戦国の姫
毎日新聞No.704【令和7年12月7日発行】
甲斐市宇津谷にある史跡「回看塚(みかえりづか)」をご存じだろうか。
1582(天正10)年3月3日、武田勝頼は織田・徳川連合軍の猛攻撃を受け、居城・新府城に火を放ち落ち延びた。既に多くの家臣は離反し、わずかな手勢と身内による武田軍は、一縷の望みをかけて、重臣・小山田信茂の居城・岩殿城(大月市)を目指した。
その途上、塩川を渡り、宇津谷に差し掛かった勝頼の継室・北条夫人は後ろを振り返り、煙の立ち上る新府城を見て、悲しみのあまり歌を詠んだと伝えられている。 「春がすみ たちいづれども いくたびか あとをかへして 三日月の空」
この歌を詠んだ場所には歌碑が建てられ、甲斐市の指定文化財「回看塚」として整備されている。
北条夫人は長篠の戦いの大敗後、相模国・北条氏との同盟強化のため、13歳で武田家に嫁いだ。同盟が破綻した後も武田家に留まり、氏神である武田八幡宮に夫・勝頼と一族の安泰を念じ、また逆臣を糾弾・呪詛する願文を奉納するなど、戦国の姫としての気高さと芯の強さを感じさせる数々の逸話が伝えられている。
歴史探訪の妙味は、ゆかりの場所に赴き、過去の情景やその時代の人々の心の機微を想像することにある。実際、私も「回看塚」がある農道の一角に立ち、新府城跡の方角を眺望しながら、北条夫人の歌を詠んだ心情に想いを巡らせてみた。
早朝の薄暗い空に、三日月が浮かんでいる。月は時のうつろい(=人生の儚さ)の象徴であり、居城から立ち上る煙は春霞のように、その三日月を覆い隠そうとしている。敵が迫りくる中、急いでこの地を去らなければならないが、未練で何度も振り返ってしまう。これは私の勝手な解釈であるが、この歌から伝わる、18歳の姫が抱く不安や葛藤、切実な想いは、400年以上の時を超えて、私の胸を打つ。
この後、小山田信茂に裏切られた武田勝頼は、逃亡の末、3月11日に田野(甲州市)で北条夫人、嫡男・信勝とともに自刃し、名門・武田家は滅亡する。
宇津谷で消えゆく三日月を見上げながら、北条夫人は数日後に訪れる過酷な運命を想像していたであろうか。「たちいづる(立ち出づる)」がこの地ではなく、この世から去ることを意味するのであれば、未練はあるが、いかなる運命も受け入れるという戦国の姫の強い覚悟が、歌に込められているように思えてならない。
(公益財団法人 山梨総合研究所 専務理事 降矢 結城)