Vol.269-1 県民文化ホールの想い出、そして山梨の音楽環境の現状に寄せて


音楽評論 元・水戸芸術館音楽部門主任学芸員
ニューロン製菓株式会社代表取締役社長
株式会社アンデ代表取締役会長  矢澤 孝樹

1.夢の空間

 夜の帳(とばり)が下りる街にすっくと聳(そび)え立つその建物は、入場自体が儀式であるといわんばかりに、階段をもって来場者を迎える。それを昇りきってドアを開けば赤い絨毯が敷き詰められた広く長い廊下が奥まで続き、靴音は心地よく吸収され、ここが特別な場所であるという高揚感をかきたててくれる。やがてチケットをもぎる方々の笑顔に迎えられ、重々しい扉を通過すれば、そこは広大な舞台が拡がる夢の空間だ。2000席近くもある客席にはすでに多くの人々が座り、期待に満ちた笑顔を隠そうともせず、しかし過度な大声をそれとなく慎んで隣の人と談笑している。プログラムを熱心に読んでいる人もいる。

山梨県立県民文化ホール(YCC県民文化ホール)の外観(北側入口)

イベントへの高揚感をかきたててくれる赤じゅうたん(写真提供:YCC県民文化ホール)

県民文化ホールの大ホール(写真提供:YCC県民文化ホール)
ネーミングライツが採用された山梨県立県民文化ホール。2011年度から8年間、「コラニー文化ホール」として親しまれ、2019年度から「YCC県民文化ホール」の愛称になった(写真提供:YCC県民文化ホール)

 これが、コンサートホールだ。1983(昭和58)年22日、中学生の私は前年に竣工したばかりの山梨県立県民文化ホール(現・YCC県民文化ホール)の客席で、生まれて初めて聴く海外のオーケストラ公演の開演を、胸躍らせつつ待っていた。アンドラーシュ・コーロディ指揮ブダペスト・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会だ。初めての体験が、初めて足を踏み入れる本格的な、できたばかりのコンサートホールという空間によって、いっそう期待をかき立てるものとなっていたことは言うまでもない。
 その日の一番印象に残っている曲目は、ドヴォルザークのチェロ協奏曲ロ短調だろうか。世界的なチェロの巨匠、ヤーノシュ・シュタルケルが独奏で、地鳴りのするような低音でドヴォルザークの名旋律を奏で、心の底から圧倒された。しかし第一楽章の途中で、客席でお子さんが我慢できなくなったのか、お母さまがお子さんの手を引いて正面の通路から慌てて駆け足で退場されるというハプニングがあった。折悪しくシュタルケルがオーケストラをバックに猛烈な勢いでソロを奏でている最中で、ただでさえ怖い顔のシュタルケルが悪鬼のような形相で親子の背中に怒りの眼差しのレーザー光線を浴びせひやひやしたが、手元は何の狂いもなく、あたかもラグビーのノールック・パスのごとくチェロを操り続けているので驚嘆したものだ。

(写真左上から時計回りに)①ホールへ長く続くスロープ②大ホールホワイエ③小ホールホワイエ④県民ロビー(いずれも写真提供:YCC県民文化ホール)

 

2.巨匠の来県と聴衆の「慣れ」

 その後、大学に入学するまでの4年間に、県民文化ホールでさらに3回の海外オーケストラ公演を聴くことができた。開館当時の県民文化ホールは、たいへんな勢いだったのである。ただ、前述の公演のように聴き手やホールのスタッフ側が慣れていないために起こるハプニングもままあった。2度目は当時まだ東独の楽団だったライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を名匠クルト・マズアが指揮してのベートーヴェン《田園》《英雄》という2大交響曲の夕べ。重厚なサウンドは腹応えがあったが、各楽章が終わる度に発生する聴衆の拍手に業を煮やしたマズアが《英雄》後半ではほとんど楽章間に間合いをおかずどんどん進めてしまい、アンコールもなしでさっさと終演してしまったので苦い思いが残った。
 それから、当時脂の乗り切った活躍をしていたズービン・メータ率いるイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団。マーラーの交響曲第5番という大曲を引っ提げての登場である。私はマーラーに夢中だったこともあり大いに期待して足を運んだが、豪奢華麗なイスラエル・フィルの響きを魔術のように操るメータの指揮ぶりに圧倒され尽くした。熱狂的なフィナーレが終わって巻き起こる喝采の中、脚が震えるくらい感動したことを覚えている。ちなみにこの時は「拍手問題」も生じなかった。
 最後はサイモン・ラトル指揮する英国の名門フィルハーモニア管弦楽団。当時30歳そこそこだったラトルはのちに「サー」の称号を受け、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を務める大巨匠となるが、この名指揮者が山梨で演奏していたのである。プログラムはベルリオーズの《ローマの謝肉祭》序曲、ドビュッシーの交響詩《海》、そしてショスタコーヴィチの交響曲第10番という超重量級。若き天才の指揮ぶりは圧巻で、鮮烈で目の覚めるような響きでこちらを金縛りにした。ショスタコーヴィチの交響曲の息詰まる緊張感と爆発的解放のコントラストの鮮やかさは、今もありありと想い出せる。この回ももう拍手問題は生じなかったが、ショスタコーヴィチの第3楽章の、よりによって恐ろしいまでに体感温度の低い凍りつくような弱音が続く局面で、腕時計のアラームがあちこちで鳴り、第1ヴァイオリン奏者の何人かが憤然と客席をにらみつけていたことも印象に残っている(もちろん誰も演奏の手を止めることはなかった)。そんなこともあったが、県民文化ホールの聴衆は(もちろん私を含め)確実に「慣れて」きていた。多分、ホールのスタッフも。豊かな受容環境が現出しつつあったのだ。

 ここではコンサートホールでのクラシック音楽、それも海外オーケストラ公演の想い出を書いたが、もちろんそれだけではない。今は無き県民会館公会堂でヘンデル《メサイア》公演も聴いたし、その他小ホールでの演奏会もいくつか記憶している。県民文化ホールでは中学時代にさだまさしのコンサートも聴いた。一方、1986(昭和61)年には山中湖畔で「マウント・フジ・ジャズ・フェスティバル」が始まった。私はその年受験生、翌年には山梨を出てしまったので行くことはできなかったが、ハービー・ハンコックやミシェル・ペトルチアーニ、ミルト・ジャクソンにジャッキー・マクリーンと目を疑う豪華メンバーの出演で、行けないことを口惜しく思ったものだ。翌年に登場したドン・プーレン=ジョージ・アダムズの双頭クァルテットの白熱の名演は、帰省の際に今は亡き弟とテレビ鑑賞した記憶がある。子供の頃から音楽好きだった私は、こうして山梨の音楽環境に育てられた。

 

3.独自企画を発信する水戸芸術館

 大学の文学部に入ったが最終的には音楽を生業としたく、1991(平成3)年、前年に開館したばかりの茨城県水戸市の複合文化施設・水戸芸術館に音楽部門学芸員として就職した。尊敬する音楽評論家の吉田秀和氏が館長を務められており、そこで働きたいという想いにかられての決断だった。水戸芸術館は水戸市市制施行100年を記念し、当時の佐川一信市長の提案と尽力により開館した文化施設である。

近未来的なタワーがシンボルでもある水戸芸術館。塔は、水戸市制100周年を記念して高さ100mあり、内部には円形ガラス張りのエレベーターがあり、地上86mの展望室まで昇ることができる(写真提供:水戸芸術館)

 音楽・演劇・美術三部門の施設を備え、市税の1%を運営費に充て、吉田氏はじめ各界のトップの方々が企画を主導し、財団を設立してその職員である専属スタッフが企画から接客まで一貫して運営に当たるという画期的な運営方式を取っていた。専属楽団として、小澤征爾氏が音楽顧問(当時)を務める水戸室内管弦楽団を擁するなど、この場所から独自企画を「発信する」姿勢を明確に打ち出していた。その姿勢は30年経った今も受け継がれている。吉田秀和館長が逝去されて後、小澤征爾氏が現在水戸芸術館の二代目館長を務められている。
 私はこの職場で素晴らしい芸術家の方々や上司、先輩、同僚との得難い出会いを果たし、家族を持ち、一生ものの親友を得た。クラシック音楽を主体に、ジャズ、ロック、民俗音楽など多彩なジャンルの企画に携わり、プログラムや広報誌の執筆やお客さまをお迎えする役割まで、多様な仕事をさせていただいた。

クラシック音楽の演奏に適した理想的な響きを持つコンサートホールATM(写真提供:水戸芸術館)
どの席からも俳優の細かい表情までわかるよう設計された演劇専門のACM劇場(写真提供:水戸芸術館)
大きさや光の状態が異なる九つの展示室からなる現代美術ギャラリー(写真提供:水戸芸術館)

 

4.山梨での事業継承と音楽評論の継続

 水戸芸術館には19年務めたが、家業を継承してくれるはずだった弟が2008(平成20)年に交通事故で急逝し、翌年、家業の事業継承者として山梨に戻ることになった。現在、キャンディ・キャラメルのOEMメーカーであるニューロン製菓株式会社(甲府)の代表取締役社長、および近年子会社としてチームに加わった京都のデニッシュ食パンメーカー・株式会社アンデの代表取締役会長を務めている。この12年の経験は本当に大きく、これについては本稿の範疇(はんちゅう)をはるかに超えているのでここでは記さない。ただ、多くの方々の励ましやご指導によって今の自分があることは、感謝と共に記しておきたい。甲府商工会議所の議員も務めさせていただいている。実業に身を置くことで、自分の世界はとてつもなく広がった。
 当然、音楽の仕事からは離れることになったが、水戸芸術館の去り際に当時の吉田館長から「音楽から手を離さないようにしなさい」とお言葉をいただいたことも記憶に残り、本業の妨げにならない範囲で細々と音楽評論執筆は続けようと思っていた(当時から『レコード芸術』誌で執筆していた)。すると不思議なもので、『レコード芸術』の執筆依頼は増えて、今は音楽史部門新譜月評の担当者となり、『CDジャーナル』でも執筆、また朝日新聞夕刊のクラシックCD評の選者&執筆者も2009年から務めさせていただくことになった(今も続いている)。
 その他、ありがたいことにムックや書籍の共著、CD解説や演奏会解説など、水戸芸術館時代よりむしろ執筆の仕事を多くいただいている。山梨でも演奏会の解説やプレトークのお仕事を時折頂戴し、昨年まで8年間は山梨英和大学の市民講座「メイプルカレッジ」で山梨在住の音楽学者・広瀬大介氏と共同講座を行わせていただいた。
 音楽はどうやら今のところ、私の手を離してはくれないようである。ありがたいことに。

 

ミュージックシアターグループtuttiY第2期公演オペラ〈子供と魔法〉〈ジャンニ・スキッキ〉(2019年6月29、30日、東京エレクトロン韮崎文化ホール)でプレトークを務める筆者

 

5.地に足のついた地域の音楽活動

 さて、山梨に帰ってきて、山梨の音楽環境についてあらためて思う。私が離れている間に、山梨にもたくさんの新しいホールができた。南アルプス市の桃源文化会館には素晴らしいオルガンもある。いくつかの印象的な演奏会にも行った。しかし、1980年代に私が体験したような外来演奏家による豪華なコンサートは、今や夢のまた夢、といった様子である。だがこれは大都市圏以外の地方のほとんどが抱える現状であろう。
 当然、「あれはバブル期の儚(はかな)い夢」と思うこともできるのかもしれない。一方で、山梨に帰ってきて、地に足のついた地域の音楽活動に気づかされた。クラシック音楽を中心に俯瞰するならば、私が関わらせていただいている団体だけでも、山梨交響楽団、甲府室内合奏団、山梨大学の片野耕喜教授率いる甲府コレギウム・アウレウム、ソプラノ歌手・川口聖加氏のナーブル音楽企画およびミュージックシアターグループtuttiY-トゥッティなどが貴重な、得難い活動をされている。
 また「萌木の村」が「清里フィールドバレエ」の公演を長く続け、また世界的指揮者・広上淳一氏を中心とした新たな音楽会企画を立ち上げた(コロナ禍で中断しているが)ことも特記しておきたい。パイプオルガンを設置したコンサートホールを擁する「キングスウェル」も注目される。そのほか、「国際古楽コンクール〈山梨〉」「八ヶ岳音楽祭in Yamanashi」「国際ジャズオーケストラ・フェスティバル」などの音楽祭もある。そして甲府には桜座をはじめ個性豊かな素晴らしいライヴ・スポットがいくつかある。これらの企画や演奏会に足を運んで感じるのは、送り手と聴衆との幸福な関係が、それぞれの形で育まれているということだ。40年前よりも確実に成熟した関係が、そこにはある。

 

6.文化施設の活動と専属スタッフの重要性

 しかし、財政・環境面においてはいずれも恵まれているとは言い難い点も含め、その支え手としての文化施設の活動については、やはり問われなければならない。地域の音楽(芸術)活動を支え、一方で素晴らしい音楽(芸術)家をコンスタントに招聘して県内の文化芸術の土壌を豊かにしてゆく母体は、やはり必要だろう。それには自治体のバックアップが強く求められるし、企業への理解を求めてゆくことも大切だ。水戸芸術館をひとつのモデルとして挙げさせてもらったが、あのような運営形態を立ち上げることは現在の社会では困難でも、アイデア次第でさまざまなアプローチが可能だろう。
 立派な施設は揃っている。肝心なのは、そこで働く「人」だ。自治体だと通常、数年単位で異動になってしまうが、文化芸術活動の涵養は長期的視点から継続的に行われなければ定着が難しい。事実、県民文化ホール開館当時の海外オーケストラ公演は、前述の通り、回を重ねるごとに確実に聴衆が「慣れて」いった。各施設に必要なのは(できればホスピタリティとプロデューサー的視点を備えた)専属のスタッフだ。県民文化ホールを主体に県内の各ホールがそうした専属スタッフを有し、互いに連携をとりながら、地域の音楽家に活躍の場を提供し、県外・国外の優れたアーティストを招聘する。こうした持続的活動は間違いなく地域の「精神的な核」となるはずである。少子高齢化が進む今後の日本社会において、豊かな文化的環境を育むことは、継続的な地域社会の発展のためにも、また都会からの移住を考えられている方々を惹きつけるためにも、ぜひとも必要ではないだろうか。もちろん、山梨総合研究所にも取り組んでいただきたいテーマである。
 ここまで書いて、こう思われる方もいらっしゃるかもしれない。現在、世界はコロナ禍に覆われ、人命はもちろん、人と人との社会的関係、それに支えられる経済活動自体が大きな危機に見舞われている。そのような中で、芸術文化は「不要不急」ではないか。まず守られるべき人々、支えられるべき経済があるのではないか…。確かに、私も経営者として、かつて体験したことのない困難に直面し、雇用を守り企業の社会的貢献を継続してゆくために必死である。だがその一方で、たとえば大都市圏を中心にコンサートホールも美術館も劇場も、このコロナ禍の中でも最大限の感染対策を取りながら公演や展覧会を再開している(前述の水戸芸術館も活動を再開している)。活動しなくては文字通り「終わって」しまう、という表現者や主催側の危機感もそこには反映している。しかし、多くの聴衆や鑑賞者がそこに詰めかけ、感動し、救われているのもまた事実なのだ。
 人間が人間であることに悩み、考え、美しいもの、真実を求める行為としての芸術文化は、決して「不要不急」ではない。それは人に明日を生きる精神的なエネルギーを与え、自己の省察、他者や異なる価値観の尊重、真の相互信頼と連帯へと人を突き動かす。そしてつけ加えるなら、こうしたイヴェントや音楽会も、それに関与する人々を支える、回すべき経済の一環である。
 たとえそれがバブル経済が可能にした一瞬の夢であったとしても、県民文化ホールの扉の向こうに拡がっていたのは、まぎれもなく私のその後の人生に大きな影響を及ぼした、真実の感動であった。そしてそのような感動は、誰に対しても等しく開かれているはずなのだ。