運動会というコミュニケーション
毎日新聞No.549 【令和元年10月11日発行】
秋の運動会シーズンである。
今年も、地域で、学校で、数々の名場面が生まれていることだろう。毎日小学生新聞2016年9月4日付けの記事『運動会の歴史』によると、明治期に「海軍兵学寮」(東京・築地)でイギリス人教師が母国で行われていたアスレチックスポーツを提案したことがその起源だという。そして、時代とともにありようも移り変わり、大正期には「村の祭り」の性格が強くなったり、戦争が始まると軍事色が強まったりしたという。起源はともあれ、現在の運動会はどうであろう。
それぞれに思い出も感じ方も違うだろうが、私が小学生を過ごした田舎では、学校や町の運動会といえば、競技トラックを囲むように敷かれたブルーシートに隣近所のおじちゃん、おばちゃんも含め、たくさんの人がひしめきあって座っていたのを思い出す。そして競技する人を、みんなで応援していたような記憶がある。子どもながらに楽しい時間だった。
このような思い出があったので、初めて子どもの小学校運動会に参加したときに戸惑ってしまった。各家庭が日陰を取り合うようにグランド周囲からテントを立て、自分の子どもが競技に出るときだけテントから出てビデオゾーンで応援し、終ればテントに戻っていく。
9月とはいえ非常に暑い中での一日行事のため、熱中症対策にテントは必要なのかもしれない。そして、慣れると快適であることは間違いない。でも心のどこかにひっかかるものを感じる。それは自分の子どもだけを応援することに対する寂しさや後ろめたさなのかもしれない。だから毎年、近所の子どもたちが出る競技も、図々しく前に出て、声を張り上げ応援してしまう。かつて近所のおじちゃん、おばちゃん達がしてくれていたように。
数々の物騒な事件からコミュニケーションをとるのに萎縮しがちな社会環境はあるものの、内にこもるだけの社会では楽しくない。安全対策を意識しつつも、『人との関わり』続けませんか?!
(山梨総合研究所 研究員 山本直子)