Vol.266-1 「甲州の匠の源流・御嶽昇仙峡」日本遺産への歩み~水晶の鼓動が導いた信仰と技、そして先進技術へ~


昇仙峡観光協会 会長 芦澤卓夫

 

1.はじめに

 「甲州の匠の源流・御嶽昇仙峡」(甲府市、甲斐市)が6月、地域の文化財をまとめて魅力を発信する文化庁の「日本遺産」に認定された。昇仙峡一帯の山地は、水の塊と信じられていた水晶を産出する水源信仰の地であり、長い歳月をかけた浸食により形成された大小の滝や巨石、奇岩によって国内有数の景勝地となっている。産出した豊富な水晶とその加工技術は、匠の技として日本一の宝飾産業の基盤となり、さらには電子機器向けの人工水晶製造技術につながるなど、過去から現代の私たちの生活を支えている。今回、渓谷をはじめ神社の宝物、伝統芸能など23件について、歴史的な魅力や特色を通じて伝統を語るストーリーが日本遺産の構成文化財にふさわしいと認められた。これを好機ととらえ、歴史を振り返りながら、昇仙峡の魅力をあらためて発信していきたいと考えている。

〈日本遺産とは〉
 文化庁が地域に点在する史跡や伝統芸能などの有形・無形文化財をパッケージ化し、地域の歴史的魅力や特色を通じてわが国の文化・伝統を語るストーリー「日本遺産(Japan Heritage)」として認定する制度。2015年に認定を始めた。ストーリーを語るうえで不可欠な魅力ある有形・無形のさまざまな文化財群を総合的に活用し、地域活性化を図ることを目的とし、全国で約100カ所の認定をしていく。(出典:文化庁日本遺産ポータルサイトから抜粋) 

 

2.御嶽昇仙峡の始まりから昭和時代

 昇仙峡の奥に鎮座する奥秩父連峰の名峰・金峰山は、古来より山岳信仰の山として知られていた。昇仙峡を登り詰めた地にあり、約2千年の歴史を有する甲府・金櫻神社が登拝口の一つであったため、道が開かれる前から金峰山への参拝路(御嶽道)として修験者が昇仙峡を訪れていたと考えられている。
 現在では景勝地として知られている昇仙峡も、かつては山深い地にひっそりと、その姿を隠すように存在していたのである。
 その美しさが世に知られ、やがて観光名所へと発展していったのは、江戸時代後期、地元の猪狩村で農業を営んでいた長田円右衛門らが新しい道を切り開いたことが始まりである。円右衛門が暮らしていた猪狩村など、昇仙峡の上流に位置する村では製炭が主な産業で、当時村人たちが炭やまきを甲府城下へ売りに行き、買い物を済ませ村に戻るためには、未整備の山道を通らなければならず、新しい道の開削が待ち望まれていた。そこで円右衛門が中心となり、天保5(1834)年に渓流沿いの新道開削に着手したものの、大きな岩盤などに阻まれる難工事となり、また途中、大飢饉に見舞われて中断を余儀なくされるなど、新道の開削は苦難の道のりであった。そして天保141843)年、ようやく御嶽新道は開通した。
 山梨を代表する地場産業の一つに宝飾産業があり、甲府市を中心に宝飾産業が発展したのは、昇仙峡を含む甲府盆地の北側の山々から水晶が大量に産出したことに起因している。特に金峰山周辺に多くあり、昇仙峡の上流に位置する黒平村では盛んに採掘され、こうした産物の流通にも新道の恩恵があったと考えられている。円右衛門と交流のあった文人らが景勝地を描き、詩文を書いたりして昇仙峡は観光地として広く知られるようになった。
 大正111922)年9月17日に「御嶽に行啓を仰ぐべし 当局者に勧む」と題された社説が地元の山梨日日新聞の一面に掲載された。それは大正天皇の摂政を務めていた皇太子(後の昭和天皇)の行啓日程に昇仙峡が含まれていなかったため、行啓を懇願してほしいといった内容であった。
 そこには皇太子の観光探勝によって、昇仙峡の名声が高まることへの期待も込められていた。願いは現実のものとなり、10月7日に皇太子は昇仙峡に赴かれ、仙娥滝(せんがたき)を見ることができる昇仙橋の上で知事から説明を受けられた。その後、皇太子は当時から名勝地として有名であった九州大分の耶馬渓(やばけい)を引き合いにして、「予は九州大演習の際、耶馬渓を見たが、御嶽の勝地には遠く及ばない。耶馬渓以上である。記者団に斯く伝えよ」と侍従武官長に話されたと報じられている。
 その喜ばしい出来事を報道した新聞には御嶽昇仙峡の名称が大きく記された。皇太子の行啓は全国に御嶽昇仙峡の素晴らしさを伝えるために極めて大きな効果を発揮し、行啓からわずか2カ月余りで国の名勝への指定が決まり、東京や横浜方面から鉄道で訪れる観光客も大幅に増えていき、昇仙峡は観光地としての揺るぎない地位を築いていった。

 

資料1:「御嶽に行啓を仰ぐべし 当局者に勧む」と題した大正11(1922)年9月17日の山梨日日新聞一面社説
資料2:皇太子の行啓の際、昇仙峡視察が実現し、「耶馬渓以上である」と話されたことを伝える視察翌日の大正11年10月8日の山梨日日新聞紙面(いずれも山梨日日新聞社提供)

 

3.観光客数は平成7年を境に下降

 私は、平成元年に昇仙峡ロープウェイに入社し現在に至るが、お客さまのピークは平成7年でロープウェイの乗車人員は年間約25万人だったが、年々右肩下がりになり、現在では約15万人となっている。
 この数字は昇仙峡を訪れる観光客にも比例している。要因はさまざまだが、一言でいうと、私たち受け入れ側が、お客さまの減少に何も対策を立ててこなかったことが原因である。
 私は、元々技術系でロープウェイの保守が専門分野だったが、10年ほど前から観光にもかかわりを持つようになり、3年前から昇仙峡観光協会の会長を務めている。昨年初めに昇仙峡を日本遺産にとの提案があり、山梨県、甲府市、甲斐市で調整が始まった。並行して甲府市では、観光事業者や有識者で構成する「昇仙峡リバイバルプラン会議」を設置し、本年3月に「昇仙峡リバイバルプラン」が策定された。
 策定の背景にはバスツアーなど団体旅行の減少、インバウンド需要への対応の遅れ等、さまざまな要因があるが、地域経済にとって、裾野の広い観光産業の振興は重要な施策対象であり、甲府市を代表する観光地である昇仙峡の観光振興は甲府市の課題でもある。
 昨年6月、甲武信がユネスコエコパークに認定されて昇仙峡は緩衝地域になった。「日本遺産」と併せ、国内外に発信して多くの集客を目指していく。

 

4.今回認定された「ストーリー」

 昇仙峡一帯の山地は、水の塊と信じられていた水晶を産出する水源信仰の地であり、地域を流れる荒川上流を訪ねると、悠久の時をかけた浸食により形成された大小の滝や巨石、奇岩に驚かされる。
 水が造った芸術品ともいえるこの渓谷美は、江戸時代末期に行われた新道開削により、奇跡的に出現したものだが、地域の人々の熱意により日本有数の景勝地として磨きあげられてきた。
 そして、昇仙峡一帯で産出された豊富な水晶とその加工技術は、匠の技として日本一のジュエリー産業の基盤となり、さらには人工水晶製造技術へとつながってスマートフォンなどの電子機器に使用されるなど、過去から現代に至る私たちの生活を支えているのである。(文化庁ホームページ令和2年度「日本遺産(Japan Heritage)」認定概要から抜粋)

 

5.日本遺産「甲州の匠の源流・御嶽昇仙峡」の23件の構成文化財

 ここでは、日本遺産として認められた23件の構成文化財を紹介する。

① 御嶽昇仙峡(甲府・甲斐)〈国特別名勝〉


 長い年月をかけて荒川の流れに削り取られ、露出した巨岩や奇石、奇石群を擁し、希少な造形美を形成する日本有数の渓谷。長潭橋(ながとろばし)から仙娥滝(せんがたき)までは約5㎞の遊歩道があり、マツやモミジなどの木々が織りなす四季折々の美しさが感じられる。

② 燕岩岩脈=つばくろいわがんみゃく=(甲府)〈国指定天然記念物〉

 黒富士火山を構成する火山岩類の一つで、昇仙峡の形成に大きく関わっている。何万年も続いた火山活動の歴史を語りかけてくれる貴重な自然遺産。イワツバメが生息していたため名付けられた。

③ 金峰山五丈岩(甲府)

 標高2,599mの金峰山の山頂にある巨大な花崗岩で、金櫻神社の本宮。山頂からは水の信仰に関わる土場や水晶玉が発見され、出土品は県立博物館に展示されている。山頂の美しい眺望は修験者のみならず多くの登山者や写真、文学愛好者をも魅了している。

④ 能面(甲府)〈県有形文化財〉

 甲斐国の武将・武田勝頼が、金櫻神社に奉納したと伝えられる本社の宝物の一つ。金峰山の里宮として建立された金櫻神社が、中世以降に武田氏をはじめ、領主や武将らの厚い加護を受けていたことを今に伝える。

⑤ 住吉蒔絵手箱、家紋散蒔絵手箱(甲府)〈県有形文化財〉

 住吉蒔絵手箱(すみよしまきえてばこ)は、金櫻神社宝物帳に「武田信玄公母堂奉納」とされている本社の宝物の一つ。黒の漆地に豪華な金平薪(きんひらまき)の文様が細密に表現されている。家紋散蒔絵手箱(かもんちらしえまきえてばこ)も数種類の家紋が散らされ、武田家ゆかりのものと考えられている。

⑥ 筏散蒔絵鼓胴、武具散蒔絵鼓胴(甲府)〈県有形文化財〉

 筏散蒔絵鼓胴(いかだちらしまきえこどう)、武具散蒔絵鼓胴(ぶぐちらしまきえこどう)はいずれも金櫻神社の宝物として能面と関連した優品。桃山蒔絵の技術と意匠が存分に発揮されている。金櫻神社に残る神宝帳によると、大鼓胴は弥佐衛門尉が作って武田勝頼が奉納。小鼓胴は阿古が造り、勝頼の弟に当たる仁科五郎信盛が奉納したとされる。

⑦金櫻神社大々神楽付面(甲府)〈甲府市無形民俗文化財〉


修験の地である金櫻神社に室町時代から奉納されている民俗芸能。二十六座には修験の所作が随所に認められ、金峰山麓に育まれた特異性を持つ。その舞は5月の例大祭で山々の桜、新緑の木々とともに人々を魅了している。

⑧ 旧金櫻神社鳥居(甲斐)〈県有形文化財〉

 1984年の発掘調査で発見された金櫻神社の一つの鳥居で、鎌倉時代に建立された。現在は駐車場を確保できる甲斐市の敷島総合公園内に、金峰山方向に遥拝できる形で移設された。

⑨ 御嶽古道(亀沢)の石造物群(甲斐)


 金峰山への参拝の道は、江戸時代に「御嶽九筋」と呼ばれる複数の御嶽道(古道)が整備された。甲斐市の亀沢はそのルートの一つ。金峰山五丈岩や金櫻神社、いにしえの人々の祈りをつなげた石造物群を、現在の道路脇に見ることができる。

⑩ 御嶽古道(甲斐)


 江戸時代の浮世絵師、歌川広重も御嶽古道を歩いて金櫻神社へ参詣し、その折に古道の奇石や景色を描いている。広重が絵にした風景を、この場所で今でも見ることができる。

⑪ 旧羅漢寺の遺構(甲斐)


 羅漢寺は大永年間(15211527年)に創建されたとされ、開基当時は羅漢寺山の中腹にあったが、慶安41651)年に火災で焼失。その後、新道開削により木造羅漢像とともに現在の場所に再建された。旧羅漢寺跡には当時の石組みなど、かつての遺構がある。

⑫ 木造五百羅漢像(甲斐) 〈県有形文化財〉


 修験道場として開基された羅漢寺に伝わる羅漢像。寺は昇仙峡の象徴である覚円峰を抱く山に建立され、山の名も羅漢寺山という。像はヒノキ材などを使った一木造りの立像で、154体が現存。表情がそれぞれ異なり、当初は美しい彩色が施されていた。

⑬ 木造阿弥陀如来坐像(甲斐)〈県有形文化財〉

 修験道場として開基された羅漢寺に伝わる阿弥陀如来。ヒノキ材を使った寄木造りで、高さは70㎝。台座上に結跏趺坐(けっかふざ)している如来像。応永301423)年の銘があり、室町時代の貴重な彫刻。

⑭ 御嶽道祖神(甲府)


 山岳信仰の御嶽道に点在する。道には道祖神のほか、道標や巡拝塔が立ち並び、歩くと江戸時代の巡礼気分を味わうことができる。

⑮ 金櫻神社摂社・白山社(甲府)


 金峰山の里宮として建立された金櫻神社の、現存する数少ない摂社の一つ。今も県内各地にいる白山崇敬者の拝礼を受ける。

⑯ 長田円右衛門顕彰碑(甲府)



 昇仙峡の呼称となる前、御嶽が広く世に知られるきっかけになった新道を開拓した人物。新道は山岳信仰者や文人画家らに親しまれ、功績が顕彰碑に刻まれた。

⑰ 金櫻神社の御神宝(甲府)


 この水晶玉の加工技術は、京都で水晶玉加工販売をしていた玉屋の番頭弥助が水晶買い付けの際、金櫻神社の神官達に伝授したといわれている。

⑱ 塩沢寺地蔵堂(甲府)〈国重要文化財〉


 湯村温泉郷にあり、天暦9955)年に空也上人の開創と伝わる。古くから地域の信仰と観光の要所。毎年2月に開かれる厄除地蔵尊大祭は「厄地蔵さん」の愛称で親しまれている。

⑲ 湯谷神社(甲府)


 弘法大師によって開湯された湯村温泉郷の前身、志麻の湯の時代から信仰される。温泉郷の守り神と称される湯谷大権現などをご神体とする。

⑳ 平瀬浄水場登録文化財6件(甲府)〈国登録文化財〉

 旧濾過池整水井、旧取水口門部、旧片山隧道下口、旧片山隧道上口、第2隧道上口、平瀬水源旧事務所。昇仙峡の名水を浄化し、市民に送り届けてきた施設。遺構は隧道近代化の象徴として残る。旧事務所は隧道の歴史を学べる資料館になっている。

㉑ 黒平の能三番(甲府)〈県無形民俗文化財〉


 かつて水晶が採掘された黒平地域に伝わる民俗芸能。住民が結婚や出産、新築などの祝いに披露してきた。鎌倉時代に都落ちした藤原房秀が伝えたとする説がある。

㉒ 炭焼窯跡(甲府)


 黒平集落の人たちは昔、炭を焼いて険しい御嶽古道を通り、甲府で木炭を売った。マウントピア黒平から黒富士への山岳ルートをたどると、窯跡を見ることができる。

㉓ 白輿(甲斐)〈国重要文化財〉


 甲斐市の常説寺に伝わる屋形輿。順徳上皇が「承久の乱」によって佐渡に流された際、祈願のため越後寺泊から金櫻神社に勅使を遣わせ、奉納品を載せた物とされる。

(写真はいずれも甲府市、甲斐市提供)

.今後の御嶽昇仙峡

 御嶽昇仙峡は日本を代表する渓谷美を誇る景勝地だが、昭和時代の全盛期と比べると観光客の数は減少している。
 昇仙峡は国の特別名勝にも指定されており「日本一の渓谷美」と言われている。長い歳月をかけて削り取られた花崗岩の断崖や奇岩・奇石と、清澄で豊富な水の流れを見ることができる。渓谷沿いに整備された遊歩道では、四季折々で変化に富んだ渓谷美を間近で楽しむことができる。
 山梨県民の誰もが知っているであろう昇仙峡も、全国的に見ると、若い世代での知名度が低いのが現状である。
 昇仙峡を観光地として再興していくためには、今ある良いところは継承し、そこに新しい発想を取り入れながら、これからの観光のあり方を見つけていく必要があると考えている。
 全盛期の頃、観光客は昇仙峡の入り口である長潭橋までバスで来ていた。そこから渓谷沿いの道を観光遊覧トテ馬車に乗ったり、歩いたりして四季折々の風景に彩られる渓谷を眺めながら、上流にある仙娥滝を目指した。道すがら昇仙峡を代表する覚円峰や渓流に点在する奇岩などを楽しめ、観光客は一日ゆっくりと滞在していったものだ。
 しかし、マイカーで滝上まで行けるようになると、風情あるトテ馬車も廃業になり、下流部は衰退していった。
 今回の日本遺産認定により、昇仙峡を訪れたお客さまに、この地の魅力を満喫していただくため、私たちもあらためて昇仙峡の歴史、文化、自然の素晴らしさを見つめ直し、散策のモデルコースの策定、自然と調和した楽しみ方の提案、アクティビティーも充実させ、子供も大人もさまざまな体験をしていただけるように取り組んでいく。
 昨年、甲武信ユネスコエコパークの緩衝地区に認定されたこともあり、少しずつ話題に上がってきているところだった。昇仙峡は甲府駅から車で30分ほど、また、バスでも行けるエリアでありながら、都会では味わえない自然の恵みにあふれた非日常の心地よさがある。
 さらに仙娥滝より奥には、私たちが奥昇仙峡と呼んでいる板敷渓谷や荒川ダムなど、あまり知られていない見どころもある。
 観光というと、昨今インバウンドが注目されがちではあるが、私はまず日本人の皆さんにこそ訪れていただき、日本人の感性に訴える美しさに満ちた歴史ある昇仙峡を楽しんでもらい、感動を与え、何回も訪れたくなる昇仙峡を目指していきたいと思っている。
 私たちも行き届いたおもてなしを心掛けながら、日本が誇る景勝地が後世に受け継がれていくことを願っている。