Vol.295-1 世界トップレベルの水素・燃料電池技術水準と産業化について
国立大学法人山梨大学 水素・燃料電池ナノ材料研究センター
特任教授 センター長 飯山 明裕
1.はじめに
皆さまは、「カーボンニュートラル」あるいは「脱炭素」という言葉をどこかでお聞きになられたことがあるかと思います。地球温暖化を抑制する観点から、二酸化炭素(CO₂)の排出量を実質ゼロにしようという動きです。日本では、2020年10月に当時の菅義偉総理大臣が、日本は2050年カーボンニュートラルを目指すことを宣言しました。世界でも、2050年ごろにカーボンニュートラルを目指すことを宣言している国がすでに、120カ国・地域以上になっています。カーボンニュートラルは、国のみならず民間企業のミッションにもなっており、先進的なグローバル企業では、すでにサプライチェーン全体のカーボンニュートラル化に向けて工場や部品・材料に至るまで脱炭素化に向けた取り組みを加速しています。
水素は、発電したり、トラックなどでモノを運んだり、さらには工場のボイラーなどで熱を取り出すことなどを、CO₂発生ゼロで可能にするエネルギーとして注目されています。山梨大学では、渡辺政廣名誉教授が1960年代から水素を用いて効率よく電気を取り出せる燃料電池に注目し、その性能や耐久性を左右する重要な触媒や電解質膜などの材料を研究してきました。図1に示すように、1978年には文部省が全国で初となる「燃料電池実験施設」を山梨大学に設け、2001年には太陽エネルギー活用も含めた「クリーンエネルギー研究センター」に拡充改組しました。2008年には、関係省庁と山梨県の絶大なご支援のもと、「燃料電池ナノ材料研究センター」が設立され、経済産業省、国立研究開発法人「新エネルギー・産業技術総合開発機構」(以下NEDO)の委託するプロジェクトに取り組んできました。現在では、クリーンエネルギー研究センターと水素・燃料電池ナノ材料研究センター(燃料電池ナノ材料研究センターから名称を2022年6月に変更)を併せて80人を超える人たちがNEDO委託事業などで水電解や燃料電池の材料の研究に従事しており、規模と技術水準(論文数や特許取得数)は大学としては世界トップレベルといえます。
私は、2015年2月に自動車会社から山梨大学に移り、同年4月に渡辺先生から、燃料電池ナノ材料研究センターのセンター長を引き継ぎました。本稿では、世界でもトップレベルの山梨大学における水素・燃料電池技術や、それらを元にした水素・燃料電池関連製品の産業化に向けた取り組みについてご紹介します。
2.水素・燃料電池とは? 何ができるのか?
水素は最も軽い気体で、天然には存在しません。現在は、天然ガスから抽出して作る水素が主流ですが、今後は、太陽光や風力などの再生可能エネルギーを用いた水電解によりCO₂排出ゼロで作る水素(グリーン水素といいます)の大量普及が期待されています。水素は燃えやすいガスですが、きちんと作られた機器を正しく用いることにより、都市ガスと同じように、安全に使いこなすことができます。水素を運ぶためには、高圧にするかマイナス273℃程度に冷やして液化してトラックや鉄道・船舶で運ぶか、パイプラインを敷設して消費地まで運ぶ必要があります。日本は将来必要とする水素を海外で製造し、日本に運搬するために液化水素のほか、アンモニアやメチルシクロヘキサンと呼ばれる炭化水素系の液体の水素キャリアーに変換してから、専用の運搬船で日本に運び、臨海部でガス化して発電所や製鉄所・工場などで大量に消費するモデルの実現を目指しています。同時に山梨県のような内陸部では、再生可能エネルギーによる水電解で作られる水素をその場で使うか、高圧化してトラックなどで近距離運搬するモデルが考えられています。なお、欧州では、水素パイプラインを用いた大量輸送が検討されています。
燃料電池は、水素と空気中の酸素の反応により電気を作り出す機能があり、その意味では、「発電機」と呼んでもよいものです。図2に示すように、エンジンに比べて有害な排出物がなくクリーンで、発電効率も60%程度と大変高いことが特長です。
図2 燃料電池の特徴
水素を燃料とする燃料電池は、家庭用としては「エネファーム」と称して電気や温水を供給するシステムとして2009年から販売され、2022年末には国内で46万台を超える設置実績があります。燃料電池で作られる温水をお風呂などで活用するとエネルギーの効率はほぼ100%に近い極めて高い効率が得られます。山梨大学では、家庭用燃料電池に用いられる水素を含んだガス(改質ガスといいます)に適した触媒の実用化に大きな貢献実績があります。最近は家庭以外にも、ビルや店舗、工場などより大規模の定置式発電用途への適用も始まっています。また、乗用車においても2014年から燃料電池を搭載して販売され(Fuel Cell Vehicle, 以下FCV)、韓国や米国、日本などで4万台を超える台数が導入されています。山梨大学ではこのFCVに用いられる純水素に適した高性能で高耐久な触媒の実用化に大きく貢献しています。現在、自動車用の燃料電池には、バッテリーでは困難と考えられる大型トラックやバス、鉄道などへの適用の期待が世界で高まっており、日本をはじめ、欧州、米国、中国、韓国などで活発に研究開発が進められています。水素を自動車に供給する水素ステーションの普及も重要です。県内には甲府市内に1カ所水素ステーションが設置されていますが、日本では170を超える設置数となっています。まだまだ多くの水素ステーションの設置が望まれています。課題とされている水素ステーション設置に伴うコストの低減や規制の見直しについて、国の事業で進められています。
水電解で作られる水素は、燃料電池で発電するほか、さまざまな活用の用途が検討されています。例えば、工場などでボイラーの燃焼に用いて蒸気を作るなどの電気では難しい熱として利用する用途では、山梨県企業局と民間企業による取り組みをはじめ活発に事業化が進められています。さらに将来的にはグリーン水素と大気中のCO₂を用いて、脱炭素燃料を合成したりプラスチック製品を作ったりなど、グリーン水素を用いて、石油や天然ガスを使わない社会への転換を可能にする研究開発が世界で活発に行われています。
3.技術の現状
燃料電池技術は、すでに家庭用(エネファーム)で8万時間程度、自動車用でも15年20万キロの耐久性を有していると考えられ、通常の使用には問題がないレベルになっています。
しかしながら、コストはまだ高いのが現状で、さらに自動車用にはより小型・高効率・高耐久・高出力を実現することが求められています。特に小型で高出力を得るための手段として、燃料電池の作動温度の上限を高温化することが求められています。これまで自動車用に使われている固体高分子型燃料電池の作動温度は、-30℃から90℃程度ですが、燃料電池から出る排熱を自動車の外に排出するためのラジエータを小型化して、今のエンジンと同じようなスペースで同等の出力を得るために、高効率化と同時に作動温度の上限を120℃程度まで高めることが求められています。
山梨大学ではこのような従来にはない高い産業界からの目標に対して、下記のような燃料電池の革新的な触媒・電解質などの材料技術の研究開発に取り組んでいます。
- 規則的な細孔に触媒粒子を最適な位置に担持する高効率化触媒技術
- 耐久性に優れた導電性セラミクスにロッド状の触媒金属を担持する高耐久高活性触媒技術
- 低コストで高出力が得られる、補強層付き炭化水素系電解質膜技術
- 中性子線を用いた運転時の燃料電池内の水の分布可視化技術
4.産業化の現状
山梨大学の燃料電池技術の成果をシーズ技術として活用することにより、図3に示すように、水素社会に必要な三つのデバイス、すなわち、水素の製造(水電解スタック)、圧縮(電気化学式水素圧縮ポンプ)、利用(燃料電池スタック)の分野で産業化が実現できます。いずれも同様な積層構造をもち技術的には親和性が高いことが特徴です。山梨大学の研究成果の触媒と電解質膜を使用することにより、このようなデバイスを元にしたさまざまな用途で、新製品の産業化が可能となると期待されます。
図3 山梨大学の技術シーズを活用した水素・燃料電池関連製品の産業化
県内の企業が水素・燃料電池分野に新たに参入することを支援する取り組みは、2015年5月に山梨県、やまなし産業支援機構と山梨大学の3者の協定をもとに発足した、「やまなし水素・燃料電池ネットワーク協議会」(以下ネットワーク協議会)の活動として位置付け、山梨県とやまなし産業支援機構と共同して取り組んでいます。大学にはその事務局機能をもった専任組織として、研究推進・社会連携機構に「水素・燃料電池技術支援室」(以下技術支援室)を同じ2015年5月に設置しました。私は、ネットワーク協議会の会長と技術支援室の室長も兼務させていただいております。
このやまなし水素・燃料電池ネットワーク協議会の一環として、山梨大学では、県内企業の水素・燃料電池関連産業に参入する強力な支援策として、山梨県からの委託により、「燃料電池関連産業人材養成講座」を2016年から開講し、令和4年度末までに137人もの修了者を輩出しています。大学はもとより、国内の先進的な水素・燃料電池の産業化に取り組んでいる企業から第一線の技術者また経験者を講師に招き、毎週木曜の夜学として40週開講しています。4月に始まると翌年の2月に終わるという1年がかりのものです。
特徴は、実習を重んじていることです。実際の燃料電池の組み立て・評価実験や、最先端の施設見学、さらには、数人でグループ(バーチャルカンパニー)を作り、100Wの燃料電池と吸蔵合金水素ボンベなどを元に、水素・燃料電池でどのようなビジネスができるかを考え、試作品を作る実習を行っています。優秀作品は、FC-EXPOと呼ばれる国際燃料電池展に展示をしています。修了者の多くから、「大いに役立った」、「役に立った」という感想をいただいております。
図4 やまなし水素・燃料電池ネットワーク協議会(産学官連携、人材育成)
山梨県内企業による水素・燃料電池関連製品の産業化で大きなエポックといえるのは、2017年から2021年度まで5年間取り組んだ、文部科学省事業「地域イノベーション・エコシステム形成プログラム」(以下、文科省地域イノベプログラム)に採択された、『やまなし燃料電池バレーの創成』(以下FCyFINE(エフシーファインと呼びます))です。県内企業3社が、それぞれの技術を生かして、以下のユニークな製品の事業化に取り組みました。
- 日本初の空冷汎用燃料電池を製造し、電動アシスト自転車や非常用電源装置に対して電源システムとして供給する事業(日邦プレシジョン株式会社)
- 従来の燃料電池スタック内の二つの部材(ガス拡散層とセパレータ)を統合し(ガス拡散層一体型セパレータ)、低コストで高出力が得られる燃料電池を実現できる革新的な部材の製造販売事業(株式会社エノモト)
- 燃料電池の薄い電解質膜に触媒を均一に塗布でき、かつ、ドライ塗工が可能で乾燥工程が不要にできる静電塗工装置製造販売事業(株式会社メイコー)
現在、それぞれの会社において、5年間のFCyFINEの取り組み成果を顧客企業に売り込み事業化を図っています。日邦プレシジョンの取り組む燃料電池電動アシスト自転車は高圧水素タンクを搭載するため、現在の法規では公道走行ができませんが、安全基準などを自主的に整備して、自転車用としては日本で初となる公道走行実証を行う経済産業大臣の特認を取得しました。現在NEDOの支援を受け公道実証の段階に進んでいます。エノモトの取り組むガス拡散層一体型セパレータは、自動車メーカーなど顧客企業と共同で製品への搭載を目指して研究開発を進めています。メイコーの取り組む静電塗工装置は、小型の燃料電池用の塗工機として既に複数の企業に販売された実績を挙げています。これらの文科省地域イノベプログラムFCyFINE参加の会社には、先に述べた「燃料電池関連産業人材養成講座」に10人を超えるレベルでトップからエンジニアまでが講座を修了されており、まさに「人は石垣」を実践されています。
また、このFCyFINE事業で構築した水素・燃料電池の産業化の流れを一層加速して、多くの関連する企業が集まり、それぞれが持つ固有の課題を連携して解決を図るために、一般社団法人「FCyFINE PLUS」(エフシーファインプラスと読みます)を2022年12月に設立しました。2023年1月現在、団体正会員23社、個人正会員3人、アドバイザー3団体、オブザーバー5団体の参画を得て、具体的なWG活動を通じて、各企業の持つ固有の技術や資源を生かして、水素・燃料電池関連産業へ参入する障壁を連携して突破するための活動を進めています。
図5 水素社会実現のための一般社団法人FCyFINE PLUS
燃料電池を用いた製品の産業化を図る際にいつも問題となるのは、「燃料となる水素はだれからどのように安定的に供給されるのか?」という問いです。その点、山梨県は全国でも例のない恵まれた環境にあります。山梨県企業局は、米倉山の太陽光エネルギーを用いた水電解で水素(グリーン水素)を製造し、県内の企業に配送し、工場の電力や熱として利活用して、製造工程などでの脱炭素化を支援する取り組みを行っています。その米倉山に、小型の水素ボンベに充填できる専用の出荷設備を設置いただき、そこでFC自転車や非常用のFC電源用の小型水素ボンベに水素を充填(じゅうてん)することが可能になっています。日本でも現在唯一ともいえる能力を山梨県が持っているといえます。今後、小型の燃料電池を用いたさまざまな産業化の際に水素インフラとして大いに活用することが期待されます。
5.今後の展望
水素・燃料電池の技術水準は、すでに産業化が可能になるレベルに到達しています。これは基本的で大事なレベル認識と思います。さらには、昨今、部品や素材を作る際や購入する際に脱炭素化が求められるようになってきています。この脱炭素化にはグリーン水素の利活用が大変有効です。このように、技術水準と脱炭素化の二つの観点から水素・燃料電池分野での産業化の期待が顕在化しています。これまでは経済的に燃料電池の部品や材料および水素のコストが高くて事業化には見合わないとか、水素供給サプライチェーンそのものが脆弱(ぜいじゃく)で安定供給が見込めない、といった見方が多かったと思います。しかしながらそれを温暖化防止とエネルギーセキュリティーの両者の観点から、早急にしかも強い意志をもって産業化を進めようとする動きが海外、特に欧州で生まれ、その流れが全世界に大きくうねっています。たとえば欧州では必要とするグリーン水素を製造するために、現在の水電解メーカーの生産能力の10倍以上に相当するような水電解装置の導入計画が打ち出されています。このような海外の流れを我が国においてもぜひとも強くしたいところです。その流れの技術的な支援をして脱炭素の実現に貢献したいと願っています。
燃料電池の素材や部材のコストはまだまだ高いレベルにありますが、産業化の第一歩として、バッテリーではできない分野に進出することが有効ではないでしょうか。先に挙げたFC電動アシスト自転車も、レンタサイクルという事業者側からみると、バッテリーでは交換頻度が高く事業がしにくいという課題がありました。ドローンにおいても、バッテリーを複数用意して頻繁に取り換えて運転しているのが実態で、長時間連続運転が切望されています。
山梨は、水素・燃料電池分野の産業成長を推進する山梨県庁、グリーン水素を供給する企業局、そして技術面の山梨大学の存在がある大変恵まれた県といえます。令和6年4月からは、山梨大学の工学部が改組され、「クリーンエネルギー化学コース」が新設されます。水素・燃料電池分野を学部から大学院まで一貫して学ぶことができるようになり、新たな社会に貢献できる工学系人材の育成が期待されます。このような山梨の持つ他にはない利点を最大限に活用して、新しい分野で世界を市場とする産業化・事業化に、若い起業家たちが果敢に挑戦することを願っています。