甲州ワインに想いを寄せ


毎日新聞No.497 【平成29年9月15日発行】

 1877(明治10)年、東八代郡祝村下岩崎(甲州市勝沼町)に大日本山梨葡萄酒会社が設立された。日本で初めての民営法人のぶどう酒会社を操業するには、醸造技術と醸造法を完全に指導できる有能な人材が必要との認識のもと、技術・知識の習得のための修業期間を1年間とし、村の高野正誠、土屋助二郎の青年2名がフランスのトロワに派遣された。

 県内では初めての西欧旅行であったようだが、1年で醸造の知識を得られない場合は、自費で再度渡仏し学ぶという非常に厳しい条件のもと旅立ったようだ。
 横浜港から45日もの日数をかけ、フランスに到着した。その後1ヶ月間、語学を習得し、ブドウの剪定、挿し木法、品種を改良する接ぎ木法、摘果、収穫法の実技を習いながら、ブドウの品種の研究、生食用ブドウと醸造用ブドウの本質的な違いなど、和訳の辞典と照らし合わせての実技と理論の厳しい日課を積み重ねた。まさに昼は作業、夜は記録と無駄なく時を過ごしたようである。
 しかし、両国の往復だけで100日近くかかり、上記のような技術に加え、ブドウの収穫からワインの貯蔵法、新酒の蔵出しまで研修の過程を終え、帰国した時は1年7ヵ月が経過していた。そのため、当初の約束どおり違約金を取られ、歓迎会どころか謹慎を命ぜられたようである。

 2人が旅立った日が、今からちょうど140年前の10月10日である。甲州市ではこの日を甲州ワインの日としている。140年も前の話であるため、現在のように、気軽に海外に行ける時代でもなく、情報もない。語学も良くわからない中で、勝沼の若者の目に見えた光景や2人の期待、不安、覚悟がどのようなものであったのかに想いを寄せる。必死に異国で学び、必死に故郷に戻り、必死に地域のために生きた若者の想いと地域住民の大きなロマンや覚悟の上に発展してきた甲州ワイン。
 地域活性化の取り組みに特効薬や答えなどないかもしれないが、彼らがこの140年後の勝沼地域、甲州ワインの現状を眺め、どのように感じるのかを想像しながら、秋の夜長にワインを飲んでみて、心の中で議論をしてみたいものである。

(山梨総合研究所 上席研究員 古屋 亮)