯綜し、結果的に真の独立会社とはならなかったのではないかということである。それは以下のことが象徴的に示唆している。

(2)チェスブロー氏の助言が意味するもの

 1974(昭和49)年、事業部組織から機能別組織へ転換した。背景には元クライスラー社副社長チェスブロー氏による助言があった。同氏は、三菱自動車工業は未だ「場所別運営」(各製作所のことと思われる)の色合いが濃いことから、直ぐに中央集権化、機能別組織化の必要性を訴えた。これにより各製作所間の横串、システムの一本化、情報の一元的把握、人材の有効利用等のメリットを説いた(図3、図4)。
 このことは、まさに三菱自動車工業㈱がその歴史的経路の中から行き着いた企業であることを象徴する助言である。つまり、三菱重工業㈱の時代から製作所中心の組織体制、生産体制、管理体制、経営体制、組織文化であり、それは三菱自動車工業㈱の時代にまで連綿として生き続けていたことになる。

[図3 三菱自動車工業(株)発足時の組織図]

179-2-1

出典:三菱自動車工業㈱社史(総務部社史編纂室1993年)

 

[図4 機能別に移行した組織図]

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出典:三菱自動車工業㈱社史(総務部社史編纂室1993年)

(3)設立21年後にして普通の会社組織となる

 1991(平成3)年には、発足以来最大規模の組織改革を行った。この時、特に変化したのが製作所の位置づけであった。古くは、旧三菱造船㈱あるいは、三菱重工業㈱時代から、そして三菱自動車工業㈱発足後も各制作所長が生産設備、人などを総合管理し製作所単位での採算把握が行われていた。これら製作所長に集中していた責任と権限を、全部門・全機能にその責任を分担し、それを社長直結の経営管理部門が取りまとめることに改めた。こうして、製作所は最大の効率で計画通りに生産を遂行し、且つ品質を確保するという本来の機能に徹底的に集中することとなった。
 当時の社長中村裕一氏は、メッセージを社員に送っている。少々長文であるが、同社の体質を考える上で重要であるため引用する。
 「従来は、社長に直結した各製作所がそこで生産する製品の採算について取りまとめ責任を持つ形で運営してきました。これによって、生産現場である所全体の意欲を盛り立てて、結束力を強めることができた反面、複数製作所にまたがる生産調整や、予期せぬコスト変動、損益悪化に対し、全部門が協力して環境変化に機敏に対応しやすい組織とは言い難い面もありました。これを改善するために製作所は、品質の良い商品を最大の効果で計画通りお客様に提供できるよう生産という機能に徹底的に集中して事が考えられるようにします(中略)。製作所長の責任と権限を少し狭めることが、逆に所全体のまとまり、やる気を殺ぐことにならないかを危惧する向きもあるかと思いますが、わが社は自動車専業企業で、三菱重工業㈱のように各種製品を生産している企業と異なり全社員が自動車の事業性・採算に関してまったく同一意識での重要性を認識していますので、製作所長だけに特にその責任と権限を集中する必要はなく、全部門・全機能でその責任を分担し、それを社長直結の経営企画部門でまとめていこうとするものでありますから、その心配はありません」というものである。

(4)製作所単位の帰属意識

 元クライスラー社副社長チェスブロー氏による助言あるいは、三菱自動車工業㈱が設立し21年経過後の組織変更に際し、あえてこのようなメッセージを送らなければならなかったことは、同社の経営者から従業員に至るまで、事業に対する認識、企業の進むべき方向性に対しまとまりに欠けていたことの証左ではないだろうか。つまり、「三菱自動車工業㈱」としての経営者、従業員であるという帰属意識が希薄であり、従業員の帰属意識は「製作所単位」であることを思わせるような内容である。この要因の一つが何回も触れている歴史的経路依存性によるものである。

4.三菱自動社工業株式会社のリコール問題

 一般的に三菱グループ企業には、大学卒業の優秀な人材が豊富であることは間違いない。三菱自動車工業㈱においてもその通りである。こうした優秀な人材が豊富である企業において何故あのようなリコール隠し問題が発生し、企業存亡の危機に至ったのか不思議である。

その要因は、主に三菱グループおよび、三菱自動車工業㈱の歴史的経路の問題に求めることができるのではないだろうか。その概略を次に記す。

  • 親会社である三菱重工業(株)は、戦前・戦中・戦後を通じて日本を代表する技術重視の企業であり、トップレベルの技術者が存在している。技術重視の企業にありがちな研究・開発スタッフと生産ラインの間に不協和音が発生しやすい。つまり、誇り高い研究スタッフには、現場のラインや顧客の声は届きにくく、市場から離れてしまい独善的に陥りやすい組織であった。
  • 戦前・戦中・戦後を通じて、製作所ごとに生残りをかけた経緯があった。その体験から各製作所は独立会社に近い組織となっており、各製作所に生じた強い連帯感とそれぞれの価値基準、組織文化が存在していた。
  • 分離・独立後も三菱グループ企業が株を持ち合い、中でも三菱重工業㈱の子会社的位置づけであり、経営の意思決定は制限され続けていた。
  • 三菱グループの名誉にかけて業界第3位の地位確保のために、三菱重工業㈱から通称「コルト部隊」と呼ばれたセールスマン250名が選抜され3年間、販売会社に送り込まれるなどグループ優先の組織文化があった。
  • 三菱グループ、三菱重工業㈱、クライスラー社、各製作所の風土の存在など、統治しにくい形態があった。ここでは、それぞれの思惑や価値観が錯綜しており、一つの価値基準に向かって歩むことは不可能に近かった。
  • 業種、業態、企業規模あるいは、企業設立後の年数によって企業が求める価値、目指すべき方向性は違っているはずである。しかし、同社の場合、グループ、親会社の価値基準の中で一律に括られてしまい、独自の企業価値基準や企業文化は育ち得なかった。こうして同社は、手続きや規則を重視し、部門指向的な「官僚的企業文化」のまま時間が流れていった。
  • その帰結として1970年代から約30年間にわたり、10車種以上、約60万台にのぼるリコールに繋がるクレームを運輸省(現国土交通省)へ報告せず社内で隠蔽していた事実が運輸省自動車交通局のユーザー業務室になされた匿名の内部告発で発覚することになった。

5.まとめ

(1)共有すべき理念・価値観の欠如

 三菱自動車工業㈱の設立に至る経緯は、既述したように特異である。三菱重工業㈱時代の自動車事業部門としての生産現場は、開発・生産体制、人事制度、組織体制に至るまで、各地に分散している製作所が一つの独立会社のような組織となっていた。当然、経営上の意思決定についても製作所長が大きな権限を持っており、社長および本社管理部門との意思疎通はあったであろうが、企業としての意思決定プロセスは不明瞭であった。
 三菱自動車工業㈱として分離・独立した後においても、三菱重工業㈱の子会社、あるいは三菱グループを構成する一企業との位置づけから三菱自動社工業㈱の社長は、経営上の意思決定を下す場合、常に三菱グループ、あるいは三菱重工業㈱の意向を少なからず考慮していた。これは株主構成からも当然の帰結である。こうした環境下で通常の企業のように経営トップの考えがスピード感を持って従業員に伝わるとは考えにくい。
 つまり、従業員の立場から考えた時、三菱グループの意向は何か、あるいは実質的親会社である三菱重工業㈱の社長の考えは何か、その後に三菱自動車工業㈱の社長はどのように考え、どのような指示を出すのかと考えたに違いない。
 三菱自動車工業㈱の経営トップとしてのリーダーシップは発揮しにくい環境であったと言え、こうした企業に風土はあっても、企業文化にまで昇華し得ないといえる。

(2)独自の企業理念制定と新たなスタート

 同社は、2000年にリコール隠し事件が発覚し、国土交通省や警視庁の強制捜査を受けた。さらに複数の役員が逮捕されるという事態に陥り、ユーザーの信頼を失い販売台数は激減、ダイムラークライスラーから資本提携を打切られるなど深刻な経営不振に陥った。
 このリコール隠し問題を契機に、三菱グループの三綱領(所期奉公・処事公明・立業貿易)の精神と伴に、同社の存在意義と進むべき方向を明確にするために2005年1月に企業理念を制定している。その企業理念とは「大切なお客様と社会のために、走る歓びと確かな安全を、こだわりを持って提供し続けます」と言うものである。そして、すべての企業活動は、この企業理念に基づいて進めることを宣言している。このことは、同社がリコール問題を契機として企業文化の重要性を再認識した結果であろうと推察できる。

〈 参考文献 〉

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三木佳光,その企業らしさの経営とは―企業DNA(遺伝子),文教大学国際学部紀要
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