VOL.122 「75年」
「1945年8月6日、広島は一発の原子爆弾により破壊し尽くされ、『75年間は草木も生えぬ』と言われました。しかし広島は今、復興を遂げて、世界中から多くの人々が訪れる平和を象徴する都市になっています」
「『75年は草木も生えぬ』と言われた広島の町。75年がたった今、広島の町は、人々の活気に満ちあふれ、緑豊かな町になりました」
8月6日の平和記念式典での松井一実市長の「平和宣言」と、広島市子ども代表の小学6年生2人による「平和への誓い」は、「75年」という年月が、広島にとってどんな意味を持っていたのかを聴く者に強く印象付けた。
「75年は草木も生えぬ」という言葉は、原爆製造の「マンハッタン計画」に関わった博士の談話がワシントンポスト紙に掲載されたことで知られるが、当時の日本をさらに絶望のどん底に追いやった言葉であろうことは想像に難くない。人々の復興の努力によって、広島は実際にはその何倍もの早さで緑豊かな街によみがえったが、放射能、放射線の恐ろしさは今も消えていない。唯一の被爆国である日本が、国連で採択されながらも未発効の核兵器禁止条約について、一日も早く「締約国」となり、国際社会に日本の明確な意志を示すことが信頼を得るために何より必要だと考える。
75年という年月が経ち、戦後生まれが8割以上を占めるようになった日本。当たり前だった戦争を語り継ぐこと、聞き取ることが年々難しくなってきている。当時中学2年だった88歳の父にあらためて旧竜王村で味わった終戦の夏の記憶を尋ねてみた。「7月6日深夜から始まった甲府空襲は愛宕山方面に落とされた照明弾が盆地一帯を青白く照らし、異様な光景だった。空襲から数日して自転車で寿町辺りまで近づいてみたが、一帯が熱過ぎて、引き返さざるを得なかった」。それから1カ月後の広島原爆投下と8月15日の終戦。「今の甲斐市役所の場所にあった尋常高等小学校に集まるように言われ、数百人くらいだったか、正午からのいわゆる玉音放送を待った。『神の国』の日本が負けるはずはないと思っていたが、放送を聞いて、これからいったいどうなるのか不安になった」と振り返る。体験者から子や孫の世代がしつこいくらいに当時の記憶を聞き取っておかないと、身近な体験談が途絶えてしまうことを今になって実感している。
毎年、県立図書館を会場に開かれてきた「甲府空襲 戦争と平和・環境展」は、豊富な写真と資料で甲府の戦争をうかがい知る貴重な機会だったが、今年は新型コロナウイルス感染拡大防止のために中止となった。展示品の一つ一つに説得力があり、戦争体験者たちが小中学生に戦争の恐ろしさや平和の尊さを語り掛ける機会でもあったが、この夏の展示会が中止となったことで丸2年間、子どもたちがこの展示を見られないことは何とも残念なことだ。
32年前、大学卒業を前に米国と韓国に一人旅に出掛けた。米スミソニアン航空宇宙博物館で広島に原爆を投下したB29爆撃機「エノラ・ゲイ」がどう展示されているのかを見学し、韓国では日本の植民地支配からの独立運動が起きた3月1日に現地の集会を眺め、板門店で南北の軍事境界線の緊張を体感した。そして釜山から下関に入港し、広島で新幹線を降り、原爆ドームと原爆死没者慰霊碑、平和記念資料館で何度も手を合わせた。自分なりに戦争の足跡をたどることが社会人となるための儀式のように思えた。そのころと比べて、国際社会が非戦の方向に進んでいるとは言えないことが悲しい。
戦争を知らない世代が大半になり、政治の中枢になると、戦争の可能性が高まるといわれる。それでは、戦争が永遠になくなることはない。広島の原爆死没者慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と、静かだが、強い決意が刻まれている。この言葉を日本はもちろん、国際社会がどれだけの想像力をもって理解できるかが問われている。
山梨総合研究所 主任研究員 鷹野裕之