Vol.291-1 夢みる小学校~子どもファーストの自由教育について
学校法人 きのくに子どもの村学園
南アルプス子どもの村中学校校長 加藤 博
1.はじめに
学校の休み時間、子どもたちがむらがる大人気のたまり場がある。大人や中学生のひざに座ってお話をして楽しむ子。ボードゲームをしたり、本を読んでくつろいだりしている子、ものを書いている子、かくれんぼをしている子。みんなリラックスしてくつろぎ、時折、にぎやかな笑い声が響く。驚かれるかもしれないが、これは職員室の日常の風景だ。2022年の春から劇場公開が始まった映画「夢みる小学校」[1]では、当校の職員室で大人たちの膝に座ってお話をする姿や、大人の背中に抱きついて甘える子どもを受け止める大人たちの様子が、愛のある風景だと話題になっている。その学校の名前は、南アルプス子どもの村小中学校[2]という。私は、学園を創始した堀真一郎(元大阪市立大学人間福祉学科教授)の研究室でニイルの思想とデューイの教育理論を学んだ。「愛をあたえ、まかせて待つ」教育の手法を信じてこの夢みる学校に勤め、もう30年近くになる。
2.きのくに子どもの村学園とは
学校法人きのくに子どもの村学園は、1992年、和歌山県橋本市でスタートした。小学校は、戦後はじめて学校法人として認可された自由学校といわれることがある。現在は、きのくに子どもの村小中学校(和歌山県)、かつやま子どもの村小中学校(福井県)、南アルプス子どもの村小中学校(山梨県)、北九州子どもの村小中学校(福岡県)、ながさき東そのぎ小中学校(長崎県)、きのくに国際高等専修学校(和歌山県)のあわせて11校が設置されている。
南アルプス子どもの村は2009年に南アルプス市徳永に開校した。山梨県内在住の子だけでなく、東京、神奈川といった関東圏の子どもたちが、小中あわせて200人あまり在籍している。その半分の子は関東圏から集まり、寮生活を送りながら学んでいる。
学園の歴史は、大阪市立大学で教壇に立っていた堀が、1984年に「新しい学校をつくる会」を組織するところから始まる。西欧や国内の先進的な教育実践の研究を続け、1970年代の後半から小学生や幼児を対象にミニスクールを開き、入念な準備段階をへたのち、1992年に開校に至る。その当時、打ち出した基本方針にはこう書かれている。
「学校現場は深刻な問題を抱えはじめている。『いじめ』が激増し、不登校児童・生徒が増え続け、事態は深刻化しつつある。専門家たちはこの原因を家庭の子育てに求め、親の過保護や過干渉などにより自我の発達が遅れているからだという。だが、問題は家庭だけにあるのではない。これまでの教育観と学校観を今一度見直し、『学校を変える』、つまり『子どもを学校に合わすのではなく、学校を子どもに合わせる』必要がある。」
3.法人認可をうけたオルタナティブ・スクールの意義
めざしたのは、学校法人によって設立され、経営される私立学校であった。法人認可をうけた「正規の」私立学校設立を目指した理由はふたつあった。
ひとつは、公的補助を受けるメリットである。単なる私塾では助成は受けられず、保護者の学費負担は大きい。つまるところ、金銭的な面で職員が無理をしたり、教育環境が充分に整えられなかったりした場合、そのあとの存続が危ぶまれる。末長く、学校を続けるためには財源が安定していることは重要な要素として看過できない。
ふたつ目には、オルタナティブ教育の可能性と必要性をアピールするためには、学校教育法第1条に定められた「一条校」である方が、説得力が増すと考えたからだ。堀は、「無認可の小規模な私塾では、特別な事情のある子どものための『かけこみ寺』的な施設とみられる可能性が高い。めざす学校はあくまでもごく普通の子どものための『正規の』学校にしたい」「こんな学校もある、こういう教育方法もできる」と広く発信し、「オルタナティブ教育のよさが認められていけば、より多くの子どもが幸せに学校生活を送る手助けになる」と主張していた。
4.子どもをめぐる実情
近年、学校へ行き渋る子どもが増え、自分を責め、悩み、自死に至る子どもの数が増加傾向にあるのは深刻な社会現象である。子どもの生きづらさの元凶は「学校」にあることは間違いないだろう。
かつて教育学者の大田尭さん(元都留文科大学学長)は「現代の子どもは出番のない失業状態である」と警鐘を鳴らした。確かにこの社会は、子どもを未熟な存在とみなし、学校に囲い込んでいる。管理することで安全は保障される。しかし、大人から与えることが多く、子どもには従順さを求めるゆえ、子どもの自発性が育つかといえば疑問である。テストや試合で子どもたちは出番を迎えるが、こうした競争にさらされる中では緊張と不安にあおられ、多くの子どもは「今のままの自分ではダメだ」と思い込んでしまう。その結果、自己否定感を蓄積し、すっかり自分自身のやる気や価値を落としてしまっているのが実情ではないだろうか。
管理教育は、大人の意思や善意がどうあれ、与えられた枠組みに無批判に従う主体性のない人間をつくる。子どもの特権は、自分のやってみたいことを思う存分、自由にやってみるところにある。その自由を奪われ、大人の決めた枠にとじこめられ、望まぬことをやらされ続けた時、子どもは自分を失い、存在することをも否定するに至る。ひとたび自分が信じられなくなると、不安だから、たえず周囲に気を配り、強い者にすがるとか、多数派に身を寄せるとかして、それに同調し、同質となることで安心しようとするだろう。期待される出番に応えようと大人に忖度(そんたく)して一生懸命に生きている子ほど、今、自信をなくし、自分の居場所を見いだせず、大人たちの期待に沿えない自分を責めているのではなかろうか。
5.あるがままの自分でいられる場所
「居場所」という言葉を辞書でひくと「安心していられる場所」「その人が心を休めたり、活躍したりできる場所」(デジタル大辞泉)とある。今学校で過ごす子どもたちは、心からやすらぎを感じ、あるがままの自分を認められ、受け入れられていると実感できるだろうか。自分が活躍したり、役に立ったりしていると感じられるだろうか。
子どもの権利条約では、子どもは「保護の対象」ではなく「権利(意思)の主体」であることを明言している。大人は子どもをまん中にして、すべての子どもが居心地よく過ごせるように、手助け、見守る役割を果たさなければならない。
その際、手を出し過ぎてはいけない。支援する立場にたち、そっと見守り、困っていれば一緒に考えるといった姿勢が必要となる。管理することで子どもを保護するのは簡単だが、その結果として子どもから失敗やまわり道の機会を奪ってはならない。ほんとうの保護というのは、目の前にいる子どもの「今」を大切することだ。子どもを信じて、尊重して、待つ覚悟こそが必要だ。
「子どもを学校に合わすのではなく、学校を子どもに合わせる」教育観、学校観に沿って、それまで進められてきた教育を批判的に考察し、あらためて見直すと、学校にある当たり前をなくした方が、子どもたち自身がよく育つことに気づかされる。私たちの学校には、校則がない、宿題を出さない、テストはしない、チャイムを鳴らさない、何年何組をもうけない、先生と呼ばれる大人がいない、通知表がない、など、ないものだらけになっている。
6.子ども観と大人の役割
私たちがめざす子どもの姿は「自由な子ども」という言葉に集約される。感情面でも、知性の面でも、そして社会的な面でも自由な存在である。そのコツとして、「叱らない教育」を実践し、否定的な言葉づかいをしないように心がけている。
たとえば声かけをするときは「〜しないで」という表現をできるだけさける。「走らないで」といいたければ「歩こう」といい、「あと5分しかない」は「まだ5分ある」といった具合だ。
そんな声かけの中で安心して過ごす時間が、子どもの無意識に働きかけ、感情を解放する。すると、うつむき加減だった子も、次第に笑顔を取り戻し始める。自分を肯定する気持ち(自己受容)を促し、感情的に自由になっていく。情緒が安定し、いろいろなことに挑戦するようになる。自己肯定感や自信も深まっていく。自分が好きになり、自己意識をぐんぐん高めていく。
知的側面では、子どもは本来、内から育つ存在であると信頼し、まかせて待つことに徹している。子どもは「はやく大きくなりたい」と願う存在であり、さまざまなことに対して「知りたい」「してみたい」という思いをもって関わっていく。
子どもたちには小さな科学者として、身近な問題に気づき、仮説を立て、結論を導き、手やカラダをつかって確かめるという一連の段階を、知的に存分に味わってもらいたい。そばにいる大人の役割は、そうした子どもが本来もっている好奇心を「奪わない」ようにしている。「あっ、そんなことをしたらダメ!」と声をかけない。子どもが創造的に考える態度と能力を身につけていく場所では、できる限り見守るのが大人の仕事である。
社会的には、一人ひとりがみんなと自由に生きられる術(すべ)を身につけた子になってもらいたい。競争・序列主義の中で適応していくことでは、その術は身につかない。一人ひとりが、民主的な雰囲気の中で、友だちと心をかよわせ、力を合わせ喜び合ったり、仲間の意見を聞いたり、自分の意見をもち、お互いの願いや思いを調整して生きる楽しさを満喫したりしてほしい。「自由な子ども」は、よく笑い、よく遊び、よく考え、ともに生きることを楽しむ存在だ。
7.自己決定の尊重
子どもの村には三つの原則がある。一つは自己決定の尊重だ。普通の学校では、先生が決めたことに子どもは従う。だが子どもが知的に自由になるためには、したい活動がたくさん用意され、自分自身で決め、選び、結果をみて、失敗したらやり直す自由が保障されなければならない。子どもの自己決定を認めるというのは、失敗を許すということであり、子どもの村では、「自由にやってごらん。責任は大人がとるよ」といわなくてはいけないことになっている。
また、大人は手助けをすることはあれど、答えを教えない。子どもが無心に取り組んでいるそばにいてニコニコしている。大人は、子ども同士が助けあう姿を期待して、教材を用意したり、道具の使い方を説明したりする役目はあるが、終始にわたって間接的にかかわることに徹している。子どもが主体となって、学校にくるのがたのしみでしょうがないような環境を用意して見守ることに徹する。
「何もしたくない」という子どもがいたならば、その選択肢の中には「何もしない」というオプションも用意されるべきだが、そんなときこそ大人たちは、はりきって創意工夫をして、その子どもをひきつける教材を用意しようと努めている。
8.画一教育から個性化へ
一般的な学校では、子どもたちは教壇に向かって机を並べて座る。先生がいて、その背中に黒板があり、子どもたちはみんな前を向いている。多様性を大切にしようとか、一人ひとりの違いを認め合おうと伝えながら、みんな同じペースで、同じことを同じ方法で、同じだけ学んでもらえるように大人たちは働きかける。
だが、本気で多様性を尊重するならば、学習の形式は人それぞれに違うはずだ。教科を横断して柔軟にカリキュラムをつくり、一人ひとりの子どもが、自分のペースで、多様に学べるように工夫するべきである。これが個性化と呼ばれる二つ目の原則だ。子どもたちはテーブルにつき、仲間と相談しながら学習をすすめる。ときには床で、場合によっては地面にはいつくばって書いたり、つくったりしている。みんなが同じでなければいけないということは、不自由を強いることになる。ゴールはそれぞれ違ってもいい。多様な選択肢の中から、自分でしたいことを選び、人数が多ければ柔軟にグルーピングをして調整する。とはいえ、学習活動を多様化するのはたいへんなことで、大人はすごくいそがしい。
9.体験学習の重視(プロジェクト学習)
三つ目には、体験学習の重視である。子どもの村の体験学習は、子ども自身が主人公の知的探究であり、プロジェクト学習と呼ばれている。ただ手やカラダをつかえばいいというものではなく、せいいっぱいに頭をつかって挑戦する知的探究である。
プロジェクトは、気晴らしやごっこ遊びではない。教育学者のジョン・デューイのいう基本的社会生活、つまり衣食住や「命」からテーマをとり、生きていく上で欠かせない、または、自分の生活と密接な事柄を題材にして、「よりよく」「より快適に」生活を営んでいくための知的探求をする。私たちはこれを「ホンモノの仕事」と呼んでいる。
ホンモノの仕事としてのプロジェクトは、子どもの意識においては、何か別の目的のための手段ではなく「それ自体が目的」だ。この時間は、子どもが選び、個人差や個性が生かされ、学ぶ楽しさと仲間と触れ合う喜びをたっぷり味わい、知性と手と体を鍛える総合学習である。単なる教科の総合(合科)ではなく、発達の諸側面の統合である。小学校では週14時間、中学校では11時間割り当てられている。
小学校には五つのプロジェクトがある。「わくわくファーム」「おいしいものをつくる会」「クラフトセンター」「劇団みなみ座」「アート&クラフト」。中学校には四つ「くらしの歴史館」「ものづくり研究室」「劇団カメレオン」「ゆきほたる荘」がある。子どもたちは4月になると、自分の所属したいプロジェクトを選び、集まってくる。そして1年間、そこに在籍する。
みんなの遊び場をつくる。また、汗を流して麦や米を育て、さまざまな料理に挑戦したり、みんなで楽しむための劇を創作したり、森に入り、木々を間伐し、持ち帰って小屋を建設したり、養豚や養鶏をして、その命をいただくといった活動もある。日本住血吸虫病(地方病)の闘いの舞台となった山梨県の歴史をたどり、研究者や有識者から聞き取りをして本を発行した子たちもいる。
プロジェクト学習は、カリキュラムの中心に据えられていて、そこから多方面の分野へと発展させられる。たとえば「米づくり」の活動から、「かず」と「ことば」の学習、また植物の種類と成長など科学の分野の学習、気候や土壌、食生活の実際と歴史、貿易、世界の飢餓の問題などへと学びは次々に広がっていく。
子どもたちも職員たちも、プロジェクトは楽しいという。しかしラクな活動だからではない。力を合わせ、頭も体もフルに使って打ち込む大仕事だからこそ、大きな達成感と成長の実感が得られる。それが楽しいのだ。
10.さいごに
「これからの時代に求められる資質・能力」として、文部科学省の新しい学習指導要領が目指す姿には、「複雑で変化の激しい社会の中で、主体的に判断しながら、自分の役割を意識し、課題に向かって他者と協働して解決していく力をもった子を育ててほしい(要約)」と記されている。その糸口として大人たちに求められるのは、学校の在り方を見直し、子どもにもう少しだけ、選ぶ機会と考える機会を与え、まかせることなのではないだろうか。これまでの教育のあり方を見直し、ちょっとした工夫をすることで、閉塞感の漂う教育現場を開放し、子どもと先生たちに活気をもたらすものと信じている。その秘訣(ひけつ)は、愛をあたえ、まかせて待つことだと信じてやまない。
[1] 映画「夢見る小学校」
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[2] 南アルプス子どもの村小中学校
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