山の向こうへ続く道
毎日新聞No.701【令和7年10月28日発行】
周囲をすべて山に囲まれているというよりはどっちを見ても山、どっちに向かってもすぐ山!という山梨県の風景に関東平野で生まれ育った私は、最初、圧倒されてしまった。山梨県民は、これが落ち着くのだと口をそろえて言うが、見慣れるまではずっと閉鎖的な印象を持ってきた。この閉鎖的とも思える環境の中で、山梨県の人々は、山の向こうの地域とどのようにつながりを持ちながら生活をしてきたのであろうかと思い、人の往来や物の流通に欠かせない道を調べてみることにした。
山梨県には、中世以前から現在の甲府市酒折を起点とする「甲斐九筋」と呼ばれる他州に達する9つの道があった。若彦路、雁坂口など現在もその名前と名残が見られるところもある。
その後、戦国時代にそれらの道は武田信玄により軍用路としても重要視され、さらに整備が進められた。整備された道は、人馬の進軍だけでなく、補給物資の運搬などを含め、戦況を有利に進めることに役立ったと考えられ、周辺地域への侵攻に重要な役割を果たしていたのであろう。
江戸時代には、国の中心が京都から江戸へ移り、甲州が幕府直轄領となったことで、大きく2つの道が発展した。まず、甲斐九筋にはなかった、江戸と信州(塩尻)を結ぶ甲州街道が五街道の1つとして整備され、甲州にも25の宿場町ができたことで、人々の往来が活発になると同時に、様々な特産品の生産が盛んになり、甲州街道を通じて流通した。次に、富士川の開削が行われ、富士川を利用した甲斐と駿河を結ぶ水運「富士川舟運」が開始された。甲州には鰍沢、青柳、黒沢の3つの河岸ができ、信州や甲州からは代表的なものとして年貢米、駿河からは塩などの海産物が運ばれた他に、人々の往来も盛んになった。
明治以降、中央線、身延線、中央自動車道、中部横断自動車道など様々な道が新たに開通し、人や物はより短時間で行き来できるようになった。今後、リニア中央新幹線の開通により、さらなる広がりをみせる可能性がある。時間的な距離が短縮される中で、今後は隣接地域だけでなく、少し離れた地域でも交流やつながりを持ちやすくなっている。今までもこれからも山に囲まれた山梨県にとって、山の向こうへ続く道は外とのつながりを築く大切なものにちがいない。
(公益財団法人 山梨総合研究所 主任研究員 清水 季実子)