「コロナの影響」で気づく


毎日新聞No.597【令和3年8月22日発行】

 「新型コロナウイルス感染拡大の影響で」という表現が、枕詞として使われるようになって久しいが、そのおかげで週末、夫婦で散歩をすることがすっかり暮らしの中に定着した。「今日は〇〇公園かな」などとなんとなく目的地を決めて、あとは自宅から2時間ほど気ままに歩く。日々の他愛のない話をしたり、庭に咲く花や近くを流れる川の水面、まちの風景などを眺めたり、時には偶然新しいお店を見つけたりすることもある。実際のところ、何か目的があるわけではないが、夫婦にとっての楽しみのひとつになっている。

 そもそも散歩の目的はなんだろうか。健康増進であったり、会話を楽しむことかも知れない。それだけではなく、偶然に出会うものやことに触れることで、季節のうつろいやその土地の魅力を感じ取る「心の遊び」のようなものが、散歩にはあるのだろう。
 ずいぶん昔に留学していた頃は、小さな娘を連れてよく散歩をしたものである。まあ、お金がなかったということもあるが、それでも心は豊かであったように感じる。その後、東京に就職し、夜遅くまで働き続ける日々の中で、いつしか物事を効率的に無駄なく行う術を身に付けていった。短時間で膨大な仕事をこなすことが価値あることという考えが自分を支配するようになり、気がつけば、散歩をする心の余裕さえなくなっていた。
 私たちの日常は、「しなければならないこと」に溢れている。家事、子育て、仕事、時には趣味や地域活動までも。しかし、それだけに囚われてしまうと心に無駄なことをする余裕がなくなり、まわりがどんどん見えなくなっていく。視野が狭くなると、人の気持ちや自分の感情よりも合理性や効率性を優先するようになり、何かを感じ取る心が失われていく。感性が豊かな人であればあるほど、そんな社会に希望や可能性を見いだすことは難しいだろう。

 これまで景色が見えないほどの速度で走り続けてきた中、図らずも「新型コロナの影響」で私たちは立ち止まり、この時代という景色を眺めている。この一見価値のない時の中で、何を感じ、何に気づき、何を変えることが出来るのか、今、私たちは試されているのかも知れない。

(山梨総合研究所 調査研究部長 佐藤 文昭)