Vol.299 利他と豊かさ
公益財団法人山梨総合研究所 理事長 今井 久
はじめに
山梨総合研究所は、2022年12月、書籍『山梨ならではの豊かさ~地方が注目される時代へ~』をぎょうせいから出版した。[1] 私は執筆の一部と編集に関わったが、日本の一地方である「山梨県」の特徴ある地域資源に注目し、それらと豊かさを関連付け、山梨県の豊かさとどのような関係にあるのかを模索した。山梨県に住んでいる人には、山梨県ならではの豊かさを再認識してほしいと思い、山梨県以外の人には、自分の住んでいる地域の特徴ある資源、そしてそれらによってもたらされている豊かさを考える一助になることを期待した。
出版後、豊かさとは何か、山梨県における豊かさについてさらに興味を持つようになった。そして、山梨県に限ったことではないが、豊かさは「利他」という概念に影響されているという思いを抱くようになった。利他に関心を持ったのは、2020年、東京工業大学に科学者や技術者ではなくリベラルアーツ系の研究者が集められ設立された「未来の人類研究センター」の最初の研究テーマが「利他」であったからである。
なぜ東京工業大学にと思われる人も少なくないだろうが、理工系の大学ならではの問題意識からであった。これまで発展し続けてきた科学技術が人間にもたらす変化や守るべき価値等について、多角的に研究することが必要だと考えたからである。
現代は競争社会とも言われている。数値に置き換え可能なものばかりが評価され、そうでないものは切り捨てられる傾向にある。殺伐とした世の中だからこそ、利他という視点が重要だと考えた。自分のためではなく、他人のために行動する。一見不合理に思える考えに、未来の人類のヒントがあるのではないだろうか。
ここでは、利他と『山梨ならではの豊かさ~地方が注目される時代へ~』のテーマでもある「豊かさ」の関係について考えていく。
1.利他とは
利他とは、他人の利益や幸福を追求し、自己の利益や欲求よりも優先するという概念である。簡単に言うと、「自分のことよりも他の人のために尽くすこと」であり、仏教用語としては、「よい行いや利益になることをほどこして人々を救う」という意味もある。
利他主義は、個人の利益や欲求を超えて、他者の幸福や利益の追求を重視する道徳的な態度や哲学的な立場を表している。利他主義は、さまざまな文化や宗教において重要な価値観とされている。一般的には、他者に対する思いやりや優しさ、共感、協力、寛容などが利他主義の基本的な要素とされている。利他主義を実践する人々は自分自身だけでなく、他の人々や社会全体の利益や幸福を考え、そのために行動している。
利他主義は、慈善活動やボランティア活動、社会的な責任の追求など、さまざまな形で現れることがある。また、個人レベルだけでなく、社会や国家の政策や制度においても利他主義の考え方を取り入れることがある。
利他主義の背景には、他者への思いやりや協力が社会全体の繁栄や幸福につながるという考えがある。他者の利益や幸福が自分の利益や幸福と密接に結びついていると考えるため、自己中心的な考え方や行動よりも利他的な態度を取ることが自分自身の幸福を得る上でも重要だとされている。
その意味で、利他主義は個人の利益を完全に無視するものではない。むしろ、利他主義は、他者の利益を重視しながらも、自己の利益を追求する方法や、自己の幸福を追求しながら他者の幸福も促進する方法を見つけることも含んでいる。よって、自己の利益と他者の利益をバランスさせることも重要である。
また、利他的な行動は、社会の結束や共同生活の円滑さに貢献するだけでなく、個人の幸福感や心理的な充足感にも関連している。他者に善意を示すことで、自己の成長や幸福感を高めることができるとされている。
世の中には、まわりの人のことをかえりみず、自分中心の考えを持つ人が意外と多いのも事実である。利他の心を持つことで、相手を思いやることができる。そうすると、まわりとの関係性も良くなり、忙しい時や困った時にはお互いが協力し合えるようになる。利他は人間関係や社会の健全な機能に重要な要素であり、社会的な共同体の発展や個人の成長において重要な役割を果たすと考えられている。
2.利他と仏教
利他の概念は、人類の歴史の中でさまざまな文化や宗教を通じて発展してきた。ここでは、宗教の中でも日本に最も影響を及ぼしてきたひとつである仏教との関係を考える。
日本で利他という言葉を初めて使ったのは、平安時代における真言宗の開祖、空海だと言われている。[2] 本来、利他と仏教の関係は非常に深いものであり、仏教の教えの中心的な要素の一つとして位置付けられている。仏教は、人々を苦しみから解放し、真の幸せを追求するための教えである。その中で、利他的な思考と行動は重要な役割を果たしている。
仏教の教えでは、「慈悲心(じひしん)」や「慈愛(じあい)」といった概念が利他的な心の基盤とされている。仏教の教えによると、私たちは全ての存在が互いにつながり合っているという「縁起(えんぎ)」の法則に従って生きており、他者の幸せや苦しみは自分自身のものとして捉えるべきだとされている。
仏教の教えに従って修行することで、自己中心的な執着や欲望から解放され、他者の利益や幸福に対する思いやりが生まれるとされている。利他的な心を育むことは、自己の苦しみを減らし、他者の苦しみを軽減することにつながるとされている。
さらに、仏教の教えの一つである「菩提心(ぼだいしん)」も、利他的な心の具現化とも言える。菩提心とは、すべての人々が仏果(悟りや解脱)を得ることを願い、そのために自己を犠牲にして他者を救済する心である。仏教の修行者は、菩提心を持ちながら利他的な行動を実践し、他者を救うために努力している。
仏教の教えは、利他的な行動や思考を通じて自己の成長や解脱を追求することと密接に結びついている。他者への思いやりや善行を通じて、自己の執着や無明を超越し、悟りや解脱を開くことが目的とされている。利他的な心は仏教の実践者にとって不可欠な要素であり、救済の道を歩む上で重要な役割を果たしているといえる。
現代の日本では、ボランティアや慈善活動などの社会奉仕活動がさまざまな形で行われている。これらは、仏教における慈悲心や慈愛に関係している。地域の支援、災害救援、更には環境保護などの分野における社会奉仕活動は、仏教の教えに由来した利他的な取り組みであると考えられる。
3.利他と豊かさ
豊かさはどのように測定できるのだろうか。そもそも、豊かさとは何だろうか。一つの指標として「主観的幸福感(subjective well-being: SWB)」がある。これまで、世界各国で、利他的な行動をする人はSWBが高いことが報告されている。
例えば、「募金・寄付」や「席を譲る」といった利他的行動は、SWBと有意な正の相関を示している。[3] また、対象別利他的尺度を用いた研究では、利他的行動の頻度が高いほどSWBが高いことが報告されている。[4] 更には、利他的な行動はソーシャルキャピタルを醸成させ、そのことによってウェルビーイングが高まることも報告されている。[5]
ただ、利他的な行動が個人の主観的幸福度を上げている可能性もあれば、SWBが高いために利他的な行動をする可能性も否めない。この因果関係を捉えるために、世界ではさまざまな研究が行われ、利他的な行動はSWBを高めるという因果関係の可能性も報告されてきている。[6]
それでは、どのような理由で利他的な行動が自己のSWBの向上につながるのだろうか。一つには、利他的な行動に伴う「心理的報酬」の体験にあると言われている。利他的な行動は、他者を支援し喜びを与えることで、自己の心理的な豊かさをもたらすことがある。つまり、他者に尽くすことや思いやりの行動は、自尊心や幸福感を高め、内的な充足感をもたらすと考えられる。
その他にも、「互恵的利他主義」の理論も考えられる。互恵的利他主義とは、あとで見返りがあると期待されるために、他人の利益になる行為を即座の見返りを考えないでとる利他的行動の一種である。
これらの理由によってもたらされる利他的行動だが、様々な面で社会にプラスに働くと考えられる。例えば、社会的なつながりが構築され、豊かな人間関係を促進することにつながる。他者との協力や共同作業を通じて、信頼や絆が深まり、豊かな社会的なネットワークが形成される。これにより、孤立感の軽減やサポートの提供を受けるなどの社会的な利益がもたらされる。
また、生活の質も向上するであろう。利他的な行動は、他者の福祉や幸福を追求することを意味する。他者のために奉仕することや善行を行うことは、自己満足感や意味のある生活感を醸成することにつながる。自己の幸福だけでなく、他者の幸福に寄与することで、より豊かな人生の質を得ることができる。
更には、利他的な行動は社会全体の発展や福祉にも寄与している。社会的な課題への取り組みや共同の利益を追求することで、社会的な変革や改善がもたらされる。社会的な不平等や困難な状況への対処において、利他的な行動は社会の持続可能な発展を促進する重要な要素となる。
以上のように、利他的な行動は、個人の心理的な充足感や幸福感の向上といった自己の豊かさを増大させるだけではなく、社会的なつながり、生活の質、社会的の持続的な発展といった社会全体としての豊かさをもたらすといえる。
4.『山梨ならではの豊かさ~地方が注目される時代へ~』を利他で考える
ここでは、『山梨ならではの豊かさ~地方が注目される時代へ~』の中の、第1章(エコロジカル・フットプリント)、及び第2章(健康寿命)に関して、利他との関係を考えていく。
(1)第1章 「持続可能な社会」のフロントランナーへ~山梨県エコロジカル・フットプリント国内最小~
エコロジカル・フットプリントは、人間の活動が自然環境に与える影響を計測する指標である。具体的には、我々が生活するうえで必要なものを作ったり、廃棄物を吸収したりするのに必要な陸地と水域の面積を、グローバル・ヘクタール(gha)という独自の単位で表している。たとえば、コメを生産するのに使う耕作地、木材や紙などを作るときに使う森林、魚介類などを採取するときの海洋、肉類などの生産に使う牧草地、石油石炭の利用などで排出される二酸化炭素を吸収するのに必要な森林など、それぞれの面積を算出する。
一方、地球の供給する力の指標は、バイオキャパシティ(生物生産力)である。森林や海洋は動植物を育み、また大気中の二酸化炭素を吸収する能力がある。これらを土地と海洋の面積として数値にして表している。こちらも、グローバル・ヘクタール(gha)で表される。
日本の1人当たりエコロジカル・フットプリントは4.74 ghaであり、世界の1 人当たりバイオキャパシティは1.68 ghaである。日本の1人当たりエコロジカル・フットプリントは、世界の1人当たりバイオキャパシティに比べて2.8倍である。これは、もし世界の人々が日本と同じ暮らしをしたら、地球が2.8個必要になる、と言い換えることができる。また、世界平均の1人当たりエコロジカル・フットプリントは2.84 ghaであり、日本は世界平均よりも67%多くなっている。これは、日本の消費が世界平均と比べて67%大きいことを示している。
都道府県別にみると、1人当たりエコロジカル・フットプリントが最も低かったのは山梨県で 4.06 ghaであった。最も高かった東京都 (5.24 gha)よりも29.1%小さく、また日本平均(4.74gha)と比べて16.7%小さい。また、家計消費の内訳は、主なものは食料27%、住居・光熱27%、交通21%であり、この割合は、全国の平均とほぼ同じであった。
山梨県の食料、住居・光熱、交通のエコロジカル・フットプリントの大きさを、それぞれ他県と比べると、食は全国で5番目に低く、最も高い東京都の80.0%、住居・光熱は全国で9番目に低く、最も高い沖縄県の72.4%、交通は全国で6番目に低く、最も高い栃木県の73.6%であった。
山梨県は、食、住居・光熱、交通の消費エコロジカル・フットプリントのうち、どれかひとつが突出して低いのではなく、3項目がどれも低いレベルにあり、総合でエコロジカル・フットプリントが全国最小となったことがわかる。
山梨県のエコロジカル・フットプリントが低い理由としては、様々な要因が考えられるが、ここでは食における消費額の低さを考えてみたい。山梨県には「おすそ分け」の習慣があり、山梨県の特産物でもあるモモやブドウを農家の方からいただくことは、山梨県では結構当たり前のことである。また、野菜に関しても、おすそ分けでいただくケースは少なくない。もちろん、おすそ分けは山梨県に限ったことではなく、地方では普通に行われていることであるが、山梨県でのこの習慣が、山梨県の食の消費額を抑えている可能性は考えられる。
おすそ分けは、一部を自分が使う代わりに他人に分け与える行為であり、利他的な行動の一形態として捉えることができる。おすそ分けは他人に喜びや恩恵を提供することを目指している。そして、利他的な行動は、他人のニーズや利益を考慮し、善意や思いやりの心をもって行動することを意味する。
このように、おすそ分けは利他的な行動の一形態であり、他人に喜びや利益を提供する行為である。利他的な行動は他人への思いやりや支援を表す態度であり、社会的なつながりと幸福感の向上に寄与するとされている。
おすそ分けが山梨県の低いエコロジカル・フットプリントの理由の一つであることはまだ仮説ではあるが、今後、山梨県の食文化や暮らし方などライフスタイルを詳しく調べることによりその特徴や背景を理解できれば、エコロジカル・フットプリントをさらに抑える方法が展開できる。
(2)第2章 健康寿命日本一の山梨~それを支える無尽という人のつながり~
「行動するシンクタンク 21世紀 do tank 発」は、毎日新聞の山梨・長野・静岡版に掲載されているコラムである。このコラムは、月に2回のペースで、山梨総合研究所の研究員が持ち回りで担当している。2023年5月28日発行の紙面に、「利他と健康寿命」というタイトルでコラムを書かせていただいた。その内容は以下の通りである。[7]
都道府県別の健康寿命が最初に報告されたのが1999年であり、山梨県は男女とも、日本のトップクラスであることが示された。その後も上位に位置し続けている。2003年には「健康寿命実態調査分析研究会」が設置され、私も研究員の一人として加わった。
山梨県の健康寿命が高い理由の一つとして、無尽に見られるような、人と人との繋がりが報告された。キーワードは「ソーシャルキャピタル」である。ソーシャルキャピタルとは、「社会や地域における、人々の信頼関係・結びつき」を意味する概念である。
これまで、ソーシャルキャピタルと健康との関係は数多く報告されている。様々な指標でソーシャルキャピタルを捉えているが、その一つに「周りにケアしてくれる人がいる」という項目がある。周りにケアしてくれる人がいるということは、健康への有意な影響が報告されている。そしてもう一つ、「周りにケアする人がいる」という項目も、健康への有意な影響を示しているのである。
他人をケアするということは「利他」の考えに通ずるものであろう。その考えや行動が、無尽に見られるような山梨県独自のソーシャルキャピタルに裏付けされているとするならば、利他も山梨県における健康寿命の高さの理由と考えられる。こちらもまだ仮説の段階ではあるが、今後検証していきたいと考えている。
5.結びにかえて
これまで、利他と何か、利他と仏教との関係、そして利他と豊かさとの関係を考え、最後に、『山梨ならではの豊かさ~地方が注目される時代へ~』の内容を、利他という切り口で分析してみた。
利他という概念が豊かさに繋がっていることは否定できないことであり、山梨県における豊かさも、利他という考えに影響されている可能性が示唆された。また、一般的に、利他的な行動が社会にとって必要であることは理解されている。しかし、自戒の念を込めて言うと、自ら行動に移せる人はまだまだ少ないのが現状ではないだろうか。
社会が豊かになるためには、利他の考えが社会において醸成される必要がある。これまでも、教育や宗教等でその必要性は問われてきたが、今まで通りの方法で、急に醸成が進むとは考えにくい。そんな中、「効率的な利他主義」という新しい概念が議論されてきている。その第一人者でもある哲学者のウィリアム・マッカスキルは以下のように説明している。
「効率的な利他主義」は「効率的」と「利他的」という二つの要素から成り立っている。利他主義とは、単純に他の人の生活を向上させるという意味である。一方、効率的とは手持ちの原資でできるかぎりの良いことを行うという意味である。単に世の中をより良くするとか、ある程度良いことを行うのではなく、できる限りの影響を及ぼすことが目標となる。抽象的な目標から、具体的な目標への転換である。[8] [9] [10]
そんなに多くの資産を持っていなくても、自分のできる範囲で行う利他主義であり、その際に最大の効果を目指すといったものである。費用対効果という考えを利他主義に取り入れたものである。例えば、慈善団体の費用対効果を調べ発表するといったことが挙げられる。人々はその結果を見て、自分の可能な額を費用対効果の高いと思われる慈善団体に寄付する。これも新しい利他的な行動である。個人的には、利他における費用対効果に関しては、手放しで賛成できかねる面はあるが、利他的な行動を世の中に広めていくための一つの方法かもしれない。
今後、様々な方法が考えられていくであろうが、利他的な行動が世の中で醸成され、それによって豊かさが増してくる社会になっていくことを期待しているし、自分自身もそのように行動しなければならないと肝に銘じている。
参考文献
[1] 今井久・公益財団法人山梨総合研究所(2022)『山梨ならではの豊かさ~地方が注目される時代へ~』, ぎょうせい
[2] 若松英輔(2022)『はじめての利他学』, NHK出版
[3] 佐々木健吾「行動や習慣が主観的幸福度に与える影響」, 名古屋学院大学論集 社会科学篇, 第 49 巻 第 3 号, pp. 27-42
[4] 大熊尚広, 山根隆史「利他行動が行為者の主観的幸福感に与える影響-利他行動の対象による違いー」, Journal of Human Environmental Studies, Volume 14, Number2, 2016
[5] 岩﨑 敬子(2022)「利他的行動とソーシャル・キャピタル」, 家庭科資料68号, ニッセイ基礎研究所
[6] 岩﨑敬子(2021)「他人の幸せの為に行動すると,幸せになれるのか?―利他的行動の幸福度への影響の実験による検証―」, 基礎研究レポート, ニッセイ基礎研究所
[7] 行動するシンクタンク 21世紀 do tank 発「利他と健康寿命」, 毎日新聞山梨版, 2023年5月28日, 朝刊
[8] ピーター・シンガー(2015)『あなたが世界のためにできるたったひとつのこと』, NHK出版
[9] ウィリアム・マッカスキル(2018)『〈効率的な利他主義〉宣言!』, みすず書房
[10] 中島岳志(2021)『思いがけず利他』, ミシマ社