Vol.292-1 山梨の新聞「史」―企画展「山梨と新聞―知識を広むるは新聞を求むるに在り―」によせて―
山梨県立博物館 学芸課
学芸員 中野 賢治
1.はじめに
今から150年前の1872(明治5)年7月、甲府の内藤伝右衛門らの手によって「峡中新聞(こうちゅうしんぶん)」が創刊されました。「峡中新聞」はその後「甲府新聞」、「甲府日日新聞」と紙名を改め、1881(明治14)年からは「山梨日日新聞」と称し、現在まで発行を継続しています。現存する地方紙としては日本で最古、全国的にみても毎日新聞に次いで2番目に古い新聞として広く知られています。
明治時代は「新聞の時代」でもありました。明治維新前後には、欧米化・文明開化の一環として、多数の新聞が創刊されました。また自由民権運動が高揚すると、その政論の場として、新聞は多くの人々に読まれ、また政府の弾圧を受けました。明治時代を通じて新聞の発行部数は右肩上がりで上昇し、定期購読や各戸配達などが広く行われるようになります。
県立博物館では企画展「山梨と新聞―知識を広むるは新聞を求むるに在り―」(2022年10月15日~12月5日)を開催しています。現在、県内では「山梨日日新聞」が圧倒的なシェアを誇っていますが、そこに至るまでにはいくつかのターニングポイントがありました。
ここでは、企画展によせて、山梨における新聞のあゆみについて振り返ってみたいと思います。
2.「峡中新聞」の創刊と新聞の時代
日本で最初の新聞は、1862(文久2)年に幕府の蕃書調所(ばんしょしらべしょ)が発行した「官板バタヒヤ新聞」であるとされています。これはオランダ領であったバタヴィア(現インドネシア・ジャカルタ)で発行されていた新聞を日本語訳したものでした。国内情報を掲載した新聞は、1868(慶応4・明治元)年の「中外新聞」や「内外新報」などが最初期のものです。
幕末、特に慶応年間には、新聞創刊ブームといってよいくらい、多くの新聞が発行されました。福地源一郎(桜痴)が主宰した「江湖新聞(こうこしんぶん)」もそのひとつです。福地は1868年5月発行の第16号に、明治新政府を厳しく批判する文章を「強弱論」と題して掲載しました。これに対し政府は福地を処罰したうえ、「江湖新聞」に発行停止を命じました。これが新聞の筆禍事件第1号とされています。同じころ、「中外新聞」や「内外新報」など多数の新聞が廃刊しており、その背景にこの事件があったという指摘もあります。
1871年1月(明治3年12月)、日本で初めての日刊新聞「横浜毎日新聞」が創刊され、このころから第2次新聞創刊ブームが起こります。1872(明治5)年2月、東京で初の日刊新聞として「東京日日新聞」が創刊されました。これらの新聞は山梨県下でも販売されており、広く読まれていました。しかし東京や大阪で発行される新聞には、山梨の話題はほとんど現れません。その「物足りなさ」が「峡中新聞」創刊の前提となったのかもしれません。
「峡中新聞」以外にも、明治時代初めの山梨県では多くの新聞が発行されました。しかしそれらの多くは、1年ともたずに廃刊に追い込まれています。一方で、「峡中新聞」は発行を継続することができました。その背景には、新聞を命令伝達の手段として定着させたい県の意向が働いていたともいわれていますが、新聞を支持する読者の広がりもあったとみてよいでしょう。
1873(明治6)年1月、藤村紫朗は権令(のち県令)に就任すると、内藤伝右衛門に新聞の編集権を委ねました。これにより同年4月には「甲府新聞」と改称したと考えられています。続く1876(明治9)年には日刊化し、「甲府日日新聞」と名前を改めました。
「峡中新聞」が創刊された明治の初め、新聞は紙面の内容から大きく「大新聞」と「小新聞」のふたつに分けられていました。政治や経済を真っ向から論じる「大新聞」に対し、身近なできごとや読み物、演芸・芸能記事など面白さを追究したものが載る「小新聞」が大変な人気を博し、徐々に「大新聞」も「小新聞」的な娯楽記事を掲載するようになって、やがてこの区別自体がなくなっていきました。
3.明治新聞界の活況
山梨の新聞というと、どうしても「山梨日日新聞」がずっとその中心であり続けたかのように思いがちですが、実際は決してそうではありませんでした。1879(明治12)年から1901(明治34)年にかけての『山梨県統計書』には、年ごとの新聞の発行部数が掲載されています。それをもとにグラフを作ると、次のよう になります。なお、1881(明治14)年まで「山梨日日新聞」は「甲府日日新聞」でしたが、ここではこれ以降「山梨日日新聞」で表記を統一します。
1879(明治12)年3月に創刊された「峡中新報」は、瞬く間に発行部数を伸ばし、1882(明治15)年には54万部を数えるまでになりました。同じ年の「山梨日日新聞」は17万部とその3分の1程度でしかなく、「峡中新報」の人気ぶりがうかがえます。しかし「峡中新報」は編集方針をめぐる内部対立や中心であった佐野広乃の退社などにより、1883(明治16)年に廃刊に追い込まれています。
その後1888(明治21)年6月に「峡中日報」、1890(明治23)年4月に「甲斐」(「甲斐新聞」)などが続々と創刊され、「山梨日日新聞」と部数を競うようになりました。「山梨日日新聞」の発行部数が114万部であった1897(明治30)年には、「峡中日報」は250万部、「山梨民報」が148万部を売り上げており、「山梨日日新聞」一強どころか、いくつもの新聞の後塵を拝していたことがわかります。ただし、このグラフの期間を通じて「山梨日日新聞」はほぼ右肩上がりで部数を伸ばしていることもまた事実で、着実に読者を増やしていったこともわかります。
なお、同じ1897年の山梨県の人口は55万人余りでした。すなわち、これらの新聞の発行部数は山梨県の人口をはるかに上回っていたのです。いろんな状況が想定できますが、県外での読者の拡大や官公庁・企業などによる複数紙の購読など、現在とも共通する購読状況に加えて、1人が複数の新聞を読み比べるという、新聞の読者としての成長も、こうした傾向に拍車をかけたと考えられます。
大正時代の初めころ、ようやく「山梨日日新聞」が発行部数で安定的にトップとなりました。大正デモクラシーと呼ばれる民主主義的・自由主義的風潮のなかで、特定の政党の支援を受けず、「不偏不党」を掲げる「山梨日日新聞」に支持が集まったものとみられますが、はっきりとはわかっていません。当時、山梨では日刊の新聞が5紙ありましたが、現在のように山梨における日刊の地元紙が「山梨日日新聞」一紙だけという現状につながる直接的なきっかけとなったのは、戦時中の一県一紙でした。
4.一県一紙と山梨の新聞界
大正時代の末ごろ、山梨の日刊紙のひとつであった「甲斐新報」が廃刊しています。こののち、日本が戦争に突き進むなかで、言論・情報統制を容易にするため、さらには原料紙の節約のため、全国紙以外のいわゆる地方紙は都道府県ごとに一つにせよと、政府が各地の新聞社に強制するようになりました(一県一紙)。これに基づき、各都道府県では複数存在した新聞社が合併し、その地域を代表する新聞に統一されていきます。現在も、例えば「信濃毎日新聞」や「静岡新聞」など、県ごとに代表的な新聞がありますが、それらの多くはこの一県一紙によって統一された新聞なのです。
山梨でも、「甲斐新報」の廃刊によって4紙となった日刊紙に合併が呼び掛けられ、「山梨日日新聞」を軸に合併の協議が行われました。しかし交渉は極めて難航し、なかなか進まなかったといいます。結局「峡中日報」が1940(昭和15)年10月に、「山梨民報」が同年11月に、「山梨毎日新聞」が1941(昭和16)年2月にそれぞれ「山梨日日新聞」に合併し、山梨県における一県一紙が成立しました。
ここでなぜ合併の軸として「山梨日日新聞」が選ばれたのか、はっきりとしたことはわかっていません。昭和初期、「山梨日日新聞」の発行部数は県内トップでしたが、他県の事例をみると、例えば東京都では、発行部数で勝る「都新聞」が、当時低迷していた「国民新聞」と無理やり合併させられ、「東京新聞」と紙名を改めているなど、必ずしも発行部数の優劣のみで選定されたわけではないようです。「山梨日日新聞」は明治時代以来「不偏不党」を社是としていたこともあり、政治的な思惑も働いたものとみられます。
1945(昭和20)年3月には、「戦局ニ対処スル新聞非常態勢ニ関スル暫定措置要綱」に基づき、新聞社の共同経営が進められ、「山梨日日新聞」は「毎日新聞」と提携し、社員の受け入れや印刷の分担などで協力するようになりました。同年7月、甲府空襲で社屋が焼失した際には、「毎日新聞」の協力を得て新聞の刊行を継続しています。「山梨日日新聞」が自社印刷を復活させることができたのは、終戦後の同年10月になってからでした。
5.メディアの多様化と新聞の未来
日本で1925(大正14)年に始まったラジオ放送は、戦中までは日本放送協会(NHK)が独占的に放送を行っていました。ラジオが普及すると、速報性で劣る新聞では、大きな写真の掲載を積極的に行うようになり、情報の正確性や一覧性に磨きをかけていくことになりました。
戦後、電波が民間に解放されると、民間ラジオ放送局の開局が相次ぎます。1951(昭和26)年、愛知県の中部日本放送(CBC)と、大阪府の毎日放送(MBS)がその最初のもので、ほぼ同時に放送を開始しました。中部日本放送は「中日新聞」、毎日放送は「毎日新聞」がそれぞれ大きな影響力を持つというように、この時期に設立された放送局の多くには、何らかのかたちで新聞社が深く関わり、新しいメディアをつくりあげていったのです。
山梨県でも、1954(昭和29)年にラジオ山梨(RYC)が開局し、社長には「山梨日日新聞」の社長でもあった野口二郎が就任しています。その後1959(昭和34)年にはラジオ山梨がテレビ放送も行うようになり、1961(昭和36)年には社名を山梨放送(YBS)と改めています。
新聞界では、戦後まもない1946(昭和21)年、「山梨時事新聞」が創刊されています。同紙は「山梨日日新聞」のライバル紙として、熾烈な販売競争を繰り広げますが、1969(昭和44)年に廃刊し、「山梨日日新聞」に合併されました。以後、現在にいたるまで「山梨日日新聞」が山梨を代表する日刊紙としての立場を確固たるものにしています。
6.おわりに
この150年間、山梨の人々は新聞とともに歩んできました。明治から戦前にかけては庶民の貴重な情報源として重視され、また戦後にテレビやラジオが登場して以降も、新聞は変わらず人々の間で親しまれてきたのです。それはすなわち新聞が読者を育て、読者が新聞を作るという相互関係がこれまで続けられてきたことを意味しています。
山梨における新聞のあゆみは、現在の状況からは想像もつかないほど、多数の新聞が現れては消えていく歴史でした。「山梨日日新聞」は明治時代に他紙に差をつけられ、いつ廃刊に追い込まれてもおかしくない状況でも発行を継続し、時勢に恵まれたこともあって、山梨を代表する新聞に成長していくのです。
現在、インターネットとスマートフォンの普及により、新聞は苦境に立たされているといいます。しかしラジオ・テレビとの共存を実現したように、新聞はこれまでの歴史のなかで培ってきた信頼を活かしながら、人々と情報との関係について、新しい生活スタイルを提案してくれることでしょう。