Vol.256-2 このまちが引継いでいくもの


~「江戸と異なるところがない」甲府城下町のこれから~

公益財団法人 山梨総合研究所
研究員 山本直子

1.はじめに

 こうふ開府500年ホームページ(甲府市HP[1]に、甲府の歴史が次のように記載されている。

 甲府城は豊臣秀吉配下の浅野長政・幸長父子などにより、今からおよそ400年前に一条小山に築城され、その周辺に近世の甲府城下町が建設されました。徳川綱吉側近の柳沢吉保が城主になると、甲府城と城下町の再整備が積極的に進められました。柳沢氏の時代は、当時、甲府城下町を訪れた荻生徂徠が「人家は繁盛し、市街がよく整って商店に多くの品物が並び、人々の姿ふるまいもほとんど江戸と異なるところがない」と記すほど、江戸時代を通じて甲府城下町が最も繁栄していました。その後、享保91724)年の柳沢氏の大和郡山(奈良県)への所領替えにより、甲斐は幕府の直轄地となり甲府城には勤番支配が置かれることとなります。
 これを機に、勤番士などから江戸の文化がもたらされ、特に亀屋座での歌舞伎興行は「甲府で流行った芝居は、江戸でも流行る」といわれるほどでした。

    *下線は筆者追加

 昨今、地方創生の大きな流れの中で、まちの核となりうるオリジナリティを各自治体が競うように探し求めている。しかし、そもそも、「まちの核」とは何だろうか。様々な定義が可能であろうが、必要条件の一つとして「多くの人の共感を集める」ことが挙げられるのではないだろうか。そうであるならば、多くの人の共感を集める可能性が高く、まちが記憶してきたシンボル的な「もの」に目を向けるのはどうだろうか。
 本稿では、江戸にも引けをとらないといわれた賑わい時代の「シンボル」として存在感を放っていた『亀屋座』(芝居小屋)に着目しながら、今後のまちづくりについて考察する。

 

2.亀屋座について

 亀屋座は亀屋与兵衛によって1765年に建てられた芝居小屋がその始まりである。移転等を経て1805年に落成したその劇場は、間口11間(約20m)、奥行20間(約36m)という大規模な建物であり、これは江戸三座(中村・市村・森田)と同じくらいの大きさであったといわれている。歌舞伎が人々の大きな娯楽であった当時において、大人気のスーパースター級の役者が亀屋座で舞台を踏み、また、歌舞伎以外の芸能もしばしば興行されていたようである[2]。いわば文化発信の中心施設だったといえる。このように亀屋座は江戸期の甲府の文化の成熟度を示す存在であったにもかかわらず、現在における知名度は、残念なことに心もとない。
 しかしながら、霞んでしまった過去の文化を悔やんでばかりでは何も生まれない。今からでも、アイディア次第では未来に活かすことだってできる。過去に学び、未来につなげていく方策を模索するのは賢く、現実的な方法である。そのような考えから、今後の甲府の賑わい創出に向け、甲府のまちが一番栄えていたと言われる江戸時代の甲府のシンボルに、注目してはいかがだろうか。

 

3.まちをデザインする『新世紀甲府城下町研究会』について

 新世紀甲府城下町研究会(小宮山要会長以下24名)という息の長い有志の研究会がある。甲府の歴史・文化を再発掘・発信し、県民が自分の住むまちに自信と誇りを取り戻す一助となることを目的に活動し、2002年の立ち上げ以来、既に130回以上の会合を重ね、行政団体に対して様々な提言を行ってきている。山梨総合研究所は設立当初からこの研究会の事務局を務めている。
 近年の研究会では「甲府らしさ」の一つとなりうる『亀屋座』に着目し、議論を進めているところであり、今後の議論を一層加速するため、現存する日本最古の芝居小屋である『金丸座』(香川県琴平町)の視察を実施した。そこで本稿でも、『亀屋座』復元に向けた雰囲気づくりを盛り上げていくため、『金丸座』について紹介していきたい。

 

4.金丸座視察について

(1)金丸座の概要

 天保6年(1835)に建てられた現存する日本最古の芝居小屋であり、昭和45年に国の重要文化財に指定され、この時、名称が旧金毘羅大芝居となった。昭和60年からは四国こんぴら歌舞伎大芝居が開催され、全国から歌舞伎ファンが訪れ、四国路に春を告げる風物詩となっている。舞台装置は全て人力で江戸時代の雰囲気を今に伝える建物である[3]

敷地面積[4]3,079㎡  建築面積:850
延床面積  :1,161㎡(1階:850㎡、2階:311㎡)
構造様式    :木戸、客席、舞台、楽屋等複合建築物
収容人員    :740
所有・管理 :琴平町教育委員会(旧金比羅大芝居管理事務所)

 

(2)金丸座の復元

 人々の娯楽の変化とともに、近代以降、芝居小屋は映画館へと移り変わり、芝居小屋の内部なども様式を変え、やがて芝居小屋における興行は衰退し廃館となった。芝居小屋自体も荒廃が進み、朽ち果ててゆく運命にあったが、そんな芝居小屋を町の人々は熱心に保存を望んだ。江戸時代より現代に至るまで風雨に耐え火災にも遭うことなく奇跡的に残った最古の劇場「金毘羅大芝居」を後世に残すため、多くの人々により保存運動が始まった。その活動は広がりをみせ、国内外の建築、演劇に携わる専門家も加わり、芝居小屋を訪れ専門的な調査も行われた。やがて人々の願いは国に届き、歴史的、文化的価値が認められ、昭和45617日、「旧金毘羅大芝居」として国の重要文化財に指定された。そして、昭和47年より4年の歳月をかけ、昭和513月に現在の愛宕山中腹に移築復元され、天保の時代そのままの姿に甦った[5]

 

(3)現在の様子

 新世紀甲府城下町研究会が20197月に視察を行った際の様子を、一部紹介していく。

櫓(やぐら)
江戸幕府公認の劇場である証。
興行期間中には、櫓に幕が張られる。

花道
幅約1.3m、長さ約14m
途中『すっぽん』と呼ばれる「切穴」があり、奈落からせり上がる演出がなされる。
天井
竹で編んだ格子状の天井。桜吹雪も散らすことができる。約500本の竹を使用している。
廻り舞台
舞台中央にある直径4間(7.3m)の円形にくり抜き、回転させることのできる舞台である。
セリ
「スライド」式に奈落と舞台を上下できるようになっている。
奈落
廻り舞台やセリ・すっぽん等の仕掛けを動かすための場所である。今でも全て人力で動かしている。

 

(4)ボランティアの活躍

 ガイドによると、毎年の公演は多くのボランティアによって支えられているとのことであり、それは非常にやりがいのある活動であるとのことであった。その役割は多岐にわたり、江戸時代そのままに電気も機械も使わずに上演するため、舞台転換時に使う回り舞台の人力による操作はもちろん、照明としての明かり窓の開閉も行っているそうである。そしてこれらはすべて、琴平町商工会青年部員がボランティアで行っている。また、席への案内・プログラムの販売・掃除などを担当する女性ボランティアも2030人参加していて、今では地元のみならず全国からのボランティアの人達で「まちづくりの」の輪が広がっているとのことである[6]

 

(5)視察に関する考察

 金丸座に到着した時分(7月日曜日14:30頃)、観光客は1~2組であり、賑わいを感じるという状況ではなかった。しかしながら、ガイドによる『金丸座』の説明(1時間弱)は、視察一行を魅了する内容であり、僅かな滞在にも関わらず、視察一行の金丸座に対する見方を一変させたように感じた。

 人気(ひとけ)のない単なる建物から、過去の、役者の、地元の、全国のファンの、息づかいを感じる建物に。

 複数の参加者にも感想を聞いたところ、同様の感想を持っており、それはガイドの金丸座への「愛情ゆえ」ではないか、との話に及んだ。金刀比羅宮という観光資源の麓にあるものの、金丸座については、観光客の賑わいを創出する拠点となるには、多々難しい点があるのではないかと推測する。しかしながら、視察一行のそれぞれの記憶にしっかりとその存在が刻まれたことを考えると、「地元に愛されていることの強み」が印象に残る視察となった。そして、同時にこれこそ「文化」ではないか、との感想も抱いた。文化には新しく創る文化もあるだろうが、かつて栄えた文化という財産があるのであれば、それを地元の歴史として、「そこにしかない文化」として、蘇らせていくことは、建物復元だけに留まらず、文化や愛着醸成等を含めた『地に足のついたカタチ』として未来に繋がっていくのではないだろうか。

 

5.まとめ

 新世紀甲府城下町研究会では、『亀屋座』が郷土愛の醸成と地域活性化のシンボルとなることを目指し、既に復元に向け、動き出している。
 平成294月、県と甲府市に対して、「小江戸甲府文化の賑わいを今に伝える」をコンセプトにした甲府城周辺地域活性化実施計画に関する提言書[7]を提出した。その中で、『亀屋座』の建設場所について、次のとおり提案している。

 甲府城周辺の活性化については、注目度が高いだけに、関係者の利害調整が難しいことは想像に難くない。それでもその困難さに関わらず、甲府のまちをよくしていくためには、当然現状維持では物足りず、何らかの創意工夫を「現実にする」必要がある。つまり、何もしないという選択肢は取り難い。そうであるならば、大事なのは議論ではなく、議論による合意形成を経て、アイディアを実現し、そして軌道修正しながら十分に活用されるよう運用していくことである。
 『亀屋座』建設はあくまで手段にしかすぎず、復元はゴールではなく、あえて表現すればスタート地点に立つということである。つまり、『亀屋座』を利用して、どのように郷土愛を育むか、地域を活性化させるのか、それぞれが考え続けることが必要であり、大切なことである。
 そして目指すところとして、香川の地で感じた「地元に愛されていることの強み」というレベルにまで、まちへの愛着を醸成することにより、「山梨で育つ子ども達に、外の良さ[8]を素直に認めることもできる一方で、地域への誇りに基づくゆるぎない自信を持つようになってほしい」、と願うが、いかがだろうか。
 そのために私達大人は何をしたらよいのだろうか。壮大なゴールを意識するとしり込みするか、もしくは無力感を覚えてしまうかもしれない。
 でも私は次のように思う。何を考えたらいいのだろうか、という迷いや悩みが出発点でも十分である、と。
 「一歩、踏み出す。そして誰かと関わる。」
 その繰り返しとうねりの中で、世の中は少しずつ、少しずつ変化していくのだと思う。

 文化発信の拠点が息を吹き返す。その時、甲府のまちはどのような豊かな文化都市になっているのだろう。そんな近い未来を想像するとワクワクしてくる。 


〈参考・引用資料等〉

[1] こうふ開府500年HP https://www.kofu500.com/history/index.html

[2] こうふ開府500年記念特集(第3弾巻12)芸能の殿堂・亀屋座 甲府市教育委員会

[3] 琴平町観光協会HP https://www.kotohirakankou.jp/spot/entry-55.html

[4] 旧金比羅大芝居[金丸座]パンフレット (敷地面積~所有・管理)

[5] こんぴら歌舞伎オフィシャルサイト http://www.konpirakabuki.jp/history/reform.html

[6] こんぴら歌舞伎オフィシャルサイト http://www.konpirakabuki.jp/history/ayumi.html

[7] 甲府城周辺地域活性化実施計画に関する提言書 新世紀甲府城下町研究会(H29年4月)

[8] 筆者は、住みやすさをはじめ観光資源や人的ネットワーク等様々な要素を想定している