データでモノを言え
毎日新聞No.533 【平成31年3月1日発行】
品質管理には「データでモノを言え」「当たり前のことをボンヤリせずにチャントやれ」などという箴言がある。最近は、ビッグデータ、IoT、AIなどの言葉が注目されているが、共通している重要なキーワードは「データ」である。「データ」は、事実を客観的に表したものである。カタカナで表記するのは、これに対応する日本語がないからだ。米国では、幼少のころから、「事実」と「思い」を区別することを徹底的に教えるという。日本では言霊思想の影響もあってか、両者が明確に区分されていない嫌いがあり、「不都合な真実」に目をつぶってしまいやすい。
昨今の、官僚による文書の隠蔽や改ざんは言うに及ばず、国の政策立案に使われるデータに関して、統計調査の基本も遵守されていなかったことは嘆かわしい限りである。政府の統計業務にも携わっておられた品質管理の先生が、日本の官庁統計は世界トップレベルだと誇らしげに話されていたのを思い出す。それにつけても、官僚の相次ぐ不祥事は緊張感の欠如から使命感が失われつつあるのではないかと危惧される。
1987年に、米国レーガン政権は通商法301条を適用し、経済発展著しい日本に対し、パソコンやカラーテレビに100%の制裁関税を科した。これは半導体摩擦と象徴的に語られているが、90年代の自動車摩擦へと続いていくことになる。現在の、米中の経済制裁の掛け合いを彷彿とさせる出来事である。当時、米国を相手に厳しい折衝を行っていた官僚に対し、ホワイトハウスのスタッフが舌を巻いていたことは語り草になっている。大統領が交代すると、総入れ替えになるホワイトハウスのスタッフに対し、日本を代表して折衝に当たっていた官僚は同じ顔触れであり、交渉の経緯や過程を熟知して日本の国益を守るため使命感に燃えていたからである。
このように考えると、日米間に緊張感が漂っていた時代は、官僚も使命感や責任感を自覚し、国益を守るために活躍していたといってもよいであろう。近年、こうした緊張が薄れて、グローバリズムの名のもとに、何につけても米国に追従しているようになると官僚も使命感を実感しにくいのかもしれない。
研究者は発表する論文について責任を負っている。データを改ざんしたり、都合の悪いデータを除外するなどは許されない行為であり研究者の資格はない。それゆえ、それが発覚すると研究者生命を失うことになる。官僚にも、こうした緊張感をもってほしいものである。
(山梨総合研究所 理事長 新藤久和)