Vol.251-1 人生を仏教から考える
恵林寺住職 古川周賢
甲州市塩山の臨済宗妙心寺派乾徳山恵林寺の住職古川周賢と申します。
恵林寺といえば、武田信玄公の菩提寺としてよく知られています。
恵林寺はまた、武田家が最後の当主勝頼公の壮絶な最期とともに滅びた後に、侵攻してきた織田方の軍勢によって、難を逃れてお寺にとどまっていた人々が、僧俗、老若男女関わりなく三門の上に押し上げられ、火を放たれて焼殺されるという痛ましい出来事によっても知られています。
80名とも、140名ともいわれる犠牲が出る中、恵林寺の住職であった快川国師は、燃えさかる炎と渦巻く煙のなか、「心頭滅却すれば 火も自ずから涼し」と最期の言葉を唱えながら整然と端座して亡くなられたといいます。
そのようなこともあり、こうしたお寺の住職を拝命していますと、講演の折などに、「死生観」にまつわるテーマをいただいたり、人の生き死にに深く関わるご質問を受けることがあります。
この時に、まずはじめにお話しすることは、仏教における生き死にの考え方です。
仏教では、人の生き死にを一言で「生死(しょうじ)」と言い表します。
これはどういうことかと言えば、仏教では生と死を分けて考えない、ということなのです。人生を考えるとき、「生と死」ということを言いますが、生と死を考えるのではなく一息に「生死」と考えてください、とお話しするのです。
【1】 人生を旅と考えるならば・・・
それでは、生と死を分けて考えない、ということは一体どのようなことなのでしょうか?まず第一に、生命には必ず始まりと終わりがあるということです。
何だ、当たり前じゃないか、と仰る方も多いかと思います。
しかし私たちは、このような一見当たり前だけれども実は大切な事柄を、どうしても忘れがちなのです。
毎日元気に生きているときは、よほどのことがない限り、死のことなど誰も考えたりしません。人生とは「生」であり、この生が終わるとき、死がやってくる、というわけです。しかし、それは私たち一人ひとりが大切な事柄、つまり誰もが生まれ落ちたら必ず死ぬのだ、ということをきちんと考えないからそう見えるだけのことなのです。
始まりと終わりがある、ということで言えば、月並みな例えですが、人生は旅に似ています。どれほど楽しい旅であっても、必ず終わりが来ます。終わりのことも考えない、足の向くまま気の向くままの旅も時には楽しいものですが、一度しかない自分の人生がそこにかかっていたとしたらどうでしょうか?
大切な旅であれば、限られた時間のなか、後悔のないようにきちんと日程を計算し、旅行の終わりの日を考えながらするのではないでしょうか?
どうしてもやりたいこと、やらねばならないこと・・・。それらをすべて限られた時間のなかで達成することは、旅行においても、人生においても容易ではありません。人生は時間こそ普通の旅行よりは遙かに長いものの、一度しかない旅だという点では、とても厳しいものです。行き当たりばったりで良いとはなりません。時間が長いから忘れがちになりますが、ちゃんと終わりを考えながら悔いの残らないように歩き通すのが人生の旅路です。実際、誰もが歳をとり、人生の後半にさしかかると、否応なく自分の人生の終わりを意識します。そのときに手遅れだと思ってジタバタしてもどうにもなりません。
【2】 人生には、終わりがあるからこそ、意味がある
医療の飛躍的な進歩と生活環境の劇的な改善によって、今日の日本に暮らす私たちは、少なくとも環境面から見れば、恵まれた人生を送っていると言うことができます。
しかし、日本人の平均寿命が男女ともに八十歳を超えた今日、比較的長命な人生を与えられた人にとっても、思わぬ原因によって短い人生の時しか与えられなかった人にとっても、ほとんどの人にとって自分の人生は等しく「短い」と感じられるものです。
それは、私たち一人ひとり、自分の人生の終わりがいつ、どんな場面でやってくるのか、誰も知ることができないからです。
まだ先だと思っていたことが突然やってくれば、誰もが狼狽するでしょうし、ある程度終わりがわかってきていて、それなりに準備・覚悟ができてはいても、死んだ後に自分がどうなるのかまったくわかりませんから、死は誰にとっても不安であり、恐ろしい。そして人間誰しも、嫌なこと、怖いことが近づくと、どうしても先送りしたいと思うものなのです。
しかしここで考えていただきたいことは、反対にもしも私たちの人生に終わりがなかったらどうか? ということです。
自分の人生が50年や100年ではなく、200年、300年、500年・・・。
気が遠くなるような長い年月を生きていかねばならない、というよりも、いつまでもいつまでもこの人生がこの日常が終わらないとしたら、どうでしょうか?
どれほど日常に退屈し、うんざりしていても、人生が終わらないとしたら・・・。
そんな人生に、生きる意味を感じることができるでしょうか? どんなに楽しいゲームでも、終わることがないとしたら・・・。飽きようと退屈しようと、やめることが許されず永遠にプレイし続けなければならないとしたら、どうでしょうか?
実は、これもまた、死ぬことに負けず劣らず恐ろしいことなのです。
人生には始まりがあり、終わりがある。だから人生には意味があり、安心して毎日を送ることができるのです。死ぬことは確かに怖い。しかし、誰もがいつかは死ななければならないからこそ、人生に意味を感じることができ、安心して毎日を送ることができるのです。
【3】 人生を「生死」と考えるなら
はじめに、仏教では生と死を分けては考えない、そして人の生き死にを一言で「生死」という、と言いました。それは、今の自分の毎日を「生」、人生が終わってからを「死」と考えるのではなく、毎日の自分の人生を常に「生死」と考えなさい、ということです。私たちは毎朝起きて、顔を洗い、ご飯を食べ、学校に行き、あるいは会社に行き、家に帰って眠ります。そんな風にして、毎日毎日同じようなことを繰り返しながら生きています。しかし、人生の始まりと終わりということを考えるならば、実は過ぎてしまった一日は絶対に帰ってこないことがわかります。人生には終わりがあるのですから、一度きりです。こう考えることが、人生を「生死」と受け止めるための第一歩です。
鎌倉時代の『方丈記』のなかで鴨長明が書いています。
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし・・・。
人生は絶え間なく流れ、しかも時間を巻き戻すことはできない。人生は儚い夢のようにあっという間に終わってしまう・・・。「無常観」として知られる教えは、まさしく人生を「生死」と考えることから生まれてくるものなのです。
人生の時間を砂時計として考えるならば、生まれ落ちた瞬間から砂粒は絶え間なく落ち続けていきます。砂粒が無限にあり、永遠に落ち続けるのであれば、誰も注意して見つめようとはしませんし、砂時計のことなど気にもとめません。私たちは、賢いようでも本質的なことに対しては愚かですから、砂粒の残りが少なくなって初めて、砂時計が終わるということに気がつき、愕然とします。その時初めて私たちは、砂の落ちる早さに気がつき、時の流れは速いと嘆きますが、実は、生まれたその瞬間から、私たちの人生の砂時計は一瞬も止まることなく、無慈悲にも同じ早さで落ち続けているのです。
だから、私たちが気がつかないだけで、毎日毎日同じことをしているようで、実は一度きりしかない朝、一度きりしかない昼、一度きりしかない夜を過ごしているのです。同じように起き、同じように眠るとしても、令和元年の五月二十日は、実は一度しかない・・・。私たちは一度きりしかない朝、一度きりしかない昼、一度しかない夜を、何も考えず、何も感じないままどんどん通り過ぎて生きていませんか?
【4】 「一度きり」の人生
自分の人生を「生死」と考えるというのは、何も絶えず「人間はいつか死ぬ」と思いなさい、ということではありません。
武田家には「参禅嗜むべき事。云く、参禅別に秘訣無し。生死切なることを思え」という教えが家訓として伝えられていたと言いますが(『甲陽軍鑑』)、これは戦に明け暮れる戦国の世のことです。豊かで平和な現代の日本においては、どうか。
それは、既に言いましたように、私たちの人生が「一度きり」だときちんと見つめなさい、ということに尽きるのです。
暮らしがどれほど豊かになろうと、社会が平和になり、科学が進歩して人間の平均寿命がどれほど伸びようとも、私たちの人生が「一度きり」だということは変わりません。朝起きること、人と出会い、挨拶を交わすこと、ご飯を食べ、仕事をし、家族と談笑し、眠りの床に就くこと・・・。一つひとつの何気ない行動が、一つひとつの日常的な出会いが、実はありふれたものでもつまらないものでもなく、誰にとっても一度きりの大切なものだとわかるかどうか。
自分の人生に真剣に向き合い、よく落ち着き、よく考え、人生を大切に、丁寧に、真摯に生きることができないと、この「一度きり」ということを、実感をもって切実に受け止めることはできません。自分の人生を仏教にしたがって考えるということは、そういうことであり、そのための坐禅であり修行なのです。
さて、豊かで恵まれているはずの日本において、それでも年間二万人ほどの人々が自ら命を絶つという悲しくも厳しい現実がございます。
もう一方で、現在、禅は日本のみならず世界中においてブームを迎えていると言われています。実際、全国各地の坐禅会はどこも盛況だと聞きますし、禅についての書籍、そして仏教についての書籍もよく売れていると言います。
禅寺を御護りする身から見るならば、この二つは深いところで通底しているように思えてなりません。
大切なのは、私たち一人ひとりが、情報の氾濫する現代社会において、今一度よく落ち着いて自分自身の足下を見つめ直し、生命というもののあり方を「生死」というところからしっかりと考え、世界で唯一の一度きりのもの、この上なく大切なものであるということをもっと身近に、切実に感じとることです。
これからのお寺の将来は、一つひとつの寺院が静かに落ち着いて、より深く根本的なところから自分自身のあり方を考え、力強く生きていくための指針を得ることができるような場になり得るかどうかにかかっている、そんな風に思っております。