Vol.296-1 インクルーシブ教育が目ざす地平と現在地
国立大学法人山梨大学 教育学部 障害児教育講座 教授
インクルーシブ教育システム推進連携会議(山梨県教育委員会) 座長
山梨県社会福祉審議会 委員長職務代理者 古屋 義博
1.「インクルーシブ教育」の理念と現実
「インクルーシブ教育」が目ざす地平、すなわちその理念を確認した上で、その理念から逆の方向に歩んでいるのかもしれない現在地、すなわち現実を紹介します。なお、「インクルーシブ」は「包摂的な」と訳されることもありますが、一般的にはカタカナ表記が多いようです。
(1)「インクルーシブ教育」という用語の意味
「インクルーシブ教育」という用語の意味は、2006年12月13日に国連総会で採択された障害者権利条約第24条に以下のように示されています。
※下線は筆者。 |
障害の有無にかかわらず、すべての子どもが「自己の生活する地域社会」で質の高い初等中等教育を受けることができるということです。特別な教育的ニーズを有する場合には、個々の子どもが必要とする「合理的配慮」が提供されます。「合理的配慮」の意味については後述します。
(2)理念と現実との隔たり:特別支援学校や特別支援学級の児童生徒数の増加
特別の学校や特別の学級で教育を受ける全国の児童生徒数の推移を次の図に示します。
少子化が進んでいるにもかかわらず、「自己の生活する地域社会」、つまり自身の居住地から距離的に遠いことの多い「特別支援学校」に在籍する児童生徒数は増加し続けています。なお、山梨県の場合は、2017年度に増加は止まり、横ばい状態が続いています。「自己の生活する地域社会」に設置された小学校や中学校の中の「通常の学級」ではなく、特別の場である「特別支援学級」に在籍する児童生徒数は著しい増加傾向です。山梨県も同じ傾向です。あくまでも統計上ですが、インクルーシブ教育の理念と現実とが隔たってきていると言えそうです。

https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/tokubetu/1343888.htmより筆者作成
(3)理念と現実とのこの隔たりに対する国連の障害者権利委員会の勧告
2022年9月に国連の障害者権利委員会が日本政府に対して、障害者権利条約にかかわる政策の改善点を勧告しました。教育の分野については、以下のとおりです。
認定NPO法人DPI日本会議ホームページ「全ての人が希望と尊厳をもって暮らせる社会へ」 |
冒頭の「分離された特別な教育をやめる」という表現から始まるすべての指摘には実直さを感じます。この指摘を我々はまずは謙虚に受けとめるべきでしょう。
2.妥当であったはずの制度設計
統計上、インクルーシブ教育の理念と現実との隔たりは否めません。国連の障害者権利委員会の勧告も実直です。それでは、日本の学校教育を含む制度設計に何か問題があったのでしょうか。結論としては、次に示すとおり、妥当であったと思います。
(1)特殊教育から特別支援教育へ
かつては「特殊教育」という名称の制度下に、盲学校、ろう学校、養護学校、特殊学級が設置されていました。特殊教育制度の時代には、障害の種別や程度などに応じて、特別の先生が、特別の場所で、特別の教育を行うことを前提にしていました。
しかし、知的障害や肢体不自由などの障害種別を超えて、あるいは障害の有無を超えて、一人一人の特別な教育的ニーズに柔軟に対応できるような制度にするために、2007年4月に改正学校教育法が施行されました。これによって、「特別支援教育」という名称の制度が名実共に始まりました。それから15年以上が経過しました。
特別支援教育制度を支えるのは改正学校教育法の以下の三つの条文です。
学校教育法 第72条 特別支援学校は,視覚障害者,聴覚障害者,知的障害者,肢体不自由者又は病弱者に対して,幼稚園,小学校,中学校又は高等学校に準ずる教育を施すとともに,障害による学習上又は生活上の困難を克服し自立を図るために必要な知識技能を授けることを目的とする。 ※下線は筆者。 |
旧第72条は改正されて、「盲学校・ろう学校・養護学校」が障害種別を超えた特別支援学校に一本化されました。かつては障害種別に応じた三つの学校が存在していました。この条文の運用については設置者による違いが顕著ですが、山梨県の場合、障害種別ごとの専門性の維持向上などのために、障害種別ごとの特別支援学校の設置を続けています。なお、知的障害と肢体不自由については、特殊教育制度の時代から併置校はあります。
第81条第1項は新設です。小・中学校などでも、特別支援学級設置の有無にかかわらず特別支援教育を実施するというパラダイム・シフト(基調転換)でした。制度上、すべての先生が特別支援教育を担うことになりました。小・中学校などでのインクルーシブ教育の実現です。
第74条も新設です。新設された第81条第1項のより円滑な実現のために、小・中学校などの先生の「要請」に応じて、特別支援学校が「(小・中学校などでの)教育に関し必要な助言又は援助を行う」ことになりました。「センター的機能」と呼ばれます。学校間の連携によって、子どもの多様な教育的ニーズに応じることが目ざされています。このセンター的機能はインクルーシブ教育の実現のための重要な鍵を握っています。
「特殊教育から特別支援教育へ」を目ざした制度変更は、インクルーシブ教育の実現という観点からは妥当であったと言えます。
(2)障害者権利条約批准までの国内法の整備
2006年に国連で採択された障害者権利条約を批准するために、約7年をかけて国内法の整備がなされました。遅過ぎたとの指摘も、ていねいな歩みであったとの指摘もあります。その歩みの概要(年表)を以下に示します。
学校教育については、就学制度を規定している学校教育法施行令が改正されました。「障害を有する子どもは特別支援学校へ」という原則が、例外として扱われるようになりました。つまり、「障害の有無にかかわらず、すべての子どもが、自己の生活する地域社会に設置された小・中学校などへ」が原則になりました。これも画期的なパラダイム・シフト(基調転換)でした。現在は、市町村教育委員会が、その子どもとその保護者の意見、その子どもの障害の状態や教育上必要な支援の内容、地域の教育の体制や整備の状況などを総合的に勘案した上で、特別支援学校に就学させることが適当であると認めなければ、特別支援学校就学者にはなれません。
このように、就学制度の大転換を含む国内法の整備も、インクルーシブ教育の実現という観点からは妥当であったと言えます。
3.「自己の生活する地域社会」の小・中学校などでのインクルーシブ教育:通級による指導
「自己の生活する地域社会」の小・中学校の「通常の学級」在籍者に、必要に応じて、特別の教育を提供する仕組みとして、いわゆる通級指導教室、または通級による指導があります。インクルーシブ教育という視点からこの仕組みについて考えてみます。
(1)増える通級指導教室
通級による指導は、以下に示す学校教育法施行規則第140条を根拠にしています。条文中に「特別支援学級の児童及び生徒を除く」と記されているように、「通常の学級」在籍者が対象です。特別支援学級の子どもや知的障害を有する子どもが除外されていることについてはさまざまな議論があることを付け加えておきます。
学校教育法施行規則第140条 小学校,中学校,義務教育学校,高等学校又は中等教育学校において,次の各号のいずれかに該当する児童又は生徒(特別支援学級の児童及び生徒を除く。)のうち当該障害に応じた特別の指導を行う必要があるものを教育する場合には,文部科学大臣が別に定めるところにより,…略…の規定にかかわらず,特別の教育課程によることができる。 一 言語障害者 二 自閉症者 三 情緒障害者 四 弱視者 五 難聴者 六 学習障害者 七 注意欠陥多動性障害者 八 その他障害のある者で,この条の規定により特別の教育課程による教育を行うことが適当なもの ※下線は筆者。 |
制度としては、1993年に始まり、2006年に「注意欠陥多動性障害」と「学習障害」が対象となり、「情緒障害」に含まれるとされていた「自閉症」が明示されるようになりました。
「自己の生活する地域社会」の小・中学校の通常の学級で学びを続け、週1から8単位時間(学習障害者と注意欠陥多動性障害者の場合は月1単位時間から週8単位時間)程度、「特別の教育課程」で学べる仕組みです。インクルーシブ教育を実現する一つの手段になるとされています。
ただ、通常の学級で日常的に「個人に必要とされる合理的配慮が提供」されれば、その通常の学級から離れて、「特別の場」で「特別の教育課程」で学ぶ必要がない児童生徒が一定程度いるのではないかと思います。
以下の図に示したように、全国的に、自閉症者や注意欠陥多動性障害者、学習障害者として通級による指導を受けている児童生徒は増加しています。山梨県でも同じ傾向(2023日1月28日付け山梨日日新聞)です。なお、量的な拡大に質的な充実が伴っているかどうかについては、慎重に検討すべきことと考えています。
条文中に一般の人には馴染みのない語句「特別の教育課程」がありますが、その解説はここでは割愛します。参考までに、筆者が所属する山梨大学に設置されている教職大学院で、筆者は「特別の教育課程」という名称の授業(2単位)を単独担当しています。

https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/tokubetu/1343888.htmより筆者作成

4.インクルーシブ教育を実現するための戦略
インクルーシブ教育の理念と現実との隔たりを解消するには、制度設計というより、それを動かす「人」に依存していると思っています。先に解説したとおり、インクルーシブ教育を実現するための制度設計は妥当と思われるからです。
最後に、インクルーシブ教育の実現に向けて、我々が迷うことなく着実に歩みを進めるためのいくつかの提案をします。
(1)「合理的配慮」という日本語訳のイメージから離れる
冒頭に記した「個人に必要とされる合理的配慮が提供されること」の「合理的配慮」という用語は、障害者権利条約第2条に以下のように定義されています。
「合理的配慮」とは,障害者が他の者との平等を基礎として全ての人権及び基本的自由を享有し,又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって,特定の場合において必要とされるものであり,かつ,均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう。 ※下線は筆者。 |
英文表記は、[reasonable accommodation]です。
「合理的」と訳されてしまった[reasonable]という表現はどのようなときに使うでしょうか。買い物で、「価格の割におおむねよい品質。ほどよい満足感。」という際に使うことがあります。「もっともな」や「ほどよい」「まあまあの」などの意味があります。
「配慮」と訳されてしまった[accommodation]は日常、あまり使わないかもしれません。鉄道マニア向けの雑誌をたまたま読んでいたときに、目にしました。首都圏で活躍していた車輌を地方路線が譲り受ける際に、その地方路線に適合させるためにその車輌の仕様について「必要かつ適当な変更及び調整」をするという意味のようでした。「調整」や「順応」「調停」などの意味があります。
「配慮」という表現を聞いて何をイメージしますか。優位な立場の人が他者に何かを提供するというイメージはないでしょうか。配慮する側と配慮される側との間に上下関係がイメージされます。
「合理的配慮」は誤訳である、とまでは言いませんが、別の訳があったのではないかと思います。
さまざまな日常生活場面や人生局面で制約あるいは生きにくさを感じていると表明した人と、その表明を聞いた周囲の人(機関)が、対等な立場で話し合いを行い、[reasonable]、つまり双方がおおむね満足できる[accommodation]、つまり「必要かつ適当な変更及び調整」を速やかに見いだし、その制約を極力軽減させます。その後も、双方が対等な立場で話し合いを行い、その「変更及び調整」を必要に応じて見直していくという意味です。
要は、障害者権利条約第2条の趣旨を我々が常に確認し続けることが肝要ということです。
(2)目ざす地平を絶えず確認する
先日(2023年2月8日)、山梨県教育委員会が設置している「インクルーシブ教育システム推進連携会議」が開催されました。設置目的や構成員などは、以下のとおりです。
インクルーシブ教育システム推進連携会議開催要綱 (趣旨) (意見を求める事項)
(構成員) …以下,略… |
山梨県でのインクルーシブ教育の推進に関しては、この要綱が示すとおり、検討事項は多岐にわたります。第2条(6)については、28事業もの取り組みが検討されました。目先の案件があまりに多く、差しあたりの問題解決に傾注してしまうと、目ざすべき地平を見失います。そこで、この会議の冒頭、座長として以下のような挨拶をしました。
委員のみなさま,あらためまして,こんにちは。 お気づきの通り,みなさまのお手元には資料がたくさんあります。具体的な施策や取り組みも多岐にわたっています。そこで気をつけなければならないことがあると思います。 各施策という要素,パーツを,対症療法的に,あるいは短期的視点で検討することに没頭するのではなく,中長期的な視点で,10年後,20年後の特別支援教育のあるべき姿を見据えて,各施策・各パーツが共通して,いったい,どこに向かおうとしているのかを念頭に置くことが重要です。 では,我々はどこに向かおうとしているのでしょうか。この会議の名称の通りです。学校教育のあらゆる場所・場面でのソーシャルインクルージョン,子どもたちの多様性を包み込む教育,分離を前提にしない学校教育,子どもの個別具体的な教育的ニーズをしなやかに受けとめられる学校教育の実現です。その理想・理念を共有しながら,各施策や取り組みについて検討しましょう。 |
筆者が所属する大学を含めた多くの機関や組織でますます目に見える成果が求められています。目先の問題解決を強要されることが増えています。「やっている感」という表現でもよいのでしょうか、エビデンスづくり、アリバイづくり、という表現でもよいのかもしれませんが、そのような類いの業務に忙殺され、消耗することもあります。そして、本来業務から離れていくことに無自覚になってしまいます。さまざまな局面で生じている、そのような消耗に自覚的であることが肝要と思います。
学校教育について目ざすものは、インクルーシブ教育の実現です。
(3)質の高い教員養成や研修を地味に続ける
文部科学省の調査結果(以下の図)のとおり、特別支援学校の先生の全員が特別支援学校教諭免許状を保有しているわけではありません。

https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/tokubetu/material/1406456_00010.htmより(一部改変)
小・中学校などでのインクルーシブ教育を支えてほしい特別支援学級の学級担任には特別支援学校教諭免許状は必須ではありません。しかし、専門性を担保するには、保有した方がよいとされています。文部科学省の調査結果(以下の表)によれば、保有率は30%程度での横ばいが続いています。

https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/tokubetu/material/1406456_00010.htmより(一部改変)
文部科学省に設置された第三者機関、中央教育審議会が平成27(2015)年12月21日に「これからの学校教育を担う教員の資質能力の向上について」という答申を公表しました。このような現状にかかわり次のような指摘をしています。
教育職員免許法附則第16項の廃止も見据え,平成32年度までの間に,おおむね全ての特別支援学校の教員が免許状を所持することを目指し,国が必要な支援を行うことが適当である。集中的に所持率の向上を図るためには,都道府県教育委員会等,学校設置者における特別支援学校の教員の採用や配置,研修等を通じた取組を求めるとともに,国においても,現職教員に対する免許法認定講習の開設支援や,独立行政法人国立特別支援教育総合研究所による免許法認定通信教育の実施,養成段階での免許状取得促進等の取組を進めることが考えられる。 また,小中学校の特別支援学級や通級による指導の担当教員は,教育職員免許法上特別支援学校教諭免許状の所持は必要とされていないが,特別支援学級等での指導のみにとどまらず,小中学校における特別支援教育の重要な担い手であり,その専門性が校内の他の教員に与える影響も極めて大きい。そのため,小中学校の特別支援学級担任の所持率も現状の2倍程度を目標として,特別支援学校教諭免許状の取得を進めることが期待される。(p.54-55) ※下線は筆者。 |
これからの学校教育を担う教員の資質能力の向上について~学び合い、高め合う教員育成コミュニティの構築に向けて~(答申)(中教審第184号)
https://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2016/01/13/1365896_01.pdfより
答申の中にある「平成32年度(2020年度)までの間に」とされた数値目標は未達どころか、達成の見通しも不透明です。インクルーシブ教育の担い手不足が続いています。
免許保有率を上げるために奇をてらったようなことや、目に見える新しい事業を立ち上げても、中期的にはうまくいかないと思います。またぞろ「やっている感」演出で消耗するだけです。
地道な教員養成を各大学が、地道な教育職員免許法認定講習会を都道府県教育委員会が、自発的な研修を一人一人の先生が、より誠実に続ける。急がば回れ。そのことが結果的に中央教育審議会の示す数値目標の早期達成へと繋がり、インクルーシブ教育が目ざす地平を見すえた着実な歩みになると思います。
(4)短期・集中的に特別支援教育を専門的に学べる教育機関を利用する
2023年2月10日の山梨日日新聞に「教師の魅力アピール」という記事が掲載されました。教育現場も人手不足が続いています。そこで、「ペーパーティーチャー」を対象に研修会を実施して、各学校の先生になってもらうことをねらった山梨県教育委員会の取り組みです。


この記事で紹介されている研修の趣旨に通じる「リスキリング(学び直し)」の場の選択肢として、山梨大学に設置されている修業年限1年の特別支援学校教員養成課程「特別支援教育特別専攻科」への入学をお勧めします。パンフレットや授業等の風景も以下に紹介します。
インクルーシブ教育が目ざす地平、子どもの発達や教育の在り方、そして教職の魅力について、一緒に語り合いましょう。実用的な発達援助技術も習得できます。小・中学校などでの質の高いインクルーシブ教育を支えるリーダーを、これまでのように育てることが筆者の本来業務と再自覚して、それに専念します。

