Vol.251-2 治水考


公益財団法人 山梨総合研究所
主任研究員 小池 映之

1.序

 国の果たすべき役割の第一義は国民の生命を守ることである。
 災害による被害を少なくするために様々な防災対策が国や自治体によって行われている。しかし、災害が発生すると多くの人命が失われるという状況は未だに変わっていない。
 いにしえより治水に関しては数々の工夫がなされ、対策が打たれてきた。積み重ねられてきたこれらの英知を現代に生かすという考え方が、今必要とされているのではないだろうか。

 

2.「平成30年7月豪雨」

 2018年6月28日から7月8日にかけて、台風7号および梅雨前線等の影響による集中豪雨が、西日本を中心に北海道や中部地方を含む全国的に広い範囲で発生した。死者224名、行方不明者8名、負傷者459名、住宅全壊6,758棟、住宅半壊10,878棟、一部破損3,917棟、床上浸水8,567棟、床下浸水21,913棟の被害となった(平成30年度消防白書)。同年7月9日、気象庁はこの水害を「平成30年7月豪雨」と命名した。
 岡山県では河川の氾濫や堤防の決壊による浸水、土砂災害が相次いだ。全半壊・浸水家屋の数は7月19日時点で少なくとも14,000棟にのぼり、岡山県内の風水害による被害としては戦後最悪となった。特に倉敷市真備町では、かつてないほどの大規模な浸水被害が起こった。
 全国の被害状況を表1に示す。家屋の全壊は岡山県が突出して多かったことが分かる。

 

表1 「平成30年7月豪雨」の被害状況

出典:内閣府防災情報(平成31年1月9日現在)

 

 真備町では小田川や小田川の支流の高馬川などの堤防が決壊し、広範囲が浸水した。真備町だけで51人が水死。死者のうち43人は屋内で発見され、うち42人は住宅の1階で発見された。
 土木学会の調査によると、浸水は南北1km・東西3.5kmの範囲で深さ5メートルを超え、最大では5.4メートルに達していたとされている。この浸水範囲は真備町の4分の1にあたる1,200ヘクタールに及んだ。

 

3.小田川の決壊を招いたバックウォーター現象

 小田川は本流の高梁川の支流にあたる。小田川では、合流先の高梁川の増水に伴い水がせき止められるバックウォーター現象が発生した。このバックウォーター現象により小田川が増水し、堤防の内側が削られ決壊したとみられる。真備町における堤防の決壊箇所は小田川で2箇所、支流の高馬川で2箇所、末政川で3箇所、真谷川で1箇所が確認され、小田川では他にも6箇所で法面の崩落が確認された。

 

図1 小田川・高梁川合流点のバックウォーター現象

出典:東京海上研究所ニュースレター

 

 真備町では、急こう配の高梁川と緩やかな流れの小田川が合流している(図1参照)。大雨のため、高梁川の水位が増すと、支流の小田川の水が高梁川に流れ込むことができなくなる。このため、小田川の水位が上昇し、川を逆流するバックウォーター現象が発生する。
 本流と支流が合流する地点では、バックウォーター現象が起こる可能性が高い。
 実は、倉敷市では以前から小田川の決壊を予測していた。平成29年に倉敷市が作成したハザードマップ(図2参照)と実際の被害地域(図3参照)を比較してみると、その範囲は見事に一致している。今回の災害による被害地域は、ハザードマップによると5.0m以上の浸水が予想されていた地域となる。実際に真備町は最大5.4m、家屋の2階部分まで浸水した。

 

図2 真備町付近のハザードマップと浸水の予測範囲

出典:真備・船穂地区洪水・土砂災害ハザードマップ(平成29年倉敷市作成)

 

出典:真備・船穂地区洪水・土砂災害ハザードマップ(平成29年倉敷市作成)

 

図3 真備町近辺の浸水区域

出典:GoogleMapより作成

 国土交通省のホームページで公開されている「平成26年度予算に係る河川事業の新規事業採択時評価」では、小田川の氾濫の危険性と河川改修事業の緊急度及びその効果についての評価が行われている(図4参照)。国の事業評価においても2014年時点で河川改修事業の重要性が認識されていた。それにも関わらず、2018年時点で河川改修工事は始まっていなかった。その結果、真備町に甚大な水害が発生した。改修工事は小田川と高梁川の合流地点を下流側に付け替えて水を流れやすくするという内容だった。
 岡山大の前野詩朗教授(河川工学)は「改修後であれば洪水は防げたかもしれない」と話している。

 

図4 小田川の氾濫の危険性と河川改修事業の緊急度及びその効果についての評価

出典:平成26年度予算に係る河川事業の新規事業採択時評価(国土交通省水管理・国土保全局)

 

 国土交通省水管理・国土保全局の「水害の被害指標分析の手引き(平成25年7月)」に則り、小田川の河川整備による人的被害とライフラインの停止による波及被害の軽減効果を算定した結果を表2に示す。この算定によると、小田川と高梁川の合流点付替えの河川改修工事で被害数量はすべて0になるとされている。

 

表2 小田川の河川整備による人的被害とライフラインの停止による波及被害の軽減効果

出典:平成26年度予算に係る河川事業の新規事業採択時評価(国土交通省水管理・国土保全局)より作成

 

4.治水の英知、信玄堤

 山梨も昔から水害が多く発生していた。
 そもそも甲府には、甲府盆地がかつて湖だったという甲府湖水伝説が残っている。伝説は次のように伝えられている。
 「昔、甲府盆地が一面の湖水であったころ、一人の地蔵様が、この水を除きたいと二人の神様に相談をかけた。二神も賛成して一人の神が山の端を蹴破り、他の神が山を切り穴をあけて、湖水の水を富士川へ落とした。これを見た不動様も河瀬を造って手伝ったので、この二神二仏のおかげで甲府の土地が現われた。山を切り穴をあけた神は、今甲府の西に穴切神社として祭られ、山を蹴破った神は蹴裂(けさき)明神として知られている。瀬立不動が河瀬を造った不動様、また甲府の東光寺の稲積地蔵というのが、初めにこの疎水計画をされた地蔵様である。もとは西の法城寺にあったのを、のちに東光寺に移したもので、甲斐の国を産み造ったことから、これを国母地蔵ともいう。」(角川書店「日本の伝説10」より)

 山梨で治水と言えば信玄堤である。信玄堤は「霞堤」と呼ばれる堤防の一種で、堤防を連続させず不連続に築堤する。不連続点では上流側の堤防が下流側の堤防の堤外(河川側)に入れ込む構造となっている。不連続部分周辺の堤内(居住・営農区域)は、予め浸水を予想した遊水地となっている。洪水時には開口部から水が逆流して堤内地に湛水し、下流に流れる洪水の流量を減少させる。この提内地に上流から流れてきた肥沃な土壌を呼び込むことによって、営農区域にこの土壌を蓄積する。つまり、単に洪水を防ぐだけの堤防ではなく、洪水後の農業に役立てる機能を有した堤防となっている。洪水が終わると、堤内地に湛水した水は排水される。予め水の溢れる箇所を決めておくことで、想定外の被害を出すことを抑えることができる。急流河川の治水方策としては、非常に合理的な堤防である(図5参照)。

 

図5「霞堤」の構造

 

 小田川と同様に、御勅使川もバックウォーター現象により氾濫する危険性が高い。御勅使川と釜無川、周辺の信玄堤の位置関係を図6に示す。山梨県における御勅使川と釜無川との関係は、真備町の小田川と高梁川の関係に良く似ている。
 釜無川と支流の御勅使川はかつて甲府盆地西部に水害をもたらした。信玄堤の築堤が行われるまでは両川の流路は定まらず、釜無川の東流路は甲府市にも水害を及ぼしていた。
 武田信玄印判状(保坂家文書)には、信玄と勝頼の治水事業に関する記録が残されている。

 御勅使川が氾濫した場合、図中のG地点で堤防が決壊し、釜無川東側が浸水する恐れがある。その際、昭和町飯喰、旧田富町臼井に設けられた霞堤がH地点まで水を導水し、霞堤の開口部によって水を川に戻すことが可能となる。霞堤は氾濫が発生した場合の被害を最小限に抑える優れた治水方法なのである。
 この御勅使川と釜無川に施された霞堤の効果は、小田川と高梁川の関係においても、有効に働くものであると考える。山梨では武田信玄の治水事業によって信玄堤が築かれていた。現在も有効に機能しているこの治水方法をもっと研究して広めていくことが治水を行ううえで重要であると考える。

 

図6 御勅使川と釜無川周辺に築かれた信玄堤

出典:国土交通省関東地方整備局甲府河川国道事務所作成

 

5.結

 平成23年の東日本大震災を契機に、平成25年、「強くしなやかな国民生活の実現を図るための防災・減災等に資する国土強靱化基本法」いわゆる「国土強靭化基本法」が制定された。
 この基本法では、大規模自然災害等から国民の生命、身体及び財産を保護し、並びに国民生活および国民経済を守ることが国の果たすべき基本的な責任とされている。具体的には、大規模自然災害等に対する脆弱性を評価し、優先順位を定め、事前に的確な施策を実施して大規模自然災害に強い国土及び地域を作ることが必要となる。岡山県倉敷市では平成29年に倉敷市国土強靭化地域計画を策定している。
 倉敷市国土強靭化地域計画では、想定する大規模災害として河川洪水が挙げられており、道路、橋梁、堤防等の強化の必要性が謳われている。当該地域の脆弱性評価としては「地球温暖化の影響と思われる異常気象による突発的で局所的な集中豪雨や台風の頻繁な襲来によって、河川の水位が上昇し,堤防が決壊し、河川の流域全体に甚大な浸水被害を及ぼすおそれがある。」とされており、この脆弱性に対する重点取組項目として、「高梁川と小田川の水位を低下させ,治水安全度を飛躍的に向上させる小田川合流点付替え事業等の抜本的な治水事業を促進するとともに、災害時の緊急復旧用資材の備蓄や災害対策車両の基地等として、水防活動の拠点となる河川防災ステーションの整備を図る。」とされている。倉敷市国土強靭化地域計画では、高梁川と小田川の氾濫の危険性が認識されており、治水事業を行うことが謳われているのである。計画の評価指標は、表3に示すように「高梁川・小田川合流点付替え事業の工事」が現状値として「未着手(平成28年)」、目標値として「本工事着手(平成32年)」となっている。

 

表3 倉敷市国土強靭化地域計画における評価指標

出典:倉敷市国土強靱化地域計画(平成29年9月)

 山梨県の国土強靭化地域計画の策定状況は、内閣官房が令和元年6月11日に発表した「国土強靭化地域計画の策定状況」によると、山梨県、山梨市、大月市、富士川町、道志村、富士河口湖町の6計画が策定されているに過ぎない。同時に発表された策定状況MAP(図7)を見ると全国的にも強靭化計画の策定が進んでいないことが分かる。

 

図7 国土強靭化地域計画の策定状況

出典:内閣官房「国土強靭化地域計画の策定状況(令和元年6月11日)」

 

 国土強靭化基本法では、当該市町村の他の計画の指針となるべきものとして、国土強靭化地域計画を定めることができるとされている。この国土強靭化地域計画の位置づけは、国土強靭化計画を頂点として他の計画を傘下とする「アンブレラ計画」と言われている(図8参照)。

 

図8 国土強靭化計画を頂点とした「アンブレラ計画」

出典:内閣官房国土強靱化推進室パンフレットより引用

 

 山梨県内の市町村は、改めて国土強靭化地域計画の重要性を認識すべきではないだろうか。早急に国土強靭化地域計画を策定し、そのうえで各計画の見直しを行うべきである。

 防災計画は、緊急用の食料備蓄や避難所の設置などに目が行きがちだが、防災の第一義はいかに災害を起こさないようにするかを考えることにある。
 災害によって亡くなった人にとっては、緊急時の食糧も避難所の設置も何の意味も持たない。
 山梨県は武田信玄の時代から水害に対して優れた対策を講じてきた。その成果は今も私たちの暮らしを守っている。異常気象による災害が多発している現在、過去の優れた技術に学び、真に人命を守るための防災とは何かをもう一度考えるべきである。


参考文献

  1. 平成30年度消防白書
  2. 真備・船穂地区洪水・土砂災害ハザードマップ(平成29年倉敷市作成)
  3. 平成26年度予算に係る河川事業の新規事業採択時評価(国土交通省水管理・国土保全局)
  4. 日本の伝説10(角川書店)
  5. 倉敷市国土強靭化地域計画(平成29年岡山県倉敷市)
  6. 国土強靭化地域計画の策定状況(内閣官房)