Vol.264-1 郷土の幕内力士の系譜~明治以降9人、竜電に高まる期待
山梨日日新聞社元論説委員長・元編集局長
向山 文人
1.はじめに
大相撲の幕内の土俵に郷土力士が上るようになって2年半。開催中の7月場所で西前頭6枚目の竜電(甲府市出身)は連日、懸命の土俵を務めている。山梨日日新聞社の編集局フロアは、彼の一番になるとデスクや記者らが仕事の手を止めてテレビの前に集まり、取り口や勝敗を注視する。そんな光景がこのところ毎場所続いている。
だが驚くことに竜電が入幕間もない頃は、記者やデスクの中に、右四つと左四つの違いや上手投げと下手投げの違い、おっつけや体を開くといった相撲用語が分からない人が多かった。「柏鵬時代」(柏戸と大鵬)が始まった1960年頃、小学校入学前に大相撲ファンとなった私には正直信じがたく、また記者として入社した41年前(1979年)は職場では普通に相撲用語が飛び交っていただけに、“凋落(ちょうらく)”は明らかだった。
なぜなのか。思えば入社当時は、郷土力士・富士桜(同市出身)の全盛期で、県民の多くが彼の勝敗を気にしており、紙面でもしっかり扱っていた。プロスポーツといえばほとんど野球や大相撲しかない時代だった。それが今や、サッカーやラグビー、テニスなど人気スポーツが台頭して県民の興味・関心が拡散したことが一因だろう。
もう一つ思うことがある。それは富士桜が引退(85年)、大乃花(旧八代町出身)の1場所だけの入幕(88年)の後、平成になってからのほぼ30年間、山梨県出身の幕内力士が皆無だったことだ。竜電の入幕は、平成が終わる前年の2018年のこと。かくも長き不在が県民の興味・関心を薄れさせたのだ。
2.郷土力士の系譜
ここで山梨と郷土力士の系譜に触れてみたい。他の競技と比べ、歴史と伝統で群を抜く大相撲。明治時代以降の大相撲を展観すると、この約150年間で山梨出身の幕内力士は9人いる。共同通信社発行の「大相撲力士名鑑」(平成31年版)は、旧両国国技館開館(1909年)から今日までの幕内力士864人を紹介しているが、山梨出身力士の比率は1%強となる。
明治時代は、甲(かぶと、旧若草町出身)1人だけ。大正時代はゼロで、昭和に入っても戦前は富士ケ嶽(途中で若港と改名、鳴沢村出身)のみ。ここまで極めて力士不作の県だった。
だが戦後になって“開花”する。終戦から4年後の1949年夏場所で、甲斐錦(旧牧丘町出身)が入幕。1年後の50年夏場所に吉田川(富士吉田市出身)、さらには同年秋場所で甲斐ノ山(塩山市出身)と続く。複数の郷土力士が幕内にいて、甲斐錦―吉田川、吉田川―甲斐ノ山という同郷対決も。だが3人とも前頭2桁止まりで、幕内在位も5~12場所。テレビのない時代でもあり、県民が熱狂するまでには至らなかったようだ。
県民こぞって応援するようになったのは、59年入幕の富士錦(甲府市出身、旧武川村で育つ)が活躍するようになってから。時あたかも大相撲がテレビでお茶の間に浸透したことに加え、「柏鵬時代」という大相撲人気の沸騰期。押し相撲の富士錦は小結通算10場所を務める実力者で、横綱・大関をしばしば倒した上、64年には郷土力士で唯一の幕内優勝を遂げている。
続いて活躍したのが71年入幕の富士桜である。輪島、三重ノ海、魁傑、増位山、金剛といった「団塊の世代」ど真ん中の48年生まれの一人。角界一の稽古量で鍛えた、突き押し相撲一本槍。富士錦と同様に大物食いでも名を馳(は)せ、小結時代の74年初場所では当時の3横綱(北の富士、琴桜、輪島)を総なめに。郷土力士として最高位の関脇に昇進している。
富士桜の現役晩年に関取(十両以上)の座をつかみ、十両で優勝2度という存在感を示したのが大乃花(旧八代町出身)である。だが幕内にたどり着くまでに14年84場所を要し、当時の記録だったスロー出世だったことが災いして、幕内在位は88年春場所の1場所のみ。以後、幕内空白期が続き、2019年初場所入幕の竜電に至る。
3.土俵余話あれこれ
ここまで駆け足で9人の力士を紹介してきたが、「土俵余話」的な要素も盛り込んでみる。戦後最初に入幕した甲斐錦(本名・鶴田勝)は、プロレスラーとして活躍したジャンボ鶴田(本名・鶴田友美)の叔父。甥とは違って体重84㌔の小兵で、つり出し得意のしぶとい力士だった。だが幕内在位は5場所で、最高位は前頭12枚目だった。
実はジャンボ鶴田も大相撲入りを考えたことがあった。前回の東京五輪が開かれた1964年、中学2年生の鶴田少年はバスケットで鍛えた体格と体力を見込まれ、夏休みの期間中に朝日山部屋に体験入門。新弟子検査も受けるなどそのまま力士になる気持ちがあったが、元甲斐錦が「(自分の所属していた)二所ノ関部屋以外は駄目だ」と反対。地元に戻された。
周囲から「稽古がつらくて逃げ帰ってきた」との噂が出て鶴田少年はそれに反発する。世間が東京五輪で沸き立っていた時期であり、「将来、オリンピックに出て見返してやりたい」と決意。8年後のミュンヘン五輪にレスリング競技で出場を果たした。プロレスラーとしての活躍は見事だったが、力士・鶴田も見たかった。ライバルの天龍が力士時代に前頭筆頭で終わったが、力士・鶴田が誕生していれば番付はもっと上にいったのではないか。
昭和10年代に幕内を17場所務めた富士ケ嶽。まさに富士の麓の出身者らしい四股名(しこな)である。自身は前頭3枚目止まりだったが、引退して富士ケ嶺親方を務め、横綱東富士の師匠に。郷土力士で横綱の師匠になったのは富士ケ嶽一人。弟子の東富士は東京都出身だが、戦時中に旧武川村に疎開。そこで富士錦を見いだした。富士ケ嶽―東富士―富士錦。「富士」が付く四股名は最近でこそ珍しくないものの、当時は山梨絡みの力士の専売特許のようなものだった。
その富士錦は、普段は温厚な人柄で「平和ちゃん」と言われていたが、ひとたび土俵に上ると、闘志ある突き押し相撲を見せた。優勝したのは1964(昭和39)年名古屋場所で、前頭9枚目での14勝1敗だった。山梨日日新聞は翌日、「でかした!富士錦関」の大見出しで、4㌻の記念特別号を発行して祝福した。甲府駅前から旧武川村までオープンカーでパレードした勇姿は、小学生だった私もはっきりと覚えている。思えば東京五輪の年で、河西昌枝主将(旧甲西町出身)が率いる女子バレーボールも金メダルに。県民はスポーツ界での二つの偉業に大いに沸いた。
約10年幕内で活躍、小結で3度勝ち越したが、番付運が悪く関脇には昇進できなかった。「角界7不思議の一つ」「史上最強の小結」と言われたことも。引退後は高砂親方として日本相撲協会の理事の要職にあったほか、大関小錦の師匠を務めた。
富士錦のスカウトで同じ高砂入門したのが富士桜である(2人とも甲府西中卒)。入幕2場所目に11勝を挙げる活躍で敢闘賞を取って以来、幕内上位の常連力士。激しい突き押しを武器に、幕内を約12年73場所務めた実力者だ。平幕力士が横綱を破る「金星」は、先輩の富士錦より二つ多い9個獲得している。
特筆すべきなのが、消耗の激しい押し相撲ながら丈夫で長持ちだったこと。無類の稽古熱心さゆえだろう。中学を卒業した1963年春場所に初土俵を踏んでから84年初場所にアキレス腱を断裂して休場するまで、21年間、一日も休みなし。初土俵以来の連続出場記録1543回は、当時の角界1位記録で、現在でも2位にランクされている。
もう一つは昭和天皇のひいき力士だったこと。駆け引きの全くない、全身全霊で精いっぱいの相撲を取る姿が、昭和天皇のお眼鏡にかなったようだ。特に同じ押し相撲・麒麟児との対戦は毎場所、好勝負を繰り広げ、一時は天覧相撲の呼び物となったほどだ。
4.不屈の竜電
現在の7月場所で幕内15場所目となる竜電も、ここまでの足取りは波瀾万丈だ。竜王中時代に高田川親方(元関脇安芸乃島)にスカウトされ、卒業とともに入門。柔道で鍛えた体を生かした正攻法の相撲でトントン拍子に出世し、18歳そこそこで平成生まれの力士のトップを切って幕下に昇進。10代のうちに関取(十両以上の力士)になり、その勢いで幕内に駆け上がるかとみられた。親方衆や評論家の期待は高く、当時、番付最上位に君臨していた朝青龍、白鵬の両横綱に割って入る素材だとみられた。
だが22歳になったばかりのうれしい新十両の土俵で、股関節を骨折して無念の途中休場。その後も無理をして相撲を取ったのがあだになり、同じ箇所を3度骨折して番付最下位の序ノ口に陥落した。約2年の療養を経て土俵に復帰。4年かけて十両に戻り、そこから約1年後に幕内の座をつかんだ。
ちょうど1年前の昨年名古屋場所では、一流の幕内力士の証しと言える新小結に昇進した。関取から序ノ口まで陥落して関取カムバックし、さらに幕内→三役と昇進したのは、明治以降の近代相撲で初めての快挙だった。現在29歳で、力士として脂の乗った時期。191㌢、153㌔という均整の取れた体で、左四つかもろ差しになって前に出る相撲は、十分に幕内上位の力を持っている。稽古熱心さでも定評があり、さらに番付が上がる可能性を秘めている。県民の期待を一身に集めるゆえんでもある。
5.新型コロナの猛威
今年の冬から日本列島や世界各地を覆う新型コロナウイルスの猛威。年6場所興行の大相撲も例外ではなく、通常通りに開催したのは1月の初場所のみ。3月の春場所は無観客で開催したが、5月の夏場所は中止に追い込まれた。7月の名古屋場所は開催地を東京に移して実施している。
相撲界での感染者はこれまで7人。こともあろうに竜電が所属する高田川部屋が直撃され、感染した高田川親方は療養して回復したものの、郷土力士の三段目・勝武士(甲府市出身)が亡くなってしまった。勝武士は番付こそ関取にはたどり着いていなかったが、相撲の技や禁じ手を土俵上で面白おかしく紹介する「初っ切り(しょっきり)」の名手だった。しかも竜電の1年後輩で、小学生時代の柔道スポーツ少年団から竜王中柔道部で切磋琢磨(せっさたくま)をした仲だった。
「兄弟、家族と同じで、一緒にいるのが当たり前だった」と、竜電後援会だより(7月7日発行)で、志半ばの28歳で亡くなった後輩をしのぶ竜電。「勝武士に『何をやっているんだ』と言われないように、やらなければならない。テレビで見ている県民の皆さんに元気を届けられるよう、いい相撲を取りたい」。弔い合戦の思いで土俵に上っている。
6.山梨の活性化
くしくも竜電が言うように、郷土力士の活躍が山梨の活気や県民の元気に一役買うのは言うまでもない。富士錦、富士桜が活躍した1960~80年代がそうであったように。もとより、番付や場内アナウンスで出身地が紹介される大相撲は、高校野球と並んで郷土との結びつきが大きいスポーツコンテンツなのだ。
ここに一つのデータがある。稀勢の里が久しぶりに日本人として横綱に昇進した3年前、宮本勝浩・関西大名誉教授が向こう1年間の経済効果を試算した。約22億5千万円になったという。また、金額こそ出ていないが、山梨県以上に幕内力士が不在だった長野県では、三役常連となった御嶽海が2度の幕内優勝をするなど盛り上がっている。久しぶりに幕内力士を輩出した富山県でも、竜電のライバルだった朝乃山が今場所、新大関の土俵に上り、県民の喝采を浴びている。2人の“効果”も相当なものがあろう。
竜電の場合も化粧まわしに印伝を使うなど山梨のアピールに余念がない。小学生らが修学旅行の一環で相撲観戦をして竜電を応援する光景もしばしば見られる。竜電はけがでのブランクがあった分、伸びしろがあるだけに、今後の三役復帰は十分あり得る。富士桜と同様に、郷土力士最高位の関脇の期待が持てるほか、高田川親方は「稽古次第では大関以上も狙える」と口にしてはばからない。そうなれば山梨の活性化に貢献し、かなりの経済効果が見込まれる。県民の誇りや自信にもつながるだろう。
私自身、山梨日日新聞社が昨年発行した写真集「竜電 不屈の闘志」で、「絵になり華もある力士」との巻末コラムを書いた。また本場所になると連日、同紙の電子版に「文さんの速攻解説」をアップしている。
相撲界には「江戸の大関より土地の三段目」という江戸時代の川柳がある。地方巡業などでは、看板力士の大関(当時は最高位だった)よりも、番付はどうあれ郷土力士の方が人気がある、という情景や心境を詠んだものだ。竜電が「土地の大関」になろうものなら、県民のさらなる人気沸騰は間違いない。こんなチャンスはそうないだけに、郷土力士初の大関を期待したい。本人や周囲はもとより、山梨のためにも、県民のためにも。