Vol.199-1 俳人飯田蛇笏、龍太父子の居宅を守る


~山廬文化振興会の役割について~

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一般社団法人山廬文化振興会 理事長 飯田 秀實

はじめに

 山梨は江戸時代から俳句が盛んな地域だった。特に幕末から明治にかけては、各地で活発に句会が催され、俳句熱が高まった時代でした。そんな中、日本を代表する俳人飯田蛇笏が誕生しました。そして、その流れは四男の龍太に継がれ、2人は大正・昭和の俳壇を牽引しました。二人の俳人が暮らした居宅は今も住宅として残っています。
 この居宅や敷地の維持管理について、一般社団法人山廬文化振興会理事長で、山廬当主、龍太の長男の飯田秀實が報告します。

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飯田蛇笏(いいだだこつ)

 俳人飯田蛇笏は1885(明治18)年4月、山梨県東八代郡五(ご)成(せい)村(むら)小黒坂(こぐろさか)(現笛吹市境川町小黒坂)に生まれた。本名は武(たけ)治(はる)。俳号山廬(さんろ)とも称する。
 飯田家は農家であるが、地元で代々名主を務める家柄で、武治はその長男として育った。小さいころから大人に交じって俳句に親しみ、月並俳句の句会に参加していた。

もつ花におつるなみだや墓まゐり

9歳の時の作品である。
 その後山梨県尋常中学校(のち甲府中学校)に進学、校友会雑誌に小文を発表している。1904(明治37)年、東京の京北中学校に転入し、ここでも校友会雑誌に詩や俳句を発表し、後輩の日夏耿之介(ひなつこうのすけ)らと交流する。翌年早稲田大学に進み「早(わ)稲(せ)田(だ)吟(ぎん)社(しゃ)」に参加、中心的な活動を行う。同年齢の若山牧水と親交を深め、一時期牧水は蛇笏の下宿に同宿する。このころ俳句のほか、詩作、小説に傾倒し「文庫」「新聲(しんせい)」などに作品を発表している。そして1908(明治41)年、高浜虚子の「俳諧散心(はいかいさんしん)」に参加し、俳句に没頭するが、翌年早稲田大学を中退し帰省する。蛇笏の帰省を惜しんだ牧水は、蛇笏に再度上京を促すため、境川村小黒坂まで足を運び11日間蛇笏宅に逗留し、説得に当たったが、蛇笏はそれを拒み、以来死去するまで小黒坂の地を離れることはなかった。
 虚子の俳壇復帰と共に蛇笏の俳句活動も活発となり虚子主宰の「ホトトギス」において第1席である巻頭を度々飾り、ホトトギスの代表俳人の一人となった。1915(大正4)年愛知県で雑誌「キララ」が創刊され、第2号から俳句選者となり、1917(大正6)年には主宰に就いた。そして「雲母(うんも)」と改め、名実ともに主宰者として俳人の道を歩み始める。1932(昭和7)年第1句集「山廬集」出版。その後、句集は「霊芝(れいし)」「山響(こだま)集(しゅう)」「白嶽(はくがく)」「春蘭(しゅんらん)」「雪峡(せっきょう)」「家郷(かきょう)の霧(きり)」を発行。評論集「俳句道を行く」随筆集「穢(え)土(ど)寂(じゃっ)光(こう)」「土(つち)の饗(きょう)宴(えん)」「美(び)と田(でん)園(えん)」など多数出版された。
 1962(昭和37)年10月3日自宅で死去、77歳。没後句集「椿(ちん)花(か)集(しゅう)」「飯田蛇笏全句集」が出版された。角川書店(現角川文化振興財団)が「蛇笏賞」を創設し俳壇の最高賞となっている。

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飯田龍太(いいだりゅうた)

 1920(大正9)年7月、山梨県東八代郡境川村小黒坂(現笛吹市境川町小黒坂)に蛇笏の四男として生まれる。
 小学校のころから国語に秀でており、小学校1年の時作文で表彰される。甲府中学校に進学、友人の俳句添削などを依頼される。1940(昭和15)年、折口信夫(おりくちしのぶ)に惹かれ國學院大學に進むが、肺浸潤、肋骨カリエスなどを患い大学を休学。帰省し、農業に従事する中、農業雑誌「農業世界」に論文を応募し入選する。大学卒業するも兄3人が病死、戦死と相次いで命を落とし、飯田家の跡を取ることとなる。
 このころから本格的に俳句に専念し、1954(昭和29)年、第1句集「百戸(ひゃっこ)の谿(たに)」を出版。蛇笏主宰の「雲母」の編集に携わる。蛇笏没後「雲母」を継承し主宰する。句集「童眸(どうぼう)」「麓(ふもと)の人(ひと)」「忘音(ぼうおん)」「春の道」「山の木」「涼夜(りょうや)」「今昔」「山の影」「遅速(ちそく)」を出版。また随筆集「無数の目」「思い浮かぶこと」などを刊行。
 第1回山日芸術賞文学賞、読売文学賞、日本芸術院賞恩賜賞受賞。紫綬褒章受章。日本芸術院会員。
 1992(平成4)年8月、「雲母」900号をもって終刊する。2005(平成17)年「飯田龍太全集」全10巻が刊行される。
 2007(平成19)年2月25日死去。86歳。

山廬(さんろ)

 飯田蛇笏の別号であるとともに、蛇笏、龍太の居宅及び敷地を総称した名称。「山廬」という呼称は、蛇笏が「山の粗末な建物」と自らの居宅、あるいは「そこに住むもの」としてつけた造語である。俳句を揮毫した際には、「蛇笏」のほか「山廬」「山廬主人」としている。
 居宅としての山廬は江戸時代の建物で、養蚕地方の農家の造りとなっているが、特徴的なのは飯田家が代々名主の家柄だったことから、武家階級に許された「式台玄関」(武士など身分の高いものが出入りする玄関)や、書院式の座敷を備えていることである。正確な建築年代は不明であるが、江戸時代後期とみられ、柱や梁、内部の壁などはほぼ建築当時のままである。屋根は明治期に「草葺」から「瓦葺」に変えられ、この際周りが漆喰で塗り直された。その後1998年に瓦葺から軽量の合板葺に変えられた。母屋はいずれも10畳の間取りで、土間などを含め建坪は50坪。付属の建物として「文庫蔵」「新座敷」などがある。
 中門脇の赤松は樹齢350年以上と推定され、四方に枝を広げた見事な姿で、一般住宅の庭木としては極めて稀な古木である。
 住宅北側には竹林が広がり、そこを狐川という笛吹川の支流が流れている。川に架かる橋を渡ると雑木林が広がり、蛇笏、龍太はここを後山(ござん、こうざん)と呼んだ。中腹には蛇笏揮毫による江戸時代の俳人で甲州出身の山口素堂の「眼には青葉山ほととぎす初松魚(はつがつお)」の句碑がある。山廬全体の面積は約3,300坪である。
 現在も当主が住宅として使用しているため通常は非公開となっている。

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山廬全景

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式台玄関

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座敷

山廬の維持管理と公開の現状について

 江戸時代の建築物とそれに付随した蔵などがあり、また庭木も樹齢350年の赤松をはじめ、黒松や樹齢100年以上の躑躅(つつじ)、木犀(もくせい)などの大木があり、竹林や後山の手入れなど維持管理にはかなりの時間と手間を要している。これまでは所有者である個人が行っている。
 山廬は、蛇笏、龍太が生涯を過ごし、数多くの作品を残した地であることから俳人、俳句愛好者の間で「俳句の聖地」と言われている。それだけに山廬の見学や吟行(ぎんこう)(散策しながら俳句を詠む)を希望される方は多いが、住宅として使用している関係上、常時公開することは不可能で、通常は邸内非公開としている。しかし希望者の要望に応えたいという当主の考えから、グループでの見学や吟行、句会の要望には対応している。たとえば10人前後から20人前後のグループならば事前に打ち合わせの上、日時を決め、当主が邸内を案内する。
 当主の先導のもと母屋に上がり蛇笏、龍太が使用した書斎、多くの文人、俳人、歌人と座談した座敷を見学し、竹林から後山を散策しながら四季を楽しむ。個人や多人数の場合は案内する都合上断らざるを得ない場合がある。また、少しでも蛇笏、龍太の世界を知ってもらうため、短時間での見学も断っている。1時間半ほどの時間をみてもらっている。1日1組の案内となっているため、見学者は大変満足している。

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山廬書斎

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山廬邸内(土間より)

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山廬後山

山廬文化振興会の設立と役割

 山廬の維持管理と、蛇笏、龍太そして二人が主宰した俳誌「雲母」を永く伝承し、また多くの方に理解してもらうために、どのような手法を取ってゆくべきか、数年をかけ検証してきた。山廬の家屋や土地は文化財等の指定は受けていないが、大正、昭和、平成と俳壇を牽引してきた俳人二人の文化活動の拠点という文化的価値は極めて高く、また、2代にわたり生涯をその地で過ごしたというのも稀有である。その意味でも保存は大きな意味がある。個人所有との兼ね合いも大きな課題だった。これらを総合的に判断し、個人が所有管理することと、法人による維持という2本立ての手法を検討した。法人は非営利型の一般社団法人とし、趣旨に賛同してくれる個人を中心とした賛助会員を募り、会費による運営を目指すこととした。
 2年ほどの準備を経て、2014年4月26日、蛇笏生誕の日に「一般社団法人山廬文化振興会」を設立し、現在600人を超える方が賛助会員となっている。また、法人の役員、正社員15名が「運営委員」となり、山廬の維持や文化活動の企画運営、会報の発行などを行っている。

俳諧堂の復元

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俳諧堂での蛇笏 1918(大正7)年

 この蔵は第二次大戦後の農地改革で飯田家の穀物蔵としての使命は終わり、解体され別の所有者の元「蚕室」と山廬の邸内南西側に1940年代後半まで2階建の蔵が建っていた。1階は穀物蔵として使い、2階は20畳ほどの板の間となっていた。大学を中退し、名主の長男として家督を譲り受けた「武治」であったが、「蛇笏」として俳句を中心に作家活動を精力的に行っていた。その俳人としての活動の場が蔵の2階だった。「俳諧堂」と称して文筆活動の場とするとともに、近隣の農家の男たちや、学校の教員、僧侶などを集めて句会を開いた。泊まり込みで句会を開くこともあり、寝具一式が常備されていたという。1910(明治43)年9月、若山牧水が蛇笏再上京を促すため山廬に来た際、寝泊まりしたのも俳諧堂である。滞在は11日間だった。ホトトギスにおいて蛇笏とともに活躍した前(まえ)田(だ)普(ふ)羅(ら)や、多くの俳人がここでの句会に参加した。雲母の鍛錬句会であり、寒夜連日行うことから「寒(かん)夜(や)句(く)三(ざん)昧(まい)」という一大行事の発祥も俳諧堂からである。
 して移築された。その後養蚕業は終焉を迎え、この蔵は農機具置場に変わったが、修繕もされないままの状態が続き、近年損傷が著しくなっていた。仲介人の働きで、2013年所有権の移転と解体を行った。2014年の大雪で崩壊を免れたのは幸いだった。現在は飯田家所有の元、伝統的建造物の復元を手掛ける甲州市の「伝匠舎」が調査保管している。山廬にあったころの図面が存在し、また龍太が撮影した1940年代初めの写真も発見できたことから、蔵の復元に向け設計図の作成が可能となった。現在山廬敷地内の復元場所の検討と復元資金について検証を行っている。
 2015年は「雲母」の前身である「キララ」が創刊されてから100年になる。これを一つの節目として復元に向け具体的に動き出す年となる。

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幕末の家相図

明治の家相図

俳諧堂写真(龍太撮影)
1942(昭和17)年

2枚の家相図は南北逆)