Vol.214-2 郷土愛を育む大切さ(1)


公益財団法人 山梨総合研究所
主任研究員 古屋 亮

 はじめに

 2015年度、本県及び県内各市町村では、人口ビジョンを策定し地域の長期人口動向の予測を行い、それに基づき地域の振興策となる「まち・ひと・しごと創生総合戦略」を策定した。
 県・各市町村とも減少する人口に対して、その流れをいかに食い止めるのか(いかに人口を増やすのか)、そのためには何をするのかという視点により各事業が展開される。
 これからの地域社会は、人口増・経済発展を機軸とした従来の右肩あがりの社会経済状況とは異なる状況下でいかに地域を維持させるかについて検討していかなければならない。これは、東京、神奈川、埼玉、千葉、福岡等の大都市を除いて全ての都市で問題となることである。特に地方都市については切実な問題となる。そのために何をするのかについて地域で議論を展開し、地域で策を考えることは合理的であり今後とも継続する必要がある。しかしその議論の展開の中で、気になる点がある。「郷土愛」についてである。郷土愛の醸成、郷土愛教育とお題目を唱えるのは結構であるが、それがどのような意味を持つのかについては、今のところ明確なものが見当たらない。
 そこで本稿では、前編で本県の隣に位置し、地域に対する愛着度・自慢度[1]が常に全国上位にある長野県の郷土愛について述べたうえで、後編においては、本県との比較の中で郷土愛が地域づくりに与える影響について考察を試みる。 

強烈な印象を残した郷土愛溢れる長野オリンピック

 20139月、2020年夏季オリンピックの開催都市を決める国際オリンピック委員会(IOC)総会がブエノスアイレスで開かれ、IOC委員の投票で東京が選ばれた。IOCのジャック・ロゲ会長が紙を裏返し「TOKYO(トォキィオォー)」と発表した瞬間、会場にいた関係者の狂喜乱舞した様子を鮮明に覚えている方も多いであろう。
 その歓喜のシーンを見ながら、ある光景を思い出していた。
 今から25年前の19916月、IOCのサマランチ会長(当時)が98年に開催される冬季オリンピック開催地を「NAGANO(ナガァノォー)」と読み上げた。その時、会場にいた誘致関係者が喜びを爆発させたのは当然であるが、テレビの中継が切り替わり、長野県民・市民の喜びを爆発させている場所として、オリンピックの開催とは無関係に思える善光寺に集結していた数千人の長野県民が、万歳をしながら異様な盛り上がりを見せている場面が流れていた。そして善光寺でも鐘を鳴らして喜びを共有する粋な計らいを展開していた。

 なぜ長野県民・市民は善光寺で喜んでいるのだろう・・・・・・・・。なぜ善光寺は鐘まで鳴らして一緒に喜んでいるのだろうか・・・・・。この光景に強烈な違和感を覚えた。
 大村博士のノーベル賞受賞時もそうであったが、本来、県民や市民に関係する慶事として選ばれる場所は、人物であればゆかりの地や出身校、行政全体としてならば、市民ホール(会館)や県庁・市役所等の行政施設が選ばれることが多い。今回の東京オリンピック開催決定時においても、東京では都庁からの中継はおまけ程度にあったが、東京を代表する神社仏閣の浅草寺や増上寺、明治神宮に都民が集まり、鐘を鳴らして喜ぶようなシーンの中継はなかった。

 この開催地発表時に感じた違和感は、長野オリンピックの開会式でも継続した。

 劇団四季の演出家として著名な浅利氏がプロデュースする開会式。世界に発信される日本。どのようなものが出てくるのか胸を高鳴らせてテレビを見ていた記憶がある。すると、まずは善光寺の鐘が鳴り出した。また善光寺の鐘・・・・。次に出てきたものは競技場の四隅に立たせはじめた柱・・・・・・・・。その後、横綱の土俵入りと大岡村の道祖神の登場。
 テレビ中継の中で「諏訪の御柱」「日本・郷土にゆかりの文化」と紹介され、諏訪の御柱がどのようなものか知っていたから理解できたものの、「なぜオリンピックの開会式に?」という違和感満載というのが正直な感想であった。さらに違和感は継続し、日本選手団が入場してきたときは、それまで聞いたこともなかった「信濃の国」という長野県歌が流れた。なぜに「善光寺の鐘」からはじまり、なぜに「柱」、なぜに「道祖神」、最後になぜに「長野県歌」と違和感が継続し、最後には十二単を纏った元スケート選手の聖火点火シーンにより違和感は最高潮を迎えた。
 聖火の点火シーンの違和感はそれまでの違和感とは別物としても、数々の演出について意味を理解するのに苦労したオリンピックの開会式であった。

 あれから25年が経ち、現在、地域振興・まちづくりを考える立場となり感じることは、「長野オリンピックの開会式ほど素敵な開会式は無い。あれができた長野県という県、県民の底力は恐ろしい。」ということである。

 なぜそんなことを感じることになったのか、一つ一つみていきたい。

 地域のシンボルに対する誇り

  まずは善光寺。
 善光寺のホームページには(中略多数)、

 「信州善光寺は、一光三尊阿弥陀如来様を御本尊として、創建以来約千四百年のきに亘り、阿弥陀如来様との結縁の場として、民衆の心の拠り所として深く広い信仰を得ております。この仏像を信濃国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へとお連れした。皇極天皇三年(644年)に本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられました。
 鎌倉時代になると、源頼朝や北条一族は厚く善光寺を信仰し、善光寺信仰が広まるにつれ、全国各地には新善光寺が建立され、御本尊の模刻像が多く造られました。現在の前立御本尊はこの鎌倉時代の作です。鎌倉時代には多くの高僧の帰依も受けました。東大寺再建の勧進聖として有名な俊乗坊重源をはじめ、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人、時宗の宗祖・一遍上人なども善光寺に参拝し、ご仏徳を深く心底に感得されました。
 戦国時代に入ると、(中略)武田信玄は御本尊様や多くの什宝、寺僧に至るまで、善光寺を組織ごと甲府に移しました。その武田家が敗れると、御本尊様は織田家、徳川家の祀るところとなり、最後は豊臣秀吉が京都・方広寺の御本尊としてお奉りいたしました。そして、秀吉の死の直前、如来様がその枕元に立たれ、信濃の地に戻りたい旨をお告げになり、それによって慶長三年(1598年)、四十数年ぶりに善光寺にお帰りになられました。」

とある。
 長野県民及び信仰心の厚い方々のご批判を受けることを承知で言うと、要は国司の従者(国司ではない)が連れてきた一光三尊阿弥陀如来様が御本尊であり、その御本尊をお連れした従者の名前を取って善光寺。御本尊は今どうなっているか関係者以外は良くわからないが、模刻の御本尊がおり、多様な宗派(善光寺自体は特定の宗派ではない。)を受け入れている。御本尊様は秀吉の手により京都に戻ったのに、最終的には信濃に帰りたいとおっしゃって戻ってきた。それが善光寺。

  しかし、善光寺は長い歴史の中で、長野県民・市民の誇り・心の拠り所となり信仰心厚い日本国民にも支えられ、今でも年間600万人が参拝し、7年に一度の御開帳[2]では1000万人が訪れるといわれている。
 長野県民・市民が大切なものとして扱う場所。県・市に関係する何か慶事があったときに、喜びを分かち合う場所として県民、市民に選ばれる場所。地域住民にとって大切な場所であるがためか、そこに訪れる方々へのおもてなしと配慮に満ちている場所。調べてみると良くわからないことが多い善光寺であるが、来訪者を包む満足感。「これぞ地域住民の宝」というものを十分に感じられる場所が善光寺。これほど地域に愛される宝が他県にあるであろうか・・・・。これなら県民・市民が喜ぶ場所として善光寺を選び、善光寺が県民・市民のために鐘を鳴らすのも良く理解できる。
 これは諏訪の御柱にもいえる。地域で支え守り続ける地域の誇り・行事。地域に染み渡る郷土に対する愛と誇りが連なる文化として君臨するもの。信仰心と重なり、地域の誇りとなる諏訪大社と御柱。その地域の誇りを見ようと訪れる来訪者に対するおもてなしと配慮からくる来訪者を包む満足感。これほど「地域の誇り」と君臨する行事は、全国を見回してもそうある話ではない。まさに郷土に対する愛情、誇り無くして受け継がれるものではない。
 形こそ違え、地域にある誇り、宝、それを大切なものとして守るために染み渡っている郷土愛。そこにあるものは善光寺も御柱も、また詳細を紹介していないが、オリンピックの開会式で登場した大岡村の道祖神も一緒なのである。 

郷土愛を高める県歌「信濃の国」

 このことは、長野県民ならほとんどの人が歌える長野県歌「信濃の国」にも通じる。
 長野オリンピック日本選手団の入場時に使われた長野県歌の「信濃の国」。おそらく、長野県民以外はほとんど知らないであろう歌がオリンピックで使用された。賛否両論あろうが、開会式の会場は異様な一体感と熱気を伴った大合唱となり、それが心へ深く残る感動のシーンとなっていった。
 そもそも日本には47の都道府県があるが、自分の県の歌をスラスラ歌い出す県民が長野県民以外にいるであろうか・・・・・。

 この「信濃の国」とはどういう歌なのであろうか。

 長野県の県歌「信濃の国」[3]は、1899年(明治32年)に長野県師範学校教諭の浅井洌(きよし)が作詞、翌1900年(明治33年)に同校教諭の北村季晴(すえはる)が作曲し信濃教育会[4]が作った唱歌である。
 当時は教育の場にも日清戦争の影響が及んでおり、これを心配した同会が戦争とは離れたテーマを教材とすることを目的に長野師範学校の教諭に作成を依頼したもので、「地理歴史唱歌」6作品の中の1つであった。
 1900年(明治33年)10月に行われた師範学校の運動会で女子部生徒の遊戯(今でいえばダンス)に使われたのが、「信濃の国」が初めて披露された場であるといわれている。
 その後、1966年(昭和41年)に県章やシンボルを決定した際、「信濃の国」を県民意識の高揚のために県歌に制定してはどうかという気運が盛り上がり、1968年(昭和43年)520日に「信濃の国」が県歌として制定された。それまでは別に長野県民歌があったが全く浸透しなかったようである。

 「信濃の国」の1番の歌詞を紹介する。

 信濃の国は十州に 境連ぬる国にして
 聳ゆる山は いや高く  流るる川は いや遠し
 松本 伊那 佐久 善光寺  四つの平は肥沃の地
 海こそなけれ 物さわに  万ず足らわぬ事ぞなき

以上のような七五調の歌詞が6番まで続く。その内容であるが、

1番は「自然の恵みをたたえる」
2番は「大自然に守られている郷土」
3番は「県が誇る産業」
4番は「名所旧跡」
5番は「郷土が生んだ偉人」
6番は「未来に向けての決意と激励」

 さらにこの歌は、4番からは曲調まで変え、飽きることなく最後まで郷土愛を貫く歌詞が展開されている。

 また「信濃の国」にはこんなエピソード(歴史)もある。

 長野県では、1948年(昭和23年)に県庁の一部が焼失したことにより、それまでも燻っていた「分県論」が激しくなった。北信(長野県の北部)と南信(長野県の南部)の対立はいよいよ激化し、県議会で分県の特別委員会が設置され、分県案が可決される寸前までいった。まさに可決され、県が割れようとしたその時に、県議会の傍聴席と議会の周辺から一斉に「信濃の国」の大合唱がはじまった。それを聞いた分県特別会の委員長は「信濃はひとつだ」との気持ちが湧き、その後、分県が否決されたとなっている[5]
 「信濃の国」の大合唱により皆が郷土を想い、郷土愛を確認し、地域の分裂・分県を阻止した。このような強烈な歴史を持ち、郷土愛に満ちた歌。それが「信濃の国」であり、長野県民のほとんどはこの歌が歌え[6]、そして郷土に対する思いを深くしているのである。

力強くそしてさりげない郷土愛の醸成

 また長野県は他にも不思議なことが多い。自県を流れる千曲川は、他県(新潟県)に入ると信濃川と名前を変える。
 全国には信濃・信州と名の付く飲食店を始めとする店舗を多く見る上、地名(東京の信濃町は意味合いが違う)にも使われる。
 また他ではなかなかお目にかかれない蜂の子、お葉漬(野沢菜漬け)、おやきなどの食材が当たり前のようにスーパーに並んでいて、県民は、自然と地元の食文化に触れている。このような事実が他県にあるだろうか。
 長野県民は、力強くそしてさりげなく常に郷土愛を育む環境下で生活を送っている。
 直接的な因果関係を実証することは難しいが、このような環境下であるがため、常に地域に対する愛着度、自慢度のランキングが上位に位置しているのは間違いないであろう。
 地域に対する愛着を持たずに、地域に住んでいたい、地域を良くしていきたい、地域に貢献したいという想いが強くなるであろうか。
 後編では、これら長野県民の郷土愛が、地域にどのような影響を与えているのか、について考察を加えていきたい。

 このニュースレターは後編に続くが、前編における長野県の面白さについては、20年以上にわたり、郷土の面白さ、長野県の不思議さについて議論を展開してくれた親友の菱沼達郎氏、宮坂祐一郎氏と恩師の立岩寿一先生にお礼とともに捧げたい。

 

[1] ブランド総合研究所 http://www.tiiki.jp/ 地域ブランド調査
[2] 詳細は、善光寺御開帳 http://www.gokaicho.com/ を参照のこと。
[3] 信濃の国については、長野県ホームページ県歌「信濃の国」を参照した。 http://www.pref.nagano.lg.jp/koho/kensei/gaiyo/shoukai/kenka.html
[4] 信濃教育会:現在の公益社団法人信濃教育会。長野県の教育向上を図る目的で設立された、県下の小・中・高・特別支援等学校及び大学の教職員等教員による団体。研修や教育・学術図書の研究などを実施。
[5] 長野県議会 http://www.pref.nagano.lg.jp/gikai/chosa/gaiyo/enkaku/index.html を参照した。
[6] メロディーも知らず歌えない人は1.4%であった。毎日新聞201615