ブックタイトル山梨発の地方創生に向けて 公益財団法人山梨総合研究所 創立20周年記念誌

ページ
24/110

このページは 山梨発の地方創生に向けて 公益財団法人山梨総合研究所 創立20周年記念誌 の電子ブックに掲載されている24ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

山梨発の地方創生に向けて 公益財団法人山梨総合研究所 創立20周年記念誌

20th Anniversary19「俳句の聖地」としての発信力?地方創生の一つの形?山廬文化振興会 理事長 飯田 秀實2017 年3月、笛吹市境川町の俳人飯田蛇笏、飯田龍太の居宅「山廬」(さんろ)の一角に二階建ての蔵が復元された。この蔵は「俳諧堂」と命名されている。ここは今「俳句の聖地」と呼ばれている。「芋の露連山影を正うす」「をりとりてはらりとおもきすすきかな」などの俳句で有名な飯田蛇笏は、1985年(明治18年)東八代郡五成村(現笛吹市境川町)に生まれた。大学時代東京で生活するも、中退し、生家の跡を継ぎ1962 年77 歳で没するまで、生家「山廬」で俳句を発表し、俳誌「雲母」を主宰した。山梨の山村にあって日本の俳壇の重鎮として活躍した。その四男、龍太も戦争による数々の悲劇のあと、境川を生活の拠点と決め、蛇笏没後は「雲母」を主宰した。句集の他、随筆集、評論など数多く出版し、日本芸術院恩賜賞を受賞、紫綬褒章受章、芸術院会員になっている。そして、1992 年主宰する「雲母」を九百号で終刊することを発表し、大きな反響を呼んだ。蛇笏、龍太親子は大正、昭和、平成の俳壇の中心的存在として活躍し、山梨県の山村に身を置きながら俳壇、文壇で確固たる地位を築いた。こうしたことから二人が生活した居宅山廬は短詩系文学者の間で「俳句の聖地」と呼ばれるようになった。復元された「俳諧堂」は1950 年頃まで山廬主屋の南側に建っていたが、その後解体され近隣の農家で蚕室として使われていた。しかし養蚕業の衰退とともにこの建物も放置されていたことから、所有者の了解を得て、復元を前提に再度解体した。復元と維持のため非営利の法人「山廬文化振興会」を設立した。事業の具体化には地元笛吹市の協力が不可欠であった。合併前の旧境川村が進めていた「俳句の里」を笛吹市は継承し、全国小・中学生俳句会の開催や、国民文化祭俳句大会の開催、さらに「俳句の里づくり推進事業」を立ち上げ、全国に発信しようとしていた。山廬俳諧堂の復元はこの機運と一致したのである。建設資金の助成を議会も全会一致で承認した。残りの資金は全国の俳句愛好者などに呼びかけ寄付を募った。笛吹市文化協会は「俳句の聖地を全国に」と市内の文化団体に呼びかけてくれた。また、県人会も「山梨の文化を全国に」と協力してくれた。山廬は個人住宅のため通常は非公開となっているが、俳諧堂の完成を機に、一般公開日を定め、山廬邸内を開放している。また、特別公開として一日一組限定で山廬を利用できるようにした。山廬は建物の他、竹林、後山(ござん)と呼ばれる裏山があり、蛇笏、龍太の作品の多くはこの中で生まれた。訪れる人はここを散策し、自作の俳句を詠んで俳諧堂の句会に臨む。蛇笏、龍太が生活した環境、自然を体感し、自ら作品を作る。俳人、歌人にとっては憧れの地に身を置き「俳句の聖地」を感じながら創作する喜びに浸る。特別公開は予想以上の反響となっている。「俳句の聖地」の維持と発信は、相反する面を持ち合わせている。聖地を維持するためには、自ずと制限が多くなる。その一方で俳句を中心に山梨の文学を広めるためには情報発信は欠かせない。この中で山廬文化振興会は、「丁寧な説明と、ゆったりした滞在時間」で相反する課題を克服したいと考えている。特別公開では、事前に代表者と打合せを行い、滞在時間は最低一時間半以上予定するよう勧めている。費用は一般公開よりかかるが、訪れた方は十分満足して帰路につく。そして所属する俳句会が発行する雑誌などに、紀行文や、俳句を発表し、山廬がなぜ「俳句の聖地」と呼ばれるか、また、そこで自分たちは多くの作品を詠んだことを明らかにしている。大きなメディアではないが、また短詩系という文学の世界に特化しているが、今いい形で全国に情報が拡散している。