Vol.226-1 事業承継


~父からバトンを受けた私の経験~

センティス21代表取締役社長 保坂 剛志

1 はじめに

 山梨は10万人当たりの社長数が全国で2位ということもあり、身近にお付き合いしている経営者が多い。そして話題に上る悩みのひとつに事業承継がある。
 私は28歳で山梨に帰省し、それから現在までの21年間、父の興した会社に勤め後継者としての道を歩み続けている。日本企業の9割以上が中小零細企業で成り立っていることを考えると、親族経営で、私のように親から事業承継される社長も多いだろう。
 そこで今回は、社会問題にまで発展している事業承継について、後継者の立場で親子関係の視点から考えたい。なぜ事業承継で悩んでいる経営者、後継者が多いのか。この問題は、相続に関する財産や税金など目に見える会計的なこと、事業の将来性が焦点にされることも多いが、必ずしも問題の本質とは言えないと感じる。なぜなら、廃業予定企業であっても、3割の企業が同業他社よりも良い実績を上げ、今後10年は最低でも現状維持ができる状況にあるという話を聞いたからだ。
 実は、私もそうだった。問題の本質は、親子関係にあると思っている。その本質にせまり、事業承継に躊躇している経営者、後継者の参考になり、少しでも後継者不足、ひいては廃業率の増加の解決につながると嬉しい。
 このような考えに至った私の事業承継の経緯を体験談からお話ししたいと思う。

2 私は継ぎたくなかった

 私は、今でこそ会社経営のやりがいを感じているが、入社前は継ぐことを考えると憂鬱で、できるだけ山梨に戻りたくなかった。長男だったため後継者として意識していたものの、仕事内容に興味を持てなかった。その理由は大きく三つあるが、その前に簡単に家業の説明と入社までの経緯をお話しする。
 会社の現在の仕事内容は、大きく分けると警備事業とセキュリティ事業という二つのサービスからなる。警備事業は、警備員を建設現場やイベント会場、商業施設など、お客様のご依頼に合わせ配備する業務である。セキュリティ事業は、お客様の建物内外に防犯カメラや消火器具を始めとする消防用設備を設計・施工し、維持管理する業務である。総括すると、お客様の依頼場所での生命、財産を守るサービス業務である。
 父からは、ずっと「会社を任せる」とは言われてこなかったため、私は県外の大学に行き、教員免許を取得した。結局は先生にはならなかったが、そのまま山梨に戻らず、千葉の商社に勤めた。海外旅行者向けのスーツケースを始めとする旅行グッズ、海外お土産品を取り扱う会社で、旅行が好きだった私の性に合っていた。できればこのまま首都圏で勤め続けたいと思っていた。
 そこに父から連絡が来た。「セキュリティ事業を手伝ってほしいから山梨に帰ってこい」ということだった。
 私が父の仕事に興味を持てなかった理由の一つ目は、仕事内容が自分には向いていないと感じていたことだ。
 学生時代、ゴールデンウィーク・お盆休み・年末年始休みなど、長期の休みはアルバイトで父の事業を手伝いに戻った。夏の炎天下、建設現場での関係車両の往来を埃まみれで警備したり、夏休みの小学校に火災報知器点検に入ったが、興味が湧かず、バイト代だけが楽しみだった。ただでさえ面白くないのに、県外から山梨に帰省している同級生たちからの誘いも全て断らなければならず、父の仕事をストレスに感じた。
 二つ目の理由は、当時、山梨の生活より首都圏の生活に魅力を感じていたことだった。生活していた神奈川、東京、千葉には、商業・娯楽・芸術・飲食施設が集積し、情報と人が集う場所が多く、常に気持ちが高揚した。そうした期待感のようなものが山梨では持てないと思っていた。
 そして三つ目の理由は、後継者としての心構えがまったくできていなかったことだ。
 それまで私は、父から社長を継ぐようには言われてこなかった。山梨に戻って来いと言われたときでさえ、セキュリティ事業部を手伝ってくれの一言で、承継の話は出なかった。だから私は一社員のつもりで父の会社に入社したのだ。いや、本当のことを言うと、経営者の息子なのだから自分が継ぐことになると薄々感じていたが、周囲の社員から色眼鏡で見られ、責任だけを押し付けられるのではないかという不安から、逃げ道を作りたかったのだと思う。当然、父は言葉には出さなかったが、事業を引き継がせるつもりで私を呼び寄せていた。
 後継者として迎えられることは気が重かった。年配社員や年齢が下でも長く勤めている社員とどう接していくのか、会社全体のことをどうやって考えていくのか、とても大きすぎて自分の能力では無理だと思っていた。

3 父への反発、社員への不満

 この三つ目の理由は、あとあと尾を引いた。案の定、私は長く勤めている社員たちとうまくいかなかった。
 当時、社員総数は200名近く。各事業部はそれぞれ独立して動いていた。父は警備事業部を事業の柱とみていて、幸い業績は順調に推移していた。一方、私の配属されたセキュリティ事業部はすでに何年も前から赤字続きだった。父は、私に、セキュリティ事業部を立て直してもらおうと思っていたのだ。
 しかし、そのことを直接父から聞いていない私からすると、時間の経過とともに内情が明らかになるにつれて、厄介な仕事を押し付けられたという気持ちが日に日に強くなっていった。セキュリティ事業部は、社員が自分勝手に判断し、動いている印象が強かった。そのため社員間の意見の食い違いからくる小競り合いもあった。会社や上司への不満が多く、不信感が漂う暗い雰囲気だった。それを注意できる上司がいなかった。それを父も特に気にする様子がなかった。悪いことを悪いと言えない社風が私のストレスになり、次第にうらみつらみを思うことが多くなった。給料は前職の半分以下。それなのに気持ちがバラバラの社員とともに状況を改善しなければならないことに不条理を感じていた。

4 病を引き起こすまでに事態は悪化

 次第に否定的な感情は増したが、その感情とは別に、このままでは将来的に会社が困るという気持ちも強くなっていった。それは自分自身の危機感と焦燥感からきていた。私は、とりあえず与えられた使命を果そうと努力し始めた。業績を黒字化するには、とにかく売上を上げること。そのため、がむしゃらに営業した。どんな仕事でも金額に関係なく受け、社員の仕事量を増やした。
 土日・祝祭日・夜間、労力や負荷がかかる仕事も積極的に受けた。その甲斐あって、少しずつ新しいお客様が増え、売上は増えていった。これで赤字から黒字になり、社員の待遇もアップできると思った。
 依頼を断らないという、お客様第一主義の考え方が会社の業績に貢献していたが、逆に社員には負荷がかかり、アレルギー反応を示していた。私が仕事の相談をすると、どんどん離れていく感じだった。自分たちのことを会社の利益の道具としか見ていないと感じていたのだ。給料は改善され始めていたが、社員の不満は私に向けられていた。
 入社当時、給料に不満だと言っていた社員たちが、望み通り少しずつ給料も上がっているのに、なぜそこまで不満が出るのか私には理解できなかった。そうして更に社員との心の距離が広がった。
 どうして不満しか言えないのだろう?こんな社員と一緒にやってもうまくいきっこない・・・。
 その原因を社員の質に求めた私は、父に「今の社員とでは上手くやっていくことができないどうにかしてほしい」と懇願した。ところが、父が私に言ったことは「お前の社員に対する愛情が見えない」という一言だけだった。
 私は反発した。「そこまで言うなら自分でやってみろ。毎日、反抗的な社員といたらイライラするし、自分だって絶対に同じことを思うはずだ。一緒にやってないから簡単にいうんだ」。血のつながった親でさえ味方してくれず、孤立無援だと思った。しばらくして、私は心身に異常を来たし、パニック障害とうつ病を発症した。
 車のハンドルを握ると動悸と息切れが起き、わけもなく強烈な不安感に襲われ、窒息する感覚に襲われた。怖くて車に乗れず、自宅から徒歩30分圏内で行動するようになった。父に初めて事情を伝え、長期療養に入った。一番辛かったのは、今まで当たり前にできていたことが全くできなくなり、周囲にも理解されていないと感じたことだった。

5 父の真意に気づく

 転機は、突然、訪れた。
 ある程度病状が落ち着いて職場復帰したとき、ふとした機会に、総務に配属されている弟から「親父から兄貴を支えるように頼まれている」と聞かされた。私は、父が私よりも古参社員の味方をしていると思っていたので、とても驚いた。そうではなかったのだ。
 そして体調に不安を抱える私を専務に昇任させ、関連会社の社長に就任させようと思っていることを改めて父から聞かされた。役職につけば、それも励みになり復帰できるだろうという一種の賭けにも近い考えだった。出社もできない状況の私を持ち上げるのには、周囲からの批判もあるだろうし、その他にもいろいろな面倒があったはずだ。そして業績の低下も想定できたはずだ。
 父はそれらをこらえてじっと待ってくれていたのだ。面と向かって口には出さない父だが、根っこの部分では信頼してくれているのだと気づいた。
 父の気持ちに気づくことで精神的に安定し、あらためて経営者としての父を冷静に見るとともに、自分のふるまいを振り返ることができた。
 長期療養中、なぜこのような状態になったのか自分を見つめ直していたときに、たまたま『心は病気』というブッタの思想に触れる書籍を読んだ。そこには「攻め心、批判する心、常にイライラする、悪いことがあると全て周囲のせいにして発散するが結果的に全て自分に返る」という一文があった。今、この文章を自分に照らし合わせてみると、私自身が後継者としての覚悟を本当の意味で持ち合わせていなかったことを感じる。私はまさに自分の未熟さを棚に上げ、社員のせいにし、父に対しても、生意気にも経営者としていろいろ足りないと不満ばかり口にしていた。父が私に言った「お前の社員に対する愛情が見えない」とは、そんな私をたしなめるための言葉だったのだ。
 そんな私とは対照的に、父は決して人の悪口を言わない。会社への不満も言わない。社員が気づくまで見守る。社長が注意するときは、最終勧告なので細かなことはあまり言わない。そしていいと思ったら自分で実行する。経営者としての父はブッタの教えに近い生き方をしているように今の私には思える。
 常にセコセコ・イライラして焦燥感と不安感を表面に出していたことに気付いた私は、先ずは自分が変わる努力を始めた。他人を批判したくなったら、心で6秒カウントしてから話かけるようにした。すると不思議だが、感情とともに顔の表情も少しずつ穏やかになり、社員との関係が改善されていった。
 父に対しては、会社を創業してからの歩みや経歴、そして当時の仕事内容を聞くことで、コミュニケーションを図ろうとした。以前の父は顔をこわばらせて私を見ていたのだが、会話が増えるにつれて穏やかな表情で応えてくれるようになっていった。良好な関係になったのだ。
 入社してから20年になるが、随分会社の雰囲気が変わった。明るく活気が出てきている。現在のセキュリティ事業部の業績は、私が入社当時の売上の5倍にまでなり、事業部技術社員は6名から25名にまで増えた。年齢も20代前半から60代までが働いている。今では、会社の牽引役はセキュリティ事業部になっている。

社員旅行での懇親会
昨年の社員旅行での懇親会
(会長(父)と常務(弟)、取締役のメンバー)
社内の朝の時間
社内の朝の時間(総務、営業と心合わせて)

6 結びに

 私は事業承継を通して、様々な問題を抱え、悩み、つまずいてきた。実は私が問題にしてきた「継ぎたくなかった三つの理由」の前半二つは、後継者として入社したあとはほぼ悩まなかった。それは後継者として入社する前の勝手な私のイメージだった。教員免許を取得しているからではないが、会社は社会の公器で、社会人の学校だと感じる。専門的な技術力だけでなく礼節を習い、人間力を高めていくことも、サービス向上の一環になる。お客様に良質なサービスを提供し、それに向け、社員同志が切磋琢磨して人間力を高めていき、社員採用による地域雇用と売上・利益をあげ、納税をしっかりしていく会社を作っていくことは、人生を謳歌できるとてもやりがいのあることだと思う。
 本質的な問題は、私の場合、ほぼ人間関係によるものだった。「えっそんなこと?」と思われるかも知れないが、父との心の擦れ違いがきっかけで精神的に参り、それから古参社員、他部署との関係性により孤独感、無力感を感じるようになっていたのだった。親子関係は非常に難しいと思う。後継者の仲間と話していてもそのことを強く感じる。多くが父や兄弟との問題を抱えている。血縁関係だからもっと自分のことを分かって欲しい、分かるだろうというお互い強い思い込みがある。だから、遠慮なくストレートにぶつかったり、逆に素直な会話がお互いにできなかったりする。しかし、そのことを理解し、親子・兄弟でも一人の人格者として尊重しあえれば、血縁関係だからこその強い絆が生れ、強靭な経営基盤が作れると思う。
 私が山梨に帰郷したときに、ご近所の同級生の父親にこんなことを言われた。「お父さんは幸せだよ。息子と一緒に仕事ができるなんて、こんな幸せなことはない。良かったね。一番の親孝行だよ」。その時はピンとこなかったが、ふとこの言葉の意味を考えた。生涯で父と一緒に過ごせる時間はどのくらいあるのだろう?もし同級生と同級生の父のように勤め先が違っていたなら、一緒に過ごせる時間は少ないかもしれない。実際、幼少期から一緒に顔を合わすのは母であった。父との時間は記憶にない。父と一緒に同じテーマで真剣に向き合える環境は幸せなことだと思え、急に「恵まれている」と感じるようになった。
 経営者としてのやりがいも父の考えも、継いでみなければわからないことだった。ただ、もし贅沢を言えば、入社する前に、しっかりと父との時間を作り、父の気持ちを聞けば良かったと思う。いずれ私も後継者に渡す立場になる。その時は私自身の経験を生かして、後継者自身が会社経営に魅力を感じ、その立場が幸運だと思えるように導きたい。
 父から「後はお前に任せたぞ。しっかり頼むな」という直接的な言葉はないが、私が良い経営者として成長していくことが、父の望んでいることだと感じている。後継者はつらいことも多いが、それ以上に魅力ある「仕事」だと実感している。

倫理法人会での講話
昨年の倫理法人会での講話(事業承継への思いを語る)
講話の応援メンバー
講話の応援メンバー(大切な経営者仲間)