Vol.260-1 「ヘルスリテラシー向上」と「COVID-19」
特定非営利活動法人がんフォーラム山梨理事長
山梨まんまくらぶ代表
若尾 直子
1.漫画「サザエさん」が掲載され始めた頃と現在
ほんの70年ほど前の日本人の平均余命をご存じだろうか。なんと、50歳代となっているのだ。この時期に新聞の連載漫画として人気をえたのが「サザエさん[i]」で、一家の主(あるじ)である『磯野波平さん』は54歳と設定されている[ii]。波平さんは、戦後における日本の現役サラリーマン(退職前ではあるものの)のイメージである。この波平さんの容姿は、当時の50歳代を表していることになる。妻である『磯野フネ』さんは、52歳くらいに設定されている。現在の50代前半日本人の風貌とはかけ離れている。日本人男性の平均余命が60歳を超えるのは、1951年を待たなければならない。
振り返ってみると2020年を迎えた現在までのわずか70年ほどで、日本人の平均余命は30歳以上も延び、80歳を超えている[iii]。
日本人が長寿となったのには、いくつかの要因があるが、その一つには新生児の死亡率減少があげられる。しかし、それだけではない。予防できる疾患への対策が充実してきた事が大きいといえる。いわゆる公衆衛生の向上と感染症対策である。
図-1をご覧いただいてもわかるとおり、1960年頃を境に、日本人の死因は大きく変化している。例えば、結核は激減し、肺炎も減少してきている。この時代は、戦前の富国強兵政策として国民の体力を強化する国家体制から、国民の健康を守る医療政策に変化してきたことの表れだといえよう。
医療制度でみると、1961年に国民皆保険制度が整備され、紆余曲折はあるものの、全国民を包括する総合的な医療保障制度が達成されている。これ以前は、貧しい農民などは、家族の誰かが大きな病気をすると、田畑を売り払うとか多額の借金をするなど、悲惨な状況に陥ることが多くみられた。そして病の原因は、感染症が多かった。つまり、高価な医療が受けられる人は命を繋ぐことができたが、貧乏人は死を待つことしかできなかったのだといえる。このような時代背景の中で育まれてきたのが現在にも続く国民皆保険制度である。誰でも、どこに住んでいても、貧富の差なく、一定の負担で安心・安全な医療サービスを受けることができるようになった。しかし、公衆衛生状況が改善され、食生活が豊になり、医療水準も大きく向上していくと、感染症による重症化は激減し非感染性疾患(以下NCDs)[iv]が急増してきた。特に食生活は大きく変化し、動物性タンパク質や脂肪を多く含む食品を摂取する機会が増えたことにより、体格の変化に、肥満が目立つようになる。
2.感染症の恐怖から非感染症の恐怖に
NCDsに共通してみられることは、不規則で偏った食生活や運動不足、喫煙、過度の飲酒などの生活習慣の乱れ等である。総じて、感染による疾病ではなく、一部予防可能な疾病が増えてきている。具体的には、悪性新生物(以下「がん」)・糖尿病・循環器疾患・呼吸器疾患等の罹患である[v]。
日本人の死因の推移では、1981年より「がん」が日本の死因のトップとなり、高齢化と共に罹患数は増え続けていく[vi](厚生労働省『人口動態統計年報 主要統計表(死亡:第7表)』)(図-1)。2020年現在、国民の二人に一人が一生涯のうちにがんに罹患し、三人に一人は「がん」で亡くなっている[vii]。高齢化が進む日本において、遺伝子が変異することで「がん」発症にいたることを考えると、この傾向は今後も続いていく。
3.がん対策と情報
このような状況の中、がん対策は、結核対策(届け出・予防・治療等包括的な結核対策)の成果を横目に[viii]みながら、『対結核戦略』に変わる国民への健康対策として重要視せざるをえなくなる。結核は、国をあげて正しい情報を適切な方法で発信し、結核予防を実施することにより、「地域住民の行動変容」、「行政やさまざまなセクター間での連携・協働」、「制度の充実」等を達成し、克服に結び付いた好事例となっている。だが、がん対策は日本の最重要課題となっているのにもかかわらず、公共性を持つ政策として「がん」に特化した対策を具体化するのが遅すぎたように思う。いわゆる国としての『対がん戦略』への姿勢が後手にまわったことを指摘したい。
国とがん対策の関連を見ると、「がん」が日本人の死因の2位となった1953年ごろから「脳血管疾患」「心疾患」「糖尿病」「高血圧疾患」を含めた5大疾患を「成人病」としてくくり、成人病対策として行ってきた。そしてやっと、1958年からさまざまな「がん」に特化した対策を行っている。2006年には、議員立法にてがん対策の法的根拠である『がん対策基本法(2016年12月改正)』が全会一致で成立した。「がん」が日本人の死因のトップとなってから、がん対策の法的根拠ができるまで、四半世紀を必要としたことになる。しかも、このがん対策基本法の成立過程をみてみると、公共性を持った政策として解決したい問題を、当事者としての市民(がん患者)が「体験していなければ解らない困難さ」を課題として掲げ、がんへのスティグマ(偏見・差別)をはねのけ、言葉にして社会(政策立案者等)に伝え続け、議員が動いた経緯がある。国民の代表である国会議員と、がん患者・家族・遺族の想いが一致して成立した法が『がん対策基本法』なのだ。この基本法成立の背景には、がんに関する最新で信頼できる情報源がなかったことがあげられる。また、保険適用として使用できる抗がん剤の認可が遅れ、海外では助かる命が、日本では薬が使えないという理由で治療が遅れてしまうような状況が続いた事があげられる。いわゆる『ドラッグ・ラグ』[ix]問題である。がんに罹患し、命をかけた治療を選択する上で、何の情報もなく、運と手探りで治療先を探し、治療方法の比較もできず、治療成績も知る術がなく、がん難民になった患者達のなんと多かったことか。
4.がん告知
皆さんは「がん」にどのようなイメージをお持ちだろうか・・・。
先日、とある高等学校の生徒を対象に、「がん」をテーマとした健康セミナーを行った。セミナーを行うにあたり、事前に2問だけのアンケート(「がん」のイメージと、講師である私に聴いてみたいこと)をとったところ、「がん」と「死」を結びつけてイメージする記述が多くみられた。高等学校の生徒にとっても、「がん」のイメージは「死」と結びつく。
あくまでも一般論だが、「がん」のイメージは暗く、2020年である現在も「がん=死」と感じる人は多い。遺伝子解析が進み、次世代シーケンサーによって、短時間で全ゲノムが読み込める時代となり、遺伝子情報からがん治療のアプローチが進められているのにもかかわらず、一般人にとっては、「全てのがん」が、未だ正体不明の不治の病という認識のようだ。もちろん治療が難しいがん腫もあるが、5年前とは比較にならないほど、刻一刻とがん医療は進展し、年齢を調整したがんの死亡率[x]は低下している(図-2参照)。だがやはり、「がん」の告知はダメージが強く、精神的にも傷つく。人によっては、仕事を辞めてしまうこともあるほどの衝撃を受ける。医療分野での認識と、一般の認識との差はどこから来るのであろうか。
5.ヘルスリテラシー向上とがん教育
がん対策基本法第23条には、以下のように明記されている。
「国及び地方公共団体は、国民が、がんに関する知識及びがん患者に関する理解を深めることができるよう、学校教育及び社会教育におけるがんに関する教育の推進のために必要な施策を講ずるものとする。」と。また、がん対策基本法第10条・12条にもとづいた『がん対策推進基本計画(2018年3月9日第3期が閣議決定)』においても、「がん教育」の重要性が謳われている。文部科学省も、新学習指導要領にもとづき、小学校、中学校、高等学校における「がん教育」の全面実施を公表している。小学校においては、本年2020年4月から全面実施となっている(中学校は2021年度から、高等学校は2022年度から)[xi]。学習指導要領にもとづいて行われるということは、格差のない教育として、全ての児童・生徒に情報を届けなければならない。加えていうと、山梨県では本県初の議員提案となった政策条例『山梨県がん対策推進条例(2012年2月施行、2017年10月改正)』第10条において、がん教育の推進を謳っている。では、はたしてなぜ「がん教育」がこれほど推進されなければならないのであろうか・・・。
私たちのからだは、およそ37兆個といわれているほどの膨大な数の細胞によってできあがっている。最初はたったひとつの受精卵だったものが、人体の設計図である遺伝子情報にもとづいて分裂を繰り返し、それぞれの設計図通りの形ができあがってからだを構成している。学校教育の中で、このような事は教えてもらった記憶はあるが、病気のこと、特に日本人の二人に一人が罹患するといわれている「がん」について学んだことがあるだろうか。いや、ない。
法にもとづき、計画に明記され、学習指導要領が変更され、県としての条例にも謳われるほど重要な事を、私たちの世代は、教育として学ぶ機会を与えられなかったことになる。その結果、驚くほど身近な病気であるのにもかかわらず、「当事者」になるまで「他人事」と思ってしまう。なるたけ目をそらそうとしてしまう。だからこそ教育として学校現場に登場することとなったわけである。
「がん教育」は、未来を担う子ども達にとって、明日の日本にとって、非常に重要な視点だからであろう。
「がん」を通じて健康の大切さや不思議さ、命の大切さや医療の仕組み、情報収集の重要性など、多角的な視点から日常生活を考える機会を得ることは、非常に有意義なことで、社会をそして日本の文化を変える力を持つ。
「がん」を正しく知り、理解することで、ヘルスリテラシーの向上につながり、未来の日本人の健康意識を変えていくことにつながる。
今後の「がん教育」の行方を、注視していきたい。
-おわりに-
本稿を書き終えた頃、COVID19(新型コロナウイルスによる重症肺炎)が蔓延し始めた。テレビ・ラジオ・新聞をはじめとした報道は、「新型」とか「初」をむき出しにした内容を競って報じる。しかし、肝心なことは「正しく知って、正しく恐れ、情報を自分事として処理できる」かどうかだ。だが、感染症に対しては、様々な予防・治療が行われ、予測をしながら疾病対策をしてきているつもりの医療体制を飛び越えて襲ってきた病であるため、偽情報を含めた情報混乱(WHOは「インフォデミック」という言葉を使っている)が起き、「正しく知る」ことも「正しく恐れる」こともできないまま混乱に陥ってしまった。全体像がわかるには時間がかかる。時が経ち、感染が落ち着き、結果としてしか罹患率は出てこない。発症してウイルス反応が陽性になった患者の重症率は数字として信頼できるが、全体像がわからないうちに罹患率や安易な死亡率を報道するのはどうかと思う。今回のCOVID19感染に関しても、ヘルスリテラシーの向上は、喫緊の課題だと思った次第である。
[i] 1946年、「夕刊フクニチ」で連載された。
[ii] 『長谷川町子美術館』公式ホームページより
[iii] 厚生労働省による簡易生命表によると、2018年においては女性:87.32歳、男性:81.25歳となっている。
[iv] 非感染性疾患とはNon-Communicable Diseasesの略で、NCDsと表現されている。
[v] もっとも「がん」は、予防による罹患の回避ができないものも多い。「がん」は遺伝子変異が原因となって発症するが、遺伝子変異自体を起こす刺激が複雑すぎて、生活習慣の改善だけでは予防することができないものも多いため、がん予防対策には慎重な言葉遣いが必要とされる。
[vi] がん発生はDNA障害などに起因するため、加齢によりその障害のリスクは格段に増加する。
[vii] 国立がん研究センターがん情報サービスによる「生涯でがんに罹患する確率(累積罹患リスク)は、男性62%、女性46%とされ、両性ともおおむね二人に一人が生涯のうちにがん罹患する計算になる。また、2016年の人口動態統計(確定数)によると死亡総数1,307,748名のうち、悪性新生物(がん)でなくなっている人は384,460名となっていて、概ね三人に一人はがんで亡くなっていることになる。
[viii] 我が国の結核対策については、さまざまな研究論文等があるが、概略は『日本公衛誌』第55巻第9号の青木連載論文を参考とした(青木2008:667)
[ix] 2006年10月、厚生労働省は、「有効で安全な医薬品を迅速に提供するための検討会」を発足させドラッグ・ラグ解消に向けた検討を開始した。
[x] 年齢調整死亡率とは、年齢構成の異なる地域間で死亡状況の比較ができるように年齢構成を調整した死亡率で、人口10万を対象として数値化している。がんの場合は、年齢が高くなるほど罹患の確率も高くなるので、75歳未満で調整することが多い。
[xi] 文部科学省ホームページ「学校保健の推進・がん教育」参照