Vol.248-1 従業員満足規格JSA-S1001について

松村 真吾
1.はじめに
Kiru(切る)・Kezuru(削る)・Migaku(磨く)。わたしが勤める株式会社ディスコは、これらの技術の最先端を追求し続ける企業です。“ディスコの技術が世界標準になり、日本語のまま通用するレベルを目指す”という強い想いから、あえてローマ字で表記しています。これら3つの技術は、主に半導体の材料となるウェーハを加工するために使われます。半導体は、スマートフォンをはじめ、パソコン、ICカード、医療機器、自動車などの中で機能するものです。わたしたちの身近な製品にとって欠かせないものを、ディスコの技術で加工しています。
ディスコには、「真のCS(Customer Satisfaction:お客様満足)は、ES(Employee Satisfaction:従業員満足)なくしてありえない」という考えがあります。つまり、従業員が快適な環境で就労し、最大限のパフォーマンスを発揮することが、お客様満足向上の原動力となるということです。この考えに基づき、全社一丸となって従業員満足を高める施策を継続的に実施しています。また、仕事と家庭の両立を支援するための社内託児所の設置や充実した育児支援制度、従業員の健康を支えるためのプールやフィットネスジム、体育館の設置など、さまざまな観点から従業員が快適に働くことができる環境づくりに取り組んでいます。その結果、「働きやすく生産性の高い企業・職場」にて最優秀賞(厚生労働大臣賞)を受賞、経済産業省より「健康経営銘柄」に選定されるなど、公的な高い評価を受けると共に、従業員の高い定着率を実現しています。
2.規格化の背景
従業員満足の規格作成は、あるサプライヤーから納入された部材の欠陥によって、重大な市場トラブルに発展したことがきっかけです。欠陥の原因は、当該サプライヤーの熟練作業者が退職したことによるものでした。通常であれば、作業の引き継ぎや力量・教育訓練に着目して再発防止をしますが、社長の関家一馬は、「そもそも人が辞めない、従業員満足の高いサプライヤーであればこのような問題は起こらない」との考えから、ディスコの従業員満足の取組みを文書化しサプライヤーに展開するプロジェクトが2017年11月に立ち上がりました。
文書化にあたって、ディスコ特有の取組みを取り入れつつ、どの企業でも適用できる内容とする必要がありました。そこで、ISO、JISなどの規格のような形態で表すことにより、透明性、公平性及び客観性を確保し、汎用性の高い文書とすることができると考え、一般財団法人日本規格協会(JSA)に、従業員満足の規格化を提案しました。
発端はこのような背景からですが、企業の認知度向上という効果も期待しています。典型的なBtoB企業であるディスコは、その業界内では名の知れた存在であっても、世間一般にはほとんど知られていません。従業員満足規格の提案企業として広く知られるようになれば、厳しさを増す労働市場でより質の高い人材を集めることにつながります。
3.JSA規格制度
従業員満足の規格化の提案に対してJSAは、ISOやJISは国内・国際的なコンセンサスが難しく、また、作成できたとしても発行までに数年はかかるとの回答でした。わたし自身、ディスコに入社して20年弱、品質マネジメントシステムの規格であるISO9001に関わる仕事をしてきたことから、規格を作成するのがいかに困難であるかは理解していました。特定の製品や試験方法の規格ならまだしも、わたしたちが提案するのは管理システム分野の規格です。どの組織でも適用可能な汎用性の高い規格とするには、莫大な調整工数がかかることは容易に推察できます。正直なところ、JSAに提案する前から、規格化できないことをどうやって社長に言い訳をしようか、ということを少し考えていました。
そんな中、JSAから、ISOやJISではなく、JSA規格という新しい制度を適用してみてはどうか、という話がありました。ちょうどわたしたちがJSAに規格化の提案をした時とほぼ同じ時期の2017年8月にスタートしたばかりの民間規格の制度でした。この制度は、多用な規格開発ニーズに対応し、発行までの迅速なタイムスケジュールとシンプルなメンバー構成で規格化できることが特徴です。まさに、スピーディで効率的な規格開発をしたい、というディスコの規格化のニーズに対応したものでした。JSAからの逆提案のおかげで、社長への言い訳に頭を悩ませずに済みました。さらに、ディスコが個別企業としては制度の適用第一号となるため、規格の番号は通し番号で最初の“1001”を付けることができるとのことでした。9001、14001、27001など有名なマネジメントシステム規格の番号は下3桁が001であり、従業員満足規格も同じような番号形態であれば、規格としての箔を付けられます。その上、ISOやJISでは従業員満足に関連する規格は存在せず、この規格が発行できれば、世界初の従業員満足規格となります。とても幸運に恵まれた状況だと感じました。
すぐに社長に承認を得て、JSA規格制度に申し込みました。規格作成のためのフォーラムのメンバーを決めるのが最初にして最大のプロセスとのことで、慎重にメンバー集めを行いました。最終的には、社外の中立的な立場(研究者、コンサルタント、NPOなど)の方を4名、関係者の立場としてJSAから2名、提案企業としてディスコから5名を加えた計11名でスタートすることになりました。メンバーが決まったことで、あとはフォーラムでの話し合いというプロセスさえ進んでしまえば、トントン拍子に規格発行にたどり着けるものと思っていました。しかし、実際には規格のテーマとして採用されるまでにかなりの労力と月日がかかりました。規格化の前提条件である第三者委員会の承認が得られなかったためです。「幸運は用意された心のみに宿る」フランスの細菌学者ルイ・パスツールの言葉の通り、努力を惜しまずしっかり準備しなければ幸運は訪れない、ということを思い知らされました。
4.規格化の懸念点
第三者委員会の最大の懸念は「当該規格は汎用性の高い規格であり、今後発行される可能性のある類似の規格が排除されないようにする」という点です。規格の体系は、最上層に国際規格、その下に国家規格、業界規格、そして最下層に民間規格、というヒエラルキー構造と言われています。下位の規格が上位の規格に基づいて作成される関係であるため、最下層に位置付けられるディスコ提案の規格が、上位の規格に影響を及ぼすことはあってはならないのだと思います。その上位の規格がまだ存在しないとしても、です。そのため、第三者委員会からは規格という位置付けでは無く、ユースケース(事例紹介)として扱う方法が推奨されました。しかし、事例の紹介という位置付けでは意味がありません。ディスコ独自で作成してサプライヤーに展開すれば良い話です。すでにフォーラムを開催し、従業員満足規格の大筋ができてきた中で、大きな壁にぶつかりました。
わたしたちは、JSAと一致団結してこの壁を乗り越える方法を検討しました。しばらくすると、JSAから、さまざまな規格の前例を調査した結果、規格名称と適用範囲を工夫することでユースケースではなく規格として作成できる可能性がある、との連絡がありました。具体的には、この規格が上位の規格に基づいて作成している位置付けとするため、規格名称に「ヒューマンリソースマネジメント」というまだ発行されていない仮定の規格名を追加すること。また、将来ヒューマンリソースマネジメントの規格やディスコとは違う観点の従業員満足の規格の開発ニーズが出てきた際に備えて、適用範囲に「今後新たに開発される類似の規格の開発を妨げるものではない」との一文を入れることです。一方わたしたちは、この規格が上位の規格と親和性の高いものであることを説明づけるために、JISQ10001「品質マネジメント-顧客満足-組織における行動規範のための指針」を最大限参考にして規格開発することを提案しました。JISQ10001はISO10001のIDT(一致している)規格として制定されたものなので、ヒエラルキー構造の最上層に位置付けられる国際規格にも整合していることになります。
このような検討結果が功を奏し、第三者委員会の最大の懸念点を解消することができました。これ以外の意見や指摘にも真摯に対応し続けた結果、申し込みから半年以上を経て、ようやく第三者委員会から承認が得られ、規格のテーマとして採用されることになりました。
規格作成のフォーラムに関しては、委員長の新藤久和様(公益財団法人山梨総合研究所理事長)のリーダーシップのおかげで、大きな問題も無く順調に進行し、計5回の開催で規格を完成させることができました。初めての制度で初めての企業が規格作成する、という未知の領域でここまでやってこられたのは、ひとえに委員長のご指導ご鞭撻があってこそだと実感しています。また、委員としてご協力いただいた方々やJSAの事務局にも大変お世話になりました。わたし自身たくさんの貴重な経験をし、大きく成長することができたと思います。この規格化のプロジェクトの活動そのものが、わたしという一人の従業員の満足につながっています。
5.規格を通じて伝えたいこと
この規格は管理システム分野の規格形態のため、基本軸はPDCAサイクルを回すことです。従業員満足のための目標を立て、それを達成するための計画を策定し、計画どおり実行し、目標に対して達成できたか従業員満足度調査等でチェックし、達成できなかった場合は改善を行い、達成できた場合は更に高い目標を立てる。そのサイクルを繰り返すことで、従業員満足が向上する。理屈上は大変わかりやすいものです。しかし、その対象が従業員満足という人の心にアプローチする以上、感情に左右されるためにとても不安定で、思い通りにいきません。形式的、機械的にPDCAを回してしまうと、かえって従業員の不満足に繋がる恐れがあります。そこで、従業員満足の規格には、PDCAサイクルとは別に、ディスコの組織経営で大切にしている基本的な要素を規定しました。以下の6つがこの規格を通じて最も伝えたいことになります。
1.組織の価値観やリーダーの思いに共感していること
2.自分のやりたい仕事がやれていること
3.自分の成長や貢献が認められていること
4.良好な人間関係が築けていること
5.仕事と生活が両立していること
6.心身ともに健やかであること
少し雑なまとめ方をすれば、組織やリーダーに共感し、やりたいことができ、周りから認められ、信頼し合い、生活も充実し、健康的に働いている。そのような従業員であれば、きっと働くことに満足しているはずですし、最良のパフォーマンスを発揮し続けているはずです。従業員一人ひとりのパフォーマンスが高まれば、顧客満足や企業収益の向上につながります。したがって、より効果的なPDCAサイクルを回すためには、これら6つの切り口で従業員満足度調査を行い、その調査結果を組織経営に活かすことが重要になります。
具体的にどのように取り組めば良いかは、JSA-S1001の規格書の解説ページに記載しています。興味のある方は、JSAのWebサイトを参照ください。ちなみに、規格本文は6ページ程度しかありませんが、解説の方は倍以上のボリュームで作成しています。
6.おわりに
規格化の発端はサプライヤーからの納入品の品質や供給の安定化、そしてディスコの知名度向上というビジネス上の利益を考えてのことでした。ところが、わたし自身、一年近く従業員満足の規格化のプロジェクトを進めてきたことで、日本で働く全ての人が働くことに満足して欲しい、という思いを抱くようになりました。冒頭に記載した通り、ディスコは、従業員満足を本気で取り組んでいる企業です。この規格が、そのような企業が増えるきっかけの一つになれば良いと思っています。