Vol.287-2 今までとこれからの資本主義を問う
公益財団法人 山梨総合研究所
主任研究員 清水 洋介
1.はじめに
第一次産業革命からおよそ250年が経過し、イギリスやアメリカをはじめとする世界各国は資本主義を中心とした社会システムにより経済的な豊かさを手に入れた。日本においても、明治期以降工業化が推し進められ、資本主義社会として今日に至っている。さまざまな変遷を経つつも根源的な部分については、大きく変わらずにある資本主義であるが、近年においては「ポスト資本主義」と呼ばれる新たな資本主義のあり方を議論する動きが活発化してきている。
今回、経済の専門家ではない私が資本主義をテーマとしてレポートを書こうと考えたのも、ポスト資本主義の議論を通じて、日々私が感じている現代におけるさまざまな課題や問題が資本主義に端を発するものであることが見えてきたためである。本稿は私自身の学びや考えを整理するものであることを前提に、問題提起の一つとして読んでいただければ幸いである。
2.資本主義とは何か
資本主義を語る上ではまず、資本主義とは何かを捉える必要がある。しかし、資本主義については歴史上の社会学者や経済学者がさまざまな定義を試みているが、いずれも明確な定義として確立されていないのが現状である。
そこで、おそらく最も資本主義を説明しやすいであろう経済的な側面から捉えようとしたときに、関連する概念として「市場経済」という言葉が思いつく。市場経済は、個人や企業がモノ・サービスを、買い手と売り手が取引する市場を通して入手するための仕組みである。近代経済学の父と呼ばれる経済学者アダム・スミスは、市場経済においては「個々人が利益を求めて利己的に行動しても、見えざる手により需要と供給は自動的に調整され、結果的に社会全体において適切な資源配分が達成される」と主張し、この考え方は資本主義の根幹となっていることは間違いないだろう。しかし、市場経済が資本主義すべてを表すものではない。そもそも市場経済が市場を通してモノ・サービスを入手するための仕組みであるならば、それ自体は産業革命以前、遡れば貨幣取引ではなく物々交換をしていた時代から存在するものである。ただし、市場経済を一つのヒントとすると、京都大学人と社会の未来研究院教授である広井良典氏が著書『ポスト資本主義』で記したところの「資本主義=『市場経済+(限りない)拡大・成長』を志向するシステム」という捉え方が資本主義を分かりやすく捉えているのではないかと思う。つまり、単に商品・貨幣の交換を目的とした市場経済というだけでなく、市場経済を通して資本の拡大・成長を追求するシステムが資本主義ということである。この「拡大・成長の追求」こそが、資本主義最大の特徴であり、資本主義が抱える課題にもつながるものであると私は考える。
3.資本主義が抱える課題
資本主義における最大の特徴が「拡大・成長の追求」であると述べたが、それ自体が悪というわけではなく、資本主義経済にある各国はこの特徴を捉えたが故に、経済的な豊かさを得た。しかし、経済の発展と引き換えに気候変動をはじめとする環境問題が深刻化し、日本においては少子高齢化・人口減少の進行とともに経済成長は鈍化しているのが現状である。これは資本主義が持つ特徴そのものが、社会のあるべき姿との相反を招き、課題を生んでいるのではないかと考える。ここではその課題について触れていきたい。
(1)「拡大・成長」が労働人口に左右される
生産年齢人口が増えれば経済は成長し、減れば経済は衰退するということは、ごく一般的な経済における認識として問題ないだろう。つまり資本主義における「拡大・成長の追求」にあっては、基本的に生産年齢人口は増え続ける必要がある。しかし、日本は現在、少子高齢化を伴う人口減少社会にあり、生産年齢人口は1995年をピークにこの20年以上減少し続けている。生産年齢人口が減少に転じて以降、日本のGDP成長率も停滞していることは以下のデータ(図1及び図2)からもわかるだろう。
内閣府も人口減少が与える経済成長へのネガティブな影響について発信をしている[1]。ここでは経済成長が停滞する三つの要因として、人口減少が労働投入の減少に直接結びつくことや、住宅ストックや企業における従業員1人当たり資本装備が減少するといった資本投入への影響、生産年齢人口の減少によるイノベーションの停滞を挙げている。
もちろん停滞の要因は人口減少以外にもあると考えられるものの、大きな要因であることは間違いなく、人口構造の劇的な改善が起こらない限り、日本の現状は拡大・成長を追求し続けることが困難な状況にあると考えられる。
図 1 日本の生産年齢人口の推移
図 2 日本のGDP成長率の推移
(2)労働力の商品化と伝統的社会の破壊
資本主義社会ではさまざまなものが商品となり、値段がつけられ、市場で売買される。そこでは人間の労働力も商品化され、人々は商品化された労働力を売り、あらゆる労働が資本のもとで賃金を得るために行う労働となる。商品化された労働力は人間から切り離され、どれだけ労働力を投入できるかが資本主義においては重要となる。究極的には、24時間常に労働することが資本主義にとっては最善なのだ。もちろん、現実には人間は24時間働き続けることはできないが、労働力という商品を売るためにできる限り働こうとする。こうした時にワークライフバランスの問題が発生するのである。
これに関連する説として、経済学者であり文化人類学者であったカール・ポランニーは、資本主義のもとにある市場経済にあっては、人間(労働)、自然(土地)、貨幣は商品と見なされ、人々はそれらを売ることによりかつての伝統的社会を破壊したと述べている。つまり、経済合理性を求めた結果、家や土地を売り、村などのコミュニティを中心とした社会を捨て、労働のために効率的な都市部に移動し、家族という単位が縮小されることとなった。これが日本でも顕著に表れているのが核家族化であり、いまや共働きが当たり前になるなど、その傾向はより強くなっていると言えるだろう。
(3)生産性の向上とブルシットジョブ
資本主義においては、利益を拡大するために効率化や生産性の向上という点が重視される。しかしその結果として起きているのは、生産過剰である。第一次産業革命が起きた際のような近代初期においては、現在のように欲しいものがすぐに手に入るわけではなく、慢性的なモノの不足状態にあった。そしてそのような時代ではモノを作ればおのずと売れるわけだが、モノが潤沢になり人々の需要の大半が満たされている時代にあっては、作っても売れないことが増えてくる。そこに加えて、技術の発展による生産性の向上によって、より少ない労働力で多くの生産が行えるようにすると、本来必要とされる以上の過剰な生産が生じることとなる。この時起きるのは、競争力を失った企業の淘汰と生産性の向上に伴う失業者の増加である。しかし、先述したように資本主義では労働力を市場に投入し続けなければならない。この問題に対して資本主義の中で現れた一つの結果が「ブルシットジョブ」の増加である。
ブルシットジョブとは文化人類学者のデヴィッド・グレーバー氏が提唱した言葉であり、直訳すると「クソどうでもいい仕事」となるそうだ。その意味合いを簡単に言えば、その仕事をしている本人でさえ必要性を感じない、社会的にも重要でない、不必要で無意味で有害な仕事である。デヴィッド・グレーバー氏によれば、ブルシットジョブの例として、誰かを偉そうに見せるための取り巻き(受付係、ドアマンなど)や、人に仕事を割り振るだけのタスクマスター(中間管理職など)が当てはまるそうだ。日本においても思い当たる部分は多いだろう。こういったブルシットジョブは、過剰生産と生産性の向上による失業者の増加をカバーするために、生産行為とは直接的な関係が薄い第三次産業を中心に生じており、労働力投下のための雇用を確保するという手段の目的化が起きているのである。そして付加価値の低いブルシットジョブは対価としての賃金も低く、結果として低賃金労働とそれによるやむを得ない共働きの状況を生み出していると考えられる。かつて、経済学者のジョン・メイナード・ケインズは、生産性の向上により人々は週15時間の労働で足りるようになると言ったそうだが、残念ながら我々の社会はその対極に進んでいるようだ。
こうした生産性の向上に伴う失業者の増加やブルシットジョブの問題の観点から、ベーシックインカムの必要性を説く声もある。本質的に必要のない仕事によって賃金を得るよりも、最低限の所得保障を行うことで、ブルシットジョブ以外の選択をできるようにするといった考え方だ。ベーシックインカムの是非についてここで論じるつもりはないが、今後の資本主義を考える上では一つの参考となるだろう。
(4)資本が資本を生み、格差が拡大するサイクル
市場経済を前提としている資本主義では、当然ながら市場に投下できる資本が多ければ多いほど、利益を得やすいという仕組みになっており、資本を持つ富裕層が自らの富を拡大しやすいという特徴がある。株式投資や金融商品が分かりやすいだろう。そしてこの特徴は、所得の格差問題に大きく影響している。フランスの経済学者トマ・ピケティ氏が設立した世界不平等研究所による「世界不平等レポート2022」[2]によれば、世界全体の資産の76%は上位10%の富裕層によるもので、上位1%の富裕層だけで世界全体の38%の富を支配しているとのこと。特に、上位0.01%の富裕層の世界総資産に占める割合は1995年には7%だったが、2021年に過去最高の11%に達するなど、富の集中が増しているとともに、十分な再分配が行われていないことが窺(うかが)える。この状況は日本でも例外ではなく、同レポートによれば、日本は上位10%の資産が57.8%で、そのうち上位1%は24.5%を占めているとのことで、世界全体に比べれば割合は低いものの、高い割合であることには違いないだろう。
(5)市場で評価されること以外に価値がつかない
資本の拡大・成長を追求する上では、行動の結果として利益が出なければならない。そこでは、市場で評価されること(儲かること)が第一条件となり、それ以外の条件が優位性を持てないことになる。GDP(Gross Domestic Product、国内総生産)が国際的に重要な指標とされているのが良い例ではないだろうか。GDPは一定期間内に国内で産出された付加価値(サービスや商品を販売した時の価値から、原材料や流通費用などを差し引いた価値)の総額である。端的に言えば各国がどれだけ儲かったかを表しており、このGDPが重要視されていることが、資本主義の特徴を表している。そして、この特徴が先鋭化されたときに問題となるのは「儲かれば何をしてもいい」、「儲からないことは人間にとって良いことでも優先する必要はない」という考え方を招きかねないということである。
前者の「儲かれば何をしてもいい」という考え方に沿った結果として起きたのが、サブプライムローン問題などを起因とする2008年のリーマンショックである。この時に起きていたのはマネーゲームであり、サブプライムローン問題については、スイスの国際経営開発研究所などが危機を予測していたにも関わらず、利益を優先した結果、問題が起きてしまったのだ。
後者の「儲からないことは人間にとって良いことでも優先する必要はない」という考え方においては、環境問題が大きく関わるだろう。この数十年間において環境問題が取り沙汰されているにも関わらず、根本的な解決に進まないのはなぜかと考えたとき、そこにあるのは環境問題に取り組んでも儲からないという事実である。もちろん、ソーシャルビジネスとして環境問題の解決に取り組む企業は出てきているものの、全体としてみればごく一部であり、多くの企業や人々はそこに経済的なメリットが見いだせないために本質的な取り組みができないのである。
ここで伝えたいのは、本来人間の幸せにはつながらないことでも、儲かれば問題がないということになりかねないということである。これが資本主義におけるもっとも大きな問題であると筆者は考える。
3.これからの資本主義のあり方
ここまで資本主義の課題について述べてきたが、筆者自身は資本主義を完全に否定したいわけではなく、ましてや社会主義や共産主義を礼賛しようというつもりも毛頭ない。しかし、近代以降続いてきた資本主義のあり方を我々は見直す時が来たのではないだろうかと考えている。そして、実際にこの数年においては資本主義のあり方を見直す動きとして、ポスト資本主義などの考え方が現れてきているのである。今回はその一部をご紹介したい。なお、現在の岸田政権が唱える「新しい資本主義」は成長戦略を軸とした成長と分配の好循環を目指すもので、既存の資本主義の延長線上にあり、ポスト資本主義的な考え方とは一線を画すものであることはご承知おきいただきたい。
(1)鎌倉資本主義
はじめにご紹介したいのが、鎌倉にある株式会社カヤック(通称:面白法人カヤック)の代表、柳澤大輔氏が掲げる「鎌倉資本主義」[3]である。柳澤氏の考えとしては、資本主義そのものを否定するつもりはないものの、既存の資本主義ではGDPという単一の指標を追い求めすぎていることが課題であると述べている。GDPだけが人間の豊かさの指標となるのか、数字では測ることができない豊かさが他にも多くあるはずなのに、GDPのみを追い求めるが故に環境問題や格差問題が起きているのではないかと考えたそうだ。先に述べたところの「市場で評価されること以外に価値がつかない」という資本主義の課題に通じる部分である。そこで、GDP以外のモノサシを持とうというところから、「地域資本」という考え方を提唱している。この「地域資本」は以下の三つの資本で構成されている。
- 地域経済資本― 財源や生産性
- 地域社会資本― 人のつながり
- 地域環境資本― 自然や文化
従来の資本主義における資本や売上に当たる部分が地域経済資本で、それに、地域社会資本と地域環境資本の二つを追加して、地域資本と定めている。この三つの資本をバランスよく増やしていくことが人々の幸せにつながり、そのために企業や行政といった地域のステークホルダーが一緒になって取り組むというのが鎌倉資本主義の骨子となる。この取り組みを進めるにあたって、法定通貨では定量化できない新しい価値を測るためのコミュニティ通貨(地域通貨)サービスを立ち上げるといった試みも行っている。
鎌倉資本主義は、資本主義のあり方を地域という単位で見直すことで、グローバル資本主義とは違う身近な生活におけるよりよい資本主義のあり方を探りつつ、短期的な経済合理性だけでない地域資本という新しいモノサシを持つことにより、地域の多様な発展を推進し、「地球環境汚染」と「富の格差の拡大」といった課題の解決につながる持続可能な資本主義を目指しているのである。今はまだ鎌倉という一地域での取り組みではあるが、今後このような取り組みは日本の各地にも広がるのではないだろうか。
(2)ドーナツ経済学
次にご紹介したいのが、イギリスの経済学者であるケイト・ラワース氏の「ドーナツ経済学」である。ケイト・ラワース氏は資本主義というよりも現代の経済学に対する問題提起と解決策という形でこのドーナツ経済学を提唱しているが、その内容は私が感じる資本主義の問題とも非常に通じる部分がある。
ケイト・ラワース氏は現代の経済学が70年以上にもわたってGDPを前進の指標とすることに固執し、その過程において所得や富の極端な不平等も、前例に無い環境破壊も黙認してきたと述べている。このGDPを重要視しすぎているという点では、先に述べた鎌倉資本主義と共通する部分がある。また、「合理的経済人」と呼ばれる人間像が強力なモデルとなって経済が考えられてきたことも問題としており、この人間像は、利己的で、孤独で、計算高く、自然を支配し、労働を嫌い、贅沢を好み、あらゆるものの価格を把握している人物として描かれている。こうした人間像を元に、現代の経済が築かれてきた結果、競争や利己主義を重視して、協力や利他主義を無視してきたのだとしている。このような人間像をモデルとすることから脱却し、果てのないGDPの成長を追求するのではなく、バランスの取れた繁栄の道を探るための新たな経済学として、ドーナツ経済学を提言したのである。
ドーナツ経済学は、地球を気候変動から守りながら、人間の生活に必要なエネルギーや食糧も確保していくための活動のあり方をドーナツの図(図3)によって表したものである。ドーナツの穴の部分である社会的な土台の下は、食料や教育、住居などの人間の生活に不可欠なものを欠いた状態、人間社会における危機的な窮乏を示している。逆にドーナツの外側である環境的な上限の上は、気候変動や化学物質汚染などを原因とする地球環境への負荷が限度を超過していることを示す。そしてドーナツの内側は、環境的に安全で社会的に公正な範囲であることを表している。ケイト・ラワース氏は、まず必要最低限の社会的基盤であるドーナツの穴の部分を整えつつ、ドーナツの外側に出ないよう環境が許す範囲での経済活動によって、全ての人々のニーズを平等に満たすことが必要であるとしている。
図 3 ドーナツ経済学を示す図
このドーナツ経済学の考え方は分かりやすく、理にかなっていると言えるものの、実際に取り組むのは容易ではないだろう。世界の多くの国や地域ではこういった取り組みは既存の資本主義を前提とした活動からの大きな転換であり、そのためには市民や企業からの理解や共感が得られなければならない。しかし、オランダの首都であるアムステルダムは、実際に自治体としてこのドーナツ経済学のモデルを適用した都市政策を行うことを2020年4月に発表した。もともとアムステルダムはサーキュラーエコノミー[4]における世界的な先進都市であることは有名だが、今後より一層環境都市としてのパイオニアとなっていくだろう。こうした取り組みが他の都市にも波及することを願うばかりである。
4.ローカルな資本主義の可能性
ポスト資本主義などの新しい資本主義の考え方として、鎌倉資本主義とドーナツ経済学を紹介したが、この二つに共通する部分として地域という限定された範囲で取り組まれていることがあり、この点は、新しい資本主義のあり方を考えるうえで重要になると考える。
ポスト資本主義的な考え方にあっては、自然環境や福祉、文化などを社会の中心に据えることとなるが、それらの性質は既存の資本主義的な側面から見れば非常に脆弱で、ステークホルダーも多く制御が不可能なグローバル資本主義のもとにあっては、容易に破壊されてしまうものである。そこで、比較的制御がしやすい地域という単位が、環境や福祉を中心とした新しい資本主義のあり方を実現する空間として適していると言えるだろう。また、環境問題への対応としても、「地産地消」により地域の中で食糧やエネルギーをできるだけ調達しつつ、ヒト・モノ・カネが地域内で適切に循環するような経済が、資源の有限性という観点からも望ましいものと考えられる。いわばローカルな資本主義がこれからの社会では必要になってくるのではないだろうか。
5.最後に
今回、資本主義における問題や課題を中心に述べてきたが、私は共産主義者や社会主義者ではないし、資本主義そのものを否定するつもりもないことだけは、改めてお伝えしたい。産業革命以降、資本主義を中心とした経済の発展によって、平均寿命は延び、極度の貧困層が減少したことなどは肯定すべきであることは間違いない。ただ、自分の中に生じた、今の私たちは本当に幸せなのか、という疑問に向き合った結果、たどり着いたのが今回の資本主義に対する問いであった。
もちろん、資本主義を見直すべきであるという考えの人たちばかりではなく、資本主義によって得られた恩恵をもとに、ポスト資本主義的な転換ではなく、資本主義の成長と拡大をさらに加速させるべきだと主張している進歩主義的な経済学者や著名人がいるのも事実である。しかし、私が見聞きする限り、こういった方々の論調のほとんどは、資本主義の発展により技術は飛躍的に進歩し、その技術によって環境問題は解決されるというものである。確かに技術の進歩によって環境問題は解決されうるかもしれないが、コミュニティや文化の崩壊、社会的不平等といった問題に対する答えにはならないと私は考えている。
いまや資本主義は単なる経済のシステムではなく、我々の生活や習慣、価値観、イデオロギーを形成する上での前提となっており、このことは普通に暮らしているだけでは認知することは難しい。このような状況において、社会をポスト資本主義的な方向へ転換することは容易ではないだろう。転換するためには、市民自らが前提を認知し、疑問を持ち、考えることが必要であり、そういった市民の意識の広がりから政治や行政、社会は変わっていくと考えている。そのために、私は今回の内容を発信しようと考えたのだ。しかしながら、学びも浅く道半ばにあり、未だ私自身も明確な答えが出ているわけではない。ただ、今回のレポートが読者の皆さんにとって、皆さんなりの疑問を持つきっかけとなれば幸いである。
[1] 内閣府HP:https://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/special/future/sentaku/s3_2_11.html
[2] 世界不平等レポート2022:https://wir2022.wid.world/
[3] 鎌倉資本主義:https://www.kayac.com/news/2018/11/yanasawa_blog_vol47
[4] サーキュラーエコノミー:日本語訳で「循環型経済」。これまで経済活動のなかで廃棄されていた製品や原材料などを「資源」と考え、リサイクル・再利用などで活用し、資源を循環させる経済システム。