「懐かしさ」の意味


毎日新聞No.696【令和7年8月17日発行】

 先日、松本市を訪れた。中町通りや縄手通りには歴史ある蔵造りの建物が軒を連ね、民芸家具が置かれた古い喫茶店に足を踏み入れると、初めて訪れた場所にもかかわらず、なぜか心が安らぐ懐かしさを感じた。以前、山梨で昭和初期の古民家を借りていたが、初めてその家を訪れたときにも、同様の懐かしさや温かさを感じたことを思い出した。

 懐かしさを意味する「ノスタルジア」という言葉は、17世紀に、故郷から離れている人に見られるホームシックの状態を意味する医学用語として使われ始めた。しかし今日では、過去の思い出を懐かしむ感情といった肯定的な意味として使われるのが一般的である。
 こうした懐かしさは、必ずしも自分自身の経験に基づくものとは限らない。心理学では、ノスタルジアを、自分の経験に基づく「個人的ノスタルジア」と、歴史的な知識に基づいて形成される「歴史的ノスタルジア」に分類しているとのこと。古い喫茶店や古民家で感じた懐かしさは、私自身が過去に直接経験していないという意味では、「歴史的ノスタルジア」だろう。一方で、それが過去の記憶を呼び起こし、懐かしさを感じたとするならば、「個人的ノスタルジア」なのかも知れない。「懐かしい」と言っても実に複雑だ。
 近年の「昭和レトロ」ブームにもみられるとおり、過去への懐かしさは、その安心感や親しみやすさを消費行動につなげる「レトロマーケティング」にも応用されている。昭和に対するイメージは、それを直接知る昭和世代だけではなく、若者世代の「エモい」感情を喚起し、幅広い世代の消費行動に結びついている。

 懐かしさは、単に過去を懐かしむ感情だけではない。今日のデジタル技術の発展により、私たちを取り巻く製品やサービスは日々変化し続けている。それらに翻弄される時代だからこそ、「懐かしさ」がもたらす心地よさや安心感は、自らの心の拠り所やアイデンティティを確認する意味でも、必要とされているのではないだろうか。
 1990年代のWindowsの登場や2000年代のスマートフォンの普及は、もはや懐かしい過去の出来事になってしまった。生成AIの波が押し寄せるこの時代は、将来どんな「懐かしさ」を感じさせるのだろうか。

(公益財団法人 山梨総合研究所 調査研究部長 佐藤 文昭