Vol.205-1 西嶋和紙について
西嶋和紙工業協同組合 代表理事 佐野 和保
1.西嶋和紙の歴史
(1)信玄公の時代
西嶋和紙は言い伝えによると、戦国時代に紙祖望月清兵衛翁が伊豆国田方郡(たがたぐん)立野村(たてのむら)(現在の修善寺町)で三椏(みつまた)[1]を原料とした「修善寺紙」の製法を学んで持ち帰ったことに由来しています。当時の西嶋村は、農業を行うには地理・地形的に恵まれておらず、厳しい土地柄でありました。翁は鎌倉時代すでに幕府の御料紙として生産されていた修善寺紙の技術を学ぶために、彼の地に赴き、その技術を身につけ、持ち帰りました。そして、西嶋の経済的自立を図るために、村民たちに紙漉きの技術を伝えました。
元亀2年辛未(かのとひつじ)(1571年)、西嶋で初めて和紙を製造し、武田信玄公に献上したところ、公はこれをたいへん賞賛し、御料紙としての生産を命じ、また「運上紙」として西嶋の「西」と辛未の年に因んで「西未」の朱印を作り、これに武田割菱の紋を刻んで下賜し、清兵衛翁を西嶋及び近隣の紙改役人に命じました。このことは、西嶋における紙漉きが公認されると同時に独占的営業権などの特権の裏づけとしてその後の発展の原動力となりました。
(2)徳川の時代
江戸時代は富士川流域の河内領(現峡南地域)は幕府直轄領となりましたが、信玄公から賜った「西未の印」により、盛んに和紙づくりが行われましたが、維新後、明治新政府になると「西未の印」の効力もなくなり、新しい時代へと向かうことになりました。
(3)明治~昭和時代
明治30年(1897年)には「西嶋改良製紙組合」、同35年(1902年)には「山梨産紙同業組合西嶋支部」が設立され、技術改善、品質改良、販路開拓に取り組みました。その後も環境の変化に立ち向かい、昭和初期には峡南地域の和紙づくりは百戸ほどあり、東日本全域に販路を持っていました。
2.西嶋画仙紙と技術開発
今日の西嶋画仙紙の盛況は昭和23年(1948年)産地の紙を販売していた一瀬憲氏(故人)の発案で佐野喜代亀氏(故人)が漉きはじめたことに始まるといわれています。一瀬氏は東京における紙の販売先である書家武田悦堂氏(故人)から、画仙紙には「にじみ」が必要なこと、それにはむしろ故紙(木材や麻等を原料とした和紙で、一度紙として漉きあがったもの)を原料として漉いた紙が良いことなど、経験に基づく貴重なアドバイスを受け、佐野氏に伝えました。そして製法・原料などの試行錯誤を繰り返し、西嶋画仙紙が完成しました。その後、西嶋では紙漉きを業としている家々において徐々に画仙紙生産への転換が行われ、昭和30年代には西嶋のほとんど全戸の25軒ほどで画仙紙を漉くことになりました。
西嶋画仙紙は、書道界の需要と、東京という大きな市場を間近に控えた地の利に支えられ、また紙商人たちの全国への積極的な市場開拓によって着実に発展していきました。画仙紙の原料は銘柄によっても異なりますが、普通は故紙、マニラ麻、パルプに稲ワラです。これをアルカリ処理(煮熟)し、漂白してビーターにかけ、ネリにはトロロアオイ[2]を用います。抄紙枚数は8時間で600~700枚ほどであり、一般の抄紙能力が400~500枚というのに較べると効率よく生産できます。これはペダル方式で原料を自動的に簀上(すじょう)に供給する「セイコー式簡易手漉き装置」(半自動)によるもので、この方式では簀(す)桁(げた)に原料を汲み込ませるという作業がなくなり、労力が軽減されました。こうしてできあがった簀上の湿紙は一枚ずつ紙床台に移して積み重ね、二~三百枚になると圧搾して水を切ります。
「セイコー式簡易手漉き装置」の採用とともに、西嶋画仙紙製法の特色の一つに「紙床の水もどし」があります。水切りした湿紙を一~ニ週間、天日で乾燥すると三~四センチほどの厚さの一枚の板のように固まります。乾燥作業に移るとき、板のようになった紙床を水槽に移し一昼夜、十分水を含ませて取り出すと、剥がれ易くなるのでこれを一枚一枚剥いで鉄板に張り乾燥させます。一度乾燥させたものを再度水に浸ける方法は不効率にも思えますが、画仙紙は十分叩解した短繊維を原料としているので、湿紙では破れ易く扱いにくいため、一度乾燥させてから再度水に浸けることにより湿紙の間のたも(化学ノリ)の作用が弱まって剥がれ易くなるのです。「紙床の水もどし」により歩留りは飛躍的に改善されました。
「西嶋和紙の製造工程」
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紙ほし(乾燥) | 紙漉き(抄紙) |
西嶋画仙紙発展に関心の深い一瀬憲氏は、長期的な展望に立ち、中国産画仙紙に劣らない国産画仙紙作りを西嶋の目標とするべきだと言いました。中国産画仙紙は稲ワラが主原料で、稲ワラの入手と処理が問題であるとし、昭和50年(1975年)に画仙紙用特殊稲ワラパルプの自給を目的とする「共同施設設置」の提案を行い、昭和60年(1985年)に国、県、町の力添えを頂き「和紙原料共同処理施設」の操業にこぎつけることができました。
西嶋和紙は四百有余年の長い伝統と様々な技術・素材改善等の努力により、①墨色の発色 ②にじみ具合 ③筆ざわり に特に傑出したものとなり、今や全国の書道家や書道愛好家に珍重・愛用されています。
3.西嶋和紙の現状
「西嶋和紙企業数、売上推移」 昭和55年 28戸 売上10億円 昭和60年 26戸 売上8億円 平成元年 23戸 売上7億2千万円 平成5年 17戸 売上5億円 平成17年 12戸 売上2億8千万円 |
現在、西嶋における和紙生産業者は8戸となり、上に記したように最盛期から年々減少してきています。原因は様々あると思われますが、需要量の減少→市場の縮小、低価格ながらも品質が向上した輸入画仙紙の影響、それから肉体労働ということもあり後継者が減少してしまったことなどがあげられると思います。
4.将来展望
東京などでイベントに出展した際に感じることは、西嶋和紙としての知名度が低いことです。先人が作ってくれた西嶋画仙紙の特徴を生かしつつ新製品を開発し、西嶋和紙を知ってもらうために、ブランド化を進めたいと考えています。
近年では望月清兵衛翁当時の三椏を使用した和紙を復活させ、かいじ国体の賞状を手掛けた技術を生かした新しい透かしを取り入れた卒業証書を多くの学校に使用してもらっています。灯り、壁紙等のインテリア、文房具への展開といった常に新しい分野への進出、可能性の探究を積極的に行っています。
また、日本だけにとどまらず外国からも出品のある蔡倫書道展や全国絵手紙展を開催し、和紙を使った文化教育活動にも力を注いでいます。最後になりますが、四百有余年の歴史ある西嶋和紙をどのような形であれ遺していくにはどうしたらよいのか考えていきたいと思います。
[1] ジンチョウゲ科ミツマタ属の落葉低木。皮を和紙の原料とする。
[2] アオイ科トロロアオイ属の植物。採取される粘液はネリと呼ばれ和紙づくりに使用される。
現在の和紙づくりでは、化学のりが使われることが多い。