「寛容型共生社会」の実現に向けて
毎日新聞No.500 【平成29年10月27日発行】
先日、甲府で開催された「日本ワインコンクール」受賞ワインを味わう機会において、フランスの方と知り合いになった。日本で働く彼の流暢な日本語はもとより、周りを気にせずに発せられるワインに対する率直な意見に、私は驚きつつ懐かしさを感じていた。
日本社会においては、相手の意見や会場の雰囲気を察知し、差し障りのない言葉を選んだり、声の大きさや話し方を変えたり、相手と意見の相違があっても意見をぶつけ合うことを避けることが「大人の対応」とされる。それが出来ない人は「KY(空気が読めない)」として揶揄される印象を私は持っているが、そんな「大人の対応」も国が違えば評価も変わると実感した経験を思い出したのだ。
もう10年も前のことだが、フランス人の友人から突然「日本人らしくない」と言われた。出張中の電車の中で、彼の意見に対して率直な感想を伝え、決して先に会話をやめまいと気張っていた時のことだ。私自身、まだ社会人経験も浅く、またフランス人は「議論好き」と聞いていたこともあり、相手の反応を考えずに自分の言いたいことを口に出していただけであったのだが、それが彼にとって驚きだったという。
彼と共に働いた経験を改めて振り返ってみると、彼らが大事にする「議論」は自分の意見を無理強いするためのものではなく、多様なルーツを持つ人々がお互いを理解し、違いを認め、共に生活を営むために必要な過程であったと理解できる。
人口減少社会を迎えた日本では、近い将来、言葉や文化の異なる方々や知能を有するロボット機器など、多様な相手と交流する機会が増えていくと思われる。その様な社会においても、自分の幸せを大切に暮らしていくためには、相手をより深く理解し、お互いを認め合い、協調して暮らす社会(私はこれを「寛容型共生社会」と呼ぶ)の実現が必要だと考えている。
ただ「言うはやすし」である。まずは「大人の対応」の代表格である「忖度」を少し減らして、「KY」と冷やかされようとも、家族や友人、同僚たちとの「議論」から始めてみたいと思う。
(山梨総合研究所 主任研究員 森屋 直樹)