Vol.286-1 山梨から南極へ、南極から山梨へ


63次南極地域観測隊
気水圏モニタリング隊員  根岸 晃芸

 

1.はじめに

 今回の寄稿依頼を受けた時、読んでいただいた方にとって有意義な内容で南極のことをもっと知ってもらおう、南極の魅力を伝えようと考え、昭和基地にある書籍をあさり、堅苦しくありふれた文章を書き始めていたのだが、ふと、これは私が書く必要がある文章なのだろうかと思い至った。南極で生活し始めて半年も経っていない南極初心者の私が偉そうに南極とは何たるかを本で読んだまま書いたところで、それは夏休みの読書感想文とそう変わらない。南極を知るためのコンテンツは既に書籍、映画、アニメなどさまざまなもので展開されていて、そちらのほうが、よほど私が少し調べた物よりは詳しく正しい情報が載っているだろう。
 というわけで、なぜ私は南極に行くことになったのか、南極に来て、暮らしてみてどう思ったのかといったような箸にも棒にも掛からない、何のためにもならないようなことをここでは書いていく。読者の方々も手持ち無沙汰で読み始める「成分表示表」くらいの気持ちで読んでいただけると幸いである。

 

2.山梨にない海への憧れ

 私は甲府市に生まれ、甲府第一高校卒業までの18年間を山梨で過ごした。幼少期は川遊びや虫採りばかりして過ごし、学生時代は少し不真面目でかっこつけの平凡な学生だった。高校卒業後は山梨にない海に憧れて、胸が締め付けられるようなあの磯の匂いを求めて福井県立大学の海洋生物資源学部へ進学した。ところが3回生の時に鉛色の日本海よりも地元の清涼な森林や、ザーザーとうるさい渓流が恋しくなり、降水・地下水・渓流水といった淡水を研究できる研究室を選んだ。
 大学卒業後は、田舎暮らしの中で憧れた花の都東京でシステムエンジニアとして働いた。元々、経験を積んでJICA(国際協力機構)の青年海外協力隊に参加するのが目標だった私は、3年半で退職して無事隊員として中米グアテマラへ湖の水質改善の活動をするために派遣された。与えられた2年間の任期で湖の物質収支推定や水草の堆肥化などに挑戦する計画を立てていたが、ご多分に漏れず世界を取り巻く新型コロナウイルスのあおりを受け、志半ばで1年も経たないうちに日本に帰ってきてしまった。帰国後は国内から協力隊の活動を続けつつ、思いを遂げられなかった悔しさと思わず手にした棚ぼた的時間を使って南極観測隊に応募し、現在こうして南極観測隊気水圏モニタリング隊員として南極で働いている。
 長々と書いてしまったが、これまで地元を出てさまざまな場所を転々としてきた。全てに共通していることは、無いものねだりで隣の芝が青く見え、次々と新しい場所に挑戦していくといったところだ。しかし、大学進学と就職が、前にいた場所から「出ていく」ことを目的とした挑戦だったのに対し、海外協力隊と南極観測隊は日本に、もしくは山梨に「戻るため」の挑戦だった。
 世界でも有数の裕福な国で生まれ、不平不満を垂れ流しながらも何不自由なく生きてきた私は、大学の講義でセネガル人と話す機会があった。その方から現地の生活の様子を聞いていく中で、自分が世の中のことを何も知らなかったことに気付かされた。大学生になり、何でも知っている気になっていた鼻をへし折られた。無知の知を得たのである。それで私は日本を、そして地元山梨をもっと好きになるために、普段は当たり前で近くにいては見つからなかったいいところを見つけるために海外へ、さらに南極へと挑戦した。
 もちろん理由はこれだけではない。膨大なバイオマスを誇るナンキョクオキアミとそれを求めて集まるさまざまな生物、厚い氷に閉じ込められた氷底湖、太陽の爆発が作り出す幻想的なオーロラなど、南極は私にとって浪漫に満ちた土地であり、一度は足を踏み入れてみたかった。そんな、南極にごろごろ転がっている魅力の一部も後ほど紹介したい。

 

3.南極での共同生活

 南極地域観測隊は12月半ばに昭和基地沿岸に砕氷船しらせで到着してから翌1月末までの夏の短い期間だけ活動する「夏隊」と、夏隊が帰国した後も昭和基地に残り、次の隊が来るまで滞在し続ける「越冬隊」の二つに分かれる。夏隊は研究観測活動や基地設備の整備・建設を集中的に行って南極を後にする。これに対し、越冬隊の最も重要な仕事は「昭和基地の維持管理」である。観測隊は今回で63次を数えるが、こうして60年以上にわたって続けられてきた観測隊が今後も昭和基地を利用し活動し続けるように、南極の厳しい環境から基地を守り、次の隊を迎える準備をする必要がある。月に一度の消火訓練、降っては、かいてを繰り返す除雪、突然不調を来す機器の整備等々、越冬隊員たちは厳しい環境と日々格闘している。
 現在、昭和基地には男性30名、女性2名の32名が滞在している。次の64次隊が来るまでこれ以外の人間に会うことは無く、大げんかしても反りが合わなくても逃げ出すことはできない。この極めて閉鎖的な空間はグアテマラでの生活とは全く種類の異なる「非日常」である。幸い越冬隊員たちは良い人ばかりで、人間関係のこじれは今のところない、と私は思っているが、今後何かあった際にどう解決していくか、というのも、個人的には気になっている部分である。
 そんな閉鎖空間で、しかも日ごとに日が短くなり、朝も昼もなくなっていき、ブリザードで外出もできない日が出てくるとどうしても次第にストレスはたまってくるだろう。そんなストレスをため込まないためにも、お酒やゲーム、スポーツ大会やそり滑りなど、皆思い思いの過ごし方をしている。私は大量の電子書籍、映画やアニメ、ゲーム、お酒、ギターとトランペット等々、1年間はひきこもれるほどの量を日本から持ち込んだが、まだほとんど手を付けていない。今は専ら、調理隊員が作る、毎日食べ過ぎてしまうおいしい食事によって超過したカロリーを消費するためにトレーニングをしたり、ほかの隊員とボードゲームをしたり、この原稿を書いたりして充実した日々を過ごしている。南極で習得すると意気込んで買ったトランペットはこのままだと、ろくに音も出せないまま日本に持ち帰ることになってしまいそうだ。
 他にも、皮膚が割れるほどの乾燥との闘いや、決して補給されることのない物資への恐怖など、昭和基地では日本では気にもかけなかったような問題と闘いながら、今日も元気に、年齢も性別もばらばらな32人が共同生活を送っている。

 

月に一度の消火訓練の様子


 

休日に行われた氷山での流しそうめん

  

4.南極での仕事

 われわれ越冬隊にとって最も大切な仕事は「昭和基地の維持管理」だが、南極地域観測隊である以上、もちろん観測もしている。越冬隊は大きく分けて設営部門と観測部門とに分けられる。設営部門は、電気・車両・建築のほかにも調理や医療などさまざまな分野のスペシャリストが集まり、基地での生活や観測を支えている。誤解を恐れずに言うと、南極の厳しい環境において私のような観測部門の人間の多くは、ここで生きていくための技術は持っておらず、設営部門の方々に何から何まで手厚く手を尽くしてもらっている赤子のような立場である。全く頭が上がらない。そんな観測部門ではあるが、研究・観測となれば本領を発揮して、その成果で設営部門にお返しをしなければならない。
 観測部門には気象・大気・雪氷・オーロラ等々、多様な研究観測を行う隊員がいる。中には昭和基地から約1000km離れた基地へ片道3週間かけて赴き、古代の氷を掘削する人や、上空30kmまで無人航空機を上げてはるか上空の微量物質を採集する人など、派手で浪漫あふれる研究をしている人もいる。
 一方で、私の仕事は新しい試みをするとか、過酷な環境で未知の物質を求めるといった研究とは程遠い。私の観測は大きく分けて三つ。

  1. 二酸化炭素、メタンなど地球温暖化に関係する大気成分の観測
  2. 雲の元になったりオゾン層を破壊したりする大気中の微小物質エアロゾルの観測
  3. 南極大陸の雪や氷の増減のモニタリング

こういった観測は、1年間観測したところで大きな意味を持つようなデータは少なく、何年も、ものによっては何十年も前から続けられている定常観測であり、私のミッションはこれらの観測を途切れさせることなく続け、次の年へ託していくことである。他の目立つ研究と比べると地味で記事映えはしないし、目新しさもない。同行している記者の記事や隊員が母校などに向けて行う南極教室で取り上げられることもほとんどない。しかし、こうした基礎研究は地球の健康状態を知るうえで必要不可欠であり、24時間365日続けていかなければいけない観測である。
 その例として、図1に南極・昭和基地と北極のニーオルスンで観測した二酸化炭素濃度の変化を示す。季節変化で上下しながらではあるが、年を追うごとに確実に濃度が上昇していることがわかる。このように常に観測し続けているからこそ、変化の様子を詳細に見ることができる。またこの図で北極・ニーオルスンと比べると、南極では波の変化が小さいことが分かる。北極域と比べて南極域には季節変化の要因となる植生がほとんどないため、このような違いが生じる。
 南極は周辺を海に囲まれており、他の大陸から4000km以上離れているため、人間活動に由来する大気汚染の影響をダイレクトには受けず、地球全体のピュアな状態を観測することができる。地味な仕事ではあるが地球の健康を監視する重要な仕事である。昭和基地では、こういった「パッとしないがとても重要な研究や観測」が数多く行われている。

 

空気サンプルの取り入れ口に詰まった雪を取り除く


 

図1 南極・昭和基地と北極・ニーオルスンのCO2濃度変化

 

 5.南極で見られる荘厳な景色

 日本には自然豊かで美しい景色がたくさんある。森に入ると清涼で静かな空気に心を落ち着け、河口湖や富士吉田に行くと、甲府で見えるそれとは違う大迫力の富士山に何度見ても感動し、渓流で釣れるイワナやヤマメは息をのむほど美しい。こういった風景は南極では決して見ることができないし、度々懐かしさを感じて望郷の念に駆られている。
 しかし南極では、日本では見られない荘厳な景色との出会いばかりだ。露岩域と呼ばれる雪や氷に覆われていない地域では、一本の草木もない荒涼とした大地が無限に続いているように見え、まるで火星に降り立ったような気分になるし、氷河の上は一面の銀世界に解けた水でできた水色の澄んだ池が点在している。海は氷で埋め尽くされ、迷い込んだ氷山が浮かんでいる。夏の間は深夜でも昼のように明るく時間の感覚が狂い、猛烈な嵐のブリザードが来るとすべての景色をのみ込み、距離の感覚を狂わせる。夏が終わり、太陽が沈むようになると、晴れた夜には緑や赤のオーロラが空一面に揺らめき、その背中には見たこともない満天の星空が輝いている。気温が下がると、海の向こうに蜃気楼(しんきろう)が見え、ダイヤモンドダストが輝く。南極の景色はどれも目新しく、刺激的で飽きない。基地内の職場へ向かうほんの短い道のりで見える景色でさえ、毎日見ほれてしまう。
 私は「オーロラを見ながら氷山の氷でウィスキーを飲む」という人生の夢も南極でかなえることができた。それと同時に現実と夢とのギャップにも気付かされた。これは私の不注意だったのだが、外で割れないようにと錫(スズ)のグラスを使用したために氷点下20℃では錫が冷えて唇が張り付きそうになったし、氷山の氷は全く解けず、温まると思っていたアルコール度数の高いウィスキーはそれ自体が氷点下20℃近くになるため、私の体を芯から冷やしてしまった。電気を消した温かい部屋から窓の外を見て優雅に楽しむ程度が一番楽しい。皆さんももしオーロラや氷山に出合う機会があれば、そこには「極寒」という厳しい現実が伴うことにも留意して楽しんでいただきたい。
 冬が間近に迫っている今、この不毛で美しい大地で生き物に出会うことはめったにないが、夏の間はしばしばペンギンやアザラシ、トウゾクカモメや雪鳥といった渡り鳥に会うことができた。昭和基地周辺でよく見かけるアデリーペンギンは小型のペンギンで、基地周辺に迷い込んできて「ガーガー」とカラスに似た鳴き声で鳴いており、南極にカラスがいるのか、と驚いたこともあった。
 現在、海のほとんどは氷に閉ざされ、太陽が昇らない極夜を目前にして、渡り鳥は北へ帰り、ペンギンやアザラシも開放水面を求めて遠くへ行ってしまった。しかし、海に張った分厚い氷の下には多くの生き物が潜んでいる。
 子どものころから魚や海の生き物が好きだった私は、南極の魚を生で見たいと思っていた。南極には氷点下2℃の冷たい海水でも凍らない特性を持つユニークな魚が生息しており、その魚を支える一次生産者で海氷の下にぶら下がるように生えるアイスアルジーという藻類や、それを食べて大繁殖し南極の生態系を支えるナンキョクオキアミを見てみたかった。氷に閉ざされ、隔離された冷たい海に広がる豊かな海を感じてみたかった。
 昭和基地周辺では、寒くなり海が十分に凍ると、海氷上から穴釣りをすることができる。4月某日、私は機会を得て南極での釣りに参加することができた。1m近い海氷にドリルで穴を開け、釣り糸を垂らす。水深20mほどの浅い場所だったが、ショウワギスやボウズハゲギスといった固有の魚をたくさん釣ることができた。極寒の中、釣り糸も凍り、手はかじかんでうまく動かず、厳しい釣りだったが、釣れ始めると不思議と寒さを感じなくなり、初めて見る魚との出会いに夢中になってしまった。浅い海で釣れる魚は全長20cm前後にとどまるが、少し足を延ばして水深600m前後の地点まで行くと、ライギョダマシという全長1mを優に超える巨大な魚を釣ることができる。昭和基地には歴代の隊員たちが釣り上げた巨大なライギョダマシの魚拓が張られており、それを見るたびに、われわれも負けないものを釣り上げなければ、と気を引き締めさせられる。
 南極では、新たな人との出会いがない代わりに、新たな景色や生き物に出会うことができる。もし皆さんが南極へ行く機会を得た時は、ぜひ私の少し過大評価にも見える南極の景色や生き物との出会いに期待していただきたい。

 

基地内の職場へ向かう通勤中の景色

 

露岩域の景色。雪解け水が池を作っている

 

露岩域の景色。隆起して地層が露出している


昭和基地とオーロラ

 

営巣地で子育てをするアデリーペンギン

 

海氷上での釣り

 

6.山梨と南極のかかわり

 この寄稿のお話を受けた際に「南極と山梨のかかわりについて執筆していただきたい」と依頼され、悩みに悩まされた。山梨と密接な何かがあるという話は聞いたことがなかったし、あまりにも環境が異なる二つの場所をどうつなげていけばよいか分からず、同僚に聞いたり、観測隊1次隊の隊員名簿をめくったりした。そんな中で真っ先に思いついたのは富士山である。
 山梨県が世界に誇る富士山の名は、昭和基地から最も遠く、最も過酷な環境にあるドームふじ基地の名前に使われている。積もった雪が何十万年もかけて圧縮され、氷になっている南極大陸は、その氷の厚さ分だけ標高が高くなる。ドームふじ基地は昭和基地から約1000km離れており、標高は3810mにも及ぶ氷床の上にある。その標高が富士山の標高と近いことから「ドームふじ基地」と名付けられた。日本から遠い南極の地でも、霊峰富士の名を冠する基地は過酷で半ば神聖な場所となっており、片道でも3週間かかる道のりを経て調査を行い、垢(あか)なのか、日焼けなのか分からない顔で帰ってきた隊員は、数週間ぶりの風呂に入る前に昭和基地でぬくぬく生活していた隊員と熱いハグを交わし、その神聖な空気を分かち合うのが恒例となっている。
 山梨と関係する「人」では、第63次南極地域観測隊参加者の中で山梨県出身者は私だけだったが、山梨県の高校を卒業した隊員は越冬隊だけで2人、また62次越冬隊員にも同じ甲府出身者がいた。
 南極では欠かせない、雪や氷の上を走り移動、除雪、輸送を行う雪上車を取り扱う会社は甲府にあり、63次夏隊でドームふじ基地への行動にも雪上車の整備のためにこの会社から隊員が参加していた。見渡す限りの氷原で雪上車が故障する事態にでもなれば、行程が停滞してしまうだけでなく、生死にもかかわるため、雪上車の整備は超重要な仕事である。ほかにも、私が行っている観測の一つは山梨大学の先生から依頼されたもので、その先生ご自身も南極での越冬経験がある。
 私は観測隊に参加するまで、山梨はおろか日本で南極へ行った経験がある人に出会ったことはなかった (不思議なことにグアテマラでは観光で南極に行った日本人に2人ほど出会った)。本やテレビの世界で見るだけの選ばれた人間だけが行けると思っていた南極に、地元山梨に関係している人がこんなにいるとは思わなかった。南極大陸までの距離は遠いが、宇宙に行くほど難しい所ではない。あなたの周りにも、実は南極観測隊経験者が潜んでいるかもしれないし、あなたが本気で南極観測隊に参加したいと思ったら、勇気を出してまずは国立極地研究所のホームページをのぞいてみることをお勧めする。

 

7.結びに

 南極は美しく、楽しく、研究や観測にも最適な場所である。だが、決して住みやすい場所ではない。雪はかいてもすぐに積もるし、外での作業は体の芯から冷やされるし、水も電気も貴重だし、スマホの画面が割れても交換できないし、生野菜も生卵も日に日に悪くなっていくし、ネット回線は遅いし、電子機器は静電気で壊れるし、夜は日に日に長くなる。しかしそれでも南極に来るために転職して、仕事を辞めてまで、何度も南極に来る人がいるほど魅力にあふれている。
 元々、日本の良さを確認するためにグアテマラで異なる文化・社会・宗教に触れ、南極という過酷な環境で生活したかったという側面があったが、ここでの生活は存外快適で、その過酷な状況すら楽しんでしまっている。
 この快適な基地も、南極での研究成果も、同僚である63次南極地域観測隊をはじめ歴代の観測隊が積み上げてきたたまものである。そこには少なくない山梨の人間もかかわっていたに違いない。これからも、南極ではさまざまな研究が続けられていき、山梨出身者が南極に来て活躍してくれることを願っている。きっと、さらに多くの魅力を見つけてくれるだろう。私が見た南極など、しょせん氷山の一角なのだから。

(掲載協力・国立極地研究所)