Vol.270-1 記憶を記録する~昭和39年東京五輪 聖火リレー物語~
甲斐市教育委員会生涯学習文化課 竜王北部公民館館長
甲斐市元副市長 内藤 博文
1.竜王町、甲斐市の広報に携わり17年
公務員として勤務した36年間のうち、広報に関わった期間は、管理職も含め17年。目的を持って取材に行き、話を聞いて、その後は雑談に。その雑談で聞いた内容の実に興味深かったこと。後日、そちらの話を聞くために再取材ということがよくありました。
そのエリアのさまざまな事柄を綴るものとして、町史や市誌、広報誌、パンフレットなどいろいろとあります。一方、それぞれ個人が記憶していることは、意外と表に出ておらず、残されていない、知られていないことが多いと感じました。確かに、個人の記憶ですから、思い込みや間違いなどもあるかもしれません。しかし、人生経験として、記憶しているということで、それも貴重なものではないかと考えています。
現在、何とかお話を聞けるであろう90代以上の方々は、昭和初期生まれ、大正からの時代の流れを受け、太平洋戦争勃発、敗戦、戦後の立ち直り、高度成長期、オイルショック、何度かの市町村合併など激動の時代を生きてこられています。
今、お元気なうちに話を伺わなければ、その記憶を拾い出し、記録に残すことはできません。
ということで、皆さんに話を伺い、それに沿った資料を見つけだし、残していくという作業を細々と始めています。
2.昭和の東京五輪の聖火リレー
その中で一昨年、関係の皆さんにお話を伺ったのが、前回の東京五輪の聖火リレーについてです。前回の東京五輪は、昭和39年10月に開催されました。56年前のことですが、驚いたことに、意外と資料が残っていませんでした。
一昨年、NHK大河ドラマで「いだてん~オリンピック物語~」が放送され、その中には、聖火リレーの話もありました。
年が明けて、2020年、いよいよ2度目の東京五輪の年となるはずでしたが、新型コロナウイルス感染症の拡大で、2020東京五輪は、2020+1に延期となってしまいました。聖火リレーが計画通り実施されるならば、今回も聖火リレーが甲斐市内を通過します。
ところで、甲斐市出身の五輪選手は、アテネ五輪(2004年)に競泳200mバタフライで出場した、長田友喜子さん。ソウル五輪(1988年)とバルセロナ五輪(1992年)にはアーチェリーの中込恵子さんが出場しています。さらに遡って、1936年、ベルリン五輪に窪田博芳さんが陸上の400mと1600mリレーに出場しています。確認できたのは、この3人でした。
では本題の聖火リレーの話です。
(1)聖火リレーはいつからか
古代オリンピック発祥の地、ギリシャのオリンピアから採った火をトーチ・リレーによってオリンピック会場へ運ぶ「聖火リレー」は、オリンピック開催当初から行われていたわけではありません。1936年ベルリン大会から始められました。
(2)昭和39年の聖火リレーへの各自治体の取り組み
当時の新聞に、斉藤進竜王町長が記念式典であいさつする予定の原稿の記事があり、その中では、「八月二十一日に採火されたこのオリンピック聖火は、一万六千二百キロを運び、十三カ国をへてやってきた。私たち竜王町民も無事に送り届け、この大任をりっぱにはたしてゆきたい」との内容でした(山梨日日新聞)。
これも当時の新聞記事からですが、竜王町では、「町をあげて歓迎しよう」と8月に、「聖火リレー実行委員会」が組織されています。この実行委員会には、町内のあらゆる団体が加わったとあります。また、 「①町を美しくする運動の推進、②国旗掲揚の徹底、③国際親善を図っていく-の三点を強調して運動をくりひろげたい」ともありました(山梨日日新聞)。
一方、旧双葉町でも、一戸一鉢拠出運動を行い、リレーコースをオリンピックフラワーロードとして色とりどりの花で飾り、また、東小、西小の児童が鼓笛隊を編成した、と読売新聞には書かれており、町をあげての取り組みの様子が伺えます。
(3)前回東京五輪の聖火リレーコースを振り返る
8月21日にオリンピアで採火され、アジア地域12カ国を経由し、それぞれの国で聖火リレーが実施されて、沖縄に到着しています。
空輸総距離で1万5508km、地上リレー総距離が732km(870区間)、参加走者総数は870人との記録があります。
【国内コース】
9月7日正午に沖縄へ到着した聖火。台風のため1日遅れの到着です。
当時、沖縄はアメリカの占領下にありましたが、沖縄が日本体育協会に加盟していたことから、聖火リレー特別委員会により、国内聖火リレーは沖縄から開始されることになったということです。
沖縄での聖火リレーは、7日にスタートしましたが、終了を待たず、9日朝には、“聖火号”と名付けられた飛行機が沖縄を飛び立ち、鹿児島、宮崎を経由し北海道千歳に向かっています。
そして、この鹿児島(第1コース)、宮崎(第2コース=鹿児島から空路で運ばれ出発)、千歳(第3、第4コース)の3カ所が聖火リレーの起点となっています。
この3カ所から、聖火リレーは四つのルートに分かれて、各県を巡り、国立競技場を目指しました。
- 第1コース 9月9日(水)~10月9日(金)
鹿児島 → 熊本 → 長崎 → 佐賀 → 福岡 → 山口 → 広島 → 島根 → 鳥取 → 兵庫 → 京都 → 福井 → 石川 → 富山 → 新潟 → 長野 → 山梨 → 神奈川 → 東京 - 第2コース 9月9日(水)~10月8日(木)
宮崎 → 大分 → 愛媛 → 高知 → 徳島 → 香川 → 岡山 → 兵庫 → 大阪 → 和歌山 → 奈良 → 京都 → 滋賀 → 三重 → 岐阜 → 愛知 → 静岡 → 神奈川 → 東京 - 第3コース 9月9日(水)~10月7日(水)
北海道 → 青森 → 秋田 → 山形 → 新潟 → 群馬 → 埼玉 → 東京 - 第4コース 9月9日(水)~10月7日(水)
北海道 → 青森 → 岩手 → 宮城 → 福島 → 栃木 → 茨城 → 千葉 → 東京
- 沖縄では、台風で予定が遅れていたため、分火して、そのまま11日まで聖火リレーが続けられていました。この沖縄での聖火リレーについて、沖縄県公文書館のウェブサイトで紹介されています。
https://www.archives.pref.okinawa.jp/news/that_day/4583
【山梨県内のコース】
山梨県内ルートは、第1コースの後半、10月6日に、長野県から白州町の国界橋で聖火を受け取り、当時の国道20号をメインに県内を横断し、上野原町で神奈川県に引き渡しています。
3.旧双葉町、旧竜王町内をどう走ったのか
さて、ここから甲斐市内(旧双葉町、旧竜王町)の話です。まずはコースです。
図4のように、双葉4、竜王3の7区間、一区間約1キロずつに分かれていました。
特に竜王バイパスは、前年の1963(昭和38)年に開通したばかりの道路であり、「双葉から竜王に続く竜王バイパスは白く、くっきりと浮かび上がり、この見通しは最高」と当時の新聞に書かれています。
それでは、どんな人たちが聖火リレーを走ったのでしょうか。
基本は青少年ということになっていたようです。だから、あの金栗四三さん、走りたくても、だめだったのですね。
オリンピックが開催された年度の竜王中学校の卒業アルバムに、こんな写真があります。
聖火リレーを走った、ユニフォームを着た人たちです。
そうです、町内の中学生が走ったのです。このアルバム写真とは別に、同じカットで正副走者の高校生、町長、議長、教育長が加わった写真もあります。
甲斐市内では、列の先頭を正副走者として高校生3人、随走者を中学生20人、計23人が一団となって走っています。
この随走者は、双葉町の場合は、双葉中学校の3年生と2年生、竜王町の場合は、竜王中学校の3年生で、この写真のように女性も含まれています。
県内の他市町村を見ると、随走者として、中学生だけでなく、高校生や青年団、スポーツ少年団なども参加しています。
こんな名簿が存在します。
竜王町では、運動部に入っている人を中心に選考が進められたようです。随走者が所属していた、サッカー部、陸上部などの部活動名が明記された別の名簿もあります。話を伺ったみなさんも「スポーツやっていてよかった」と話してくれました。
練習もあったそうです。聖火リレーでは、約1キロを5分キッチリで走らなければならないため、中学校のグラウンドを周回して練習をしたそうです。選ばれた誇りと、ちゃんと走らなければならないという使命感を持って、一生懸命練習したと話してくれました。
9月15日、16日の両日には、聖火リレーのリハーサルが行われていました。
1日目の15日、本番と同じ時間に、長野県側から県境に聖火が到着したという想定で国界橋において引継式が行われ、午後2時20分にスタート。甲府市までの34区間、39.2キロを本番さながらのスケジュールで行われました。
この日、終点の山梨県庁には、「予定より16秒早い、5時59分44秒で到着」と報道されています。誤差が、秒単位ってすごいですね。
本番当日の聖火リレーはどうだったのでしょうか。
もちろん当日は、大幅な交通規制が行われました。聖火リレー隊前方1キロを、駐車車両や障害物を除くため、交通規制班のパトカーが走ります。リレー隊前後にはパトカー、白バイ10台が走り、聖火を護衛したと書かれています(山梨時事新聞)。
聖火ランナーは、支給された揃いのシャツ(男子はランニング、女子はTシャツ)とパンツ姿で走ります。あたりまえですが、先頭を走る正走者の高校生は、聖火トーチを持っています。副走者のひとりが、予備トーチ、もう一人はオリンピックマークの入った小旗を持っています。
随走者の中学生はというと…、オリンピックマークの入った小旗を持って走っていました。
4.それでは実況中継を
韮崎市との中継所は、塩川橋東詰(24:韮崎市双葉町境)。時間は、日も西に傾く、10月6日午後4時50分。正副走者は東洋三高生3人、随走者として双葉中生20人がここから走りだしました。
その後「塩崎」の中継所(25:塩崎)、現在の妙善寺入り口や双葉電気の辺りだと思いますが、ここからは、正副走者として日本航空高生3人、随走者は双葉中生20人に引き継がれます。
次の中継所は双葉町役場前(26:双葉町役場)、ここからは、正副走者として農林高生3人、随走者として双葉中生20人が走ります。
下今井地点(27:下今井)は、現在の中部横断自動車道の下あたりだと思われます。正副走者は、甲府南高生3人、随走者として双葉中生20人が竜王町との境に向かいます。
双葉町と竜王町の町境は竜王バイパスを上り切ったあたり。ここが中継所となっています(28:双葉町竜王町境)。
ここからは、正副走者として増穂高生3人、随走者は竜王中生20人に代わります。
ここから竜王バイパスを一気に下ります。
次の中継所は現在の「升亭」の付近(29:慈照寺前)。ここからの走者は、正副走者が市川高生3人、随走者は竜王中生20人です。
当時、竜王中学校生徒で、この区間の随走者に選ばれた竜王新町の坂本通さんに、お父さんが撮影した貴重な写真を見せていただきました。この写真で、聖火リレー隊の動きが分かります。
これらの写真を見て、初めて分かったことがあります。
竜王中から選ばれた60人のうち18人が女性で、6人ずつ、各区間に分かれていました。今回、坂本さんの写真で、随走者は、まず女性が前に位置し、その後ろに男性だったことが分かります。
このリレー隊が竜王駅前入り口の中継所に到着し、次の区間に引き渡します。
現在の竜王郵便局の場所には、当時、製材所の材木置き場がありました。
正副走者は甲府工高生3人、随走者として竜王中生20人が、甲府市との境に向けて走ります。多くの観衆が、聖火リレーに声援を送っているのが分かります。
私事ですが、まだ小学生だった私は、この中継所の近所に住んでいて、陸連の役員だった叔父に、聖火をちょっとだけ持たせてもらった記憶がかすかに残っています。
この現在の甲斐市内の7区間は、一区間を5分で走る予定でしたので、合計約35分間の出来事となります。
5.当時の様子を新聞記事から振り返る
「当日、双葉町では、沿道に約3000人の幼稚園、小中学生、一般町民たちが日の丸の小旗を振りながら熱狂的に迎えた。一方、竜王町では、竜王小、玉幡小、竜王中の児童生徒1400人が沿道に並び、竜王小の50人編成の鼓笛隊が、『海を越えて友よきたれ』『運動会マーチ』を演奏。また、中巨摩で聖火が通過するのは竜王だけなので、多くの皆さんがここに集まり声援した」(山梨時事新聞)
本番での1日目のゴール、舞鶴公園(現在の甲府駅前:舞鶴城公園)到着は、5分遅れの午後6時5分着だと報道されています。この距離を5分遅れだけというのも、走った皆さんの頑張りが伝わってきます。
最後にちょっとした話題を。
1)おそろいの白いシューズ
これは、中継点の慈照寺前から竜王駅前入り口までの区間を随走者として走った男子生徒の集合写真です。注目は、足元、靴です。みなさん、おそろいの白いシューズです。
読売新聞や山梨時事新聞に次のような話題が掲載されています。
9月15日のリハーサルが行われた折、交通安全協会役員として、交通整理にあたっていた竜王町西八幡の岩下保正さんは、おそろいのユニフォーム姿の生徒の運動靴が不揃いなのに気が付きました。
随走者として、竜王中から選ばれた60名の中に、岩下さんの長男保広さんも含まれていたので尋ねると、シャツとパンツは支給されたが靴まではないとのこと。
「リレーの走者たちに真白なクツで走ってもらいたい」との思いを校長に伝えて、生徒の靴のサイズを聞いてもらいました。
岩下さんは、雑貨商を営み、ふだんから靴も取り扱っていたので、取引先を当たり、60足の靴を揃えて、「この光栄あるチャンスに使ってください」と、10月2日、真新しい運動靴を校長に差し出しました。校長をはじめ生徒たちも大喜び。「一生懸命走って大任を果たすとともに、岩下さんの厚意にむくいたい」と話したそうです。
現在も続く岩下百貨店(現フーズボックス岩下)です。
2)小さな聖火台
10月10日、東京五輪開会式当日、入場行進の後、会場、日本全国の注目の中、国立競技場に聖火トーチを持ったランナーが入ってきました。最終ランナーは、坂井義則さん、1万713人目のランナーだったそうです。聖火台まで182段の階段を駆け上ります。聖火台の裏にはガスボンベが設置されていて、係の人がバルブを開き、ガスが噴き出す音が聞こえた次の瞬間、坂井さんは聖火トーチを傾け、聖火台に点火。
この、聖火台をつくったのは、埼玉県川口市の川口内燃機鋳造株式会社です。
同じく聖火ランナーによって、火が灯された聖火台。これは、竜王小学校の昭和43年の卒業アルバムの写真です。
実は、竜王小学校には、この川口内燃機鋳造株式会社から聖火台のレプリカが贈られていました。この会社に本竜王出身の雨宮良英さんが勤務し、聖火の喜びをわかち合いたいと、竜王小学校に小さなレプリカを贈ったものです(山梨日日新聞)。
現在の校長先生に伺ったところ、新採用で竜王小学校に赴任した頃は、秋の運動会で入場行進があり、その中で聖火台に火がつけられていたとのことですが、今は運動会で入場行進のメニューがないので使っていないとのことでした。
竜王小学校昭和45年の卒業生である私、そういえば、見たことあるような、ないような……。
3)再び大河ドラマ「いだてん」
大河ドラマ「いだてん」には、国内機運が盛り上がらないでヤキモキしていた事務局と、聖火リレーが全国を走ることで、自然と盛り上がっていく様子が描かれていました。
山梨県内でも、地元の高校生、中学生が走ることで、関心が高まり、沿道には、聖火リレーを見る人、声援する親族、そして、学校の児童生徒など多くの人が小旗を振っていたと報道されています。
随走者として走った当時の中学生は、「とても緊張したけど、大役を果たせて安心した」と口々にそう答えてくれました。
さて、今回の聖火リレーでは、どのようなドラマが生まれるのでしょうか。
◇ ◇ ◇
現在、コロナ禍で、訪問することが、憚(はばか)られています。そのため、皆さんのところに伺い、お話をお聞きするということがなかなかできない状況です。
新型コロナウイルス感染症ができるだけ早期に終息し、市民の皆さんからゆっくりと話を聞くことのできる状況になることを願っています。
取材協力(敬称略) 秋山博人、武井久、坂本通、柳本博美、飯室老男、岩下保広
故小田切文蔵
参考文献・参考資料 オリンピック東京大会山梨県聖火リレー隊名簿 山梨日日新聞、山梨時事新聞、読売新聞