不確実な時代を生きる力


山梨日日新聞No.77【令和8年1月5日発行】

 現代社会は先行きが不透明で将来の予測が難しいVUCAの時代と呼ばれている。地政学リスクの不穏な高まりに加え、テクノロジーの急速な進化によって社会構造は大きく変化し、ビジネスをはじめとする様々な場面で、過去のデータやマニュアル、成功体験などが通用しない「正解のない問い」に直面する機会が増えている。

 こうした時代背景の中で、近年注目を集めているのが「ネガティブ・ケイパビリティ」という考え方である。
 これは1817年にイギリスの詩人ジョン・キーツが提唱し、1970年に同国の精神分析医ウィルフレッド・R・ビオンがその重要性を示した概念で「不確実で不可解な状況において、曖昧さや矛盾を受け容れ、すぐに結論を出そうとせず、その状態にとどまり続ける力」と解釈されている。ここでいう「とどまる」とは無責任に問題を先送りしたり、考えることを放棄したりすることではない。むしろ答えのない状況に能動的に向き合い、内省と熟考を重ねることで、新たな視点や創造的な理解にたどり着こうとする姿勢を指している。

 ネガティブ・ケイパビリティは、人間性や創造性が求められる分野において重要な役割を果たす。例えば医療の分野では、患者の症状が必ずしも既存の診断基準に当てはまるとは限らない。医師は「分からない」状態に耐えながら患者と向き合い、慎重に診断を下す必要がある。 
 また教育の分野でも、生徒の理解や成長の速度は一人ひとり異なり、成果が表れるまでに時間がかかることも少なくない。教師が結論を急ぎ、画一的な評価にこだわってしまえば、生徒の内面的な成長の芽を摘んでしまう恐れもある。
 さらに研究・創造の分野では、目的や成果が見えない期間が長期化することも珍しくない。仮説が立たない、方向性が定まらないという不安定な状態に耐えながら試行錯誤を続ける姿勢こそが、既存の枠組みにとらわれない新たな発想やイノベーションの源となる。
 このように「すぐに答えの出ない状況に耐え、深く考えること」そのものが価値を生む領域において、ネガティブ・ケイパビリティは、より責任ある意思決定を支える力となる。

 一方で、インターネット検索やAIの活用によって、私たちは簡単に答えが得られるようになった。その便利な環境は、「正解は必ずどこかにある」という思い込みを助長し、「タイパ」「コスパ」といった言葉に象徴されるように、スピードや効率が過度に重視される風潮を生んでいる。
 ビジネスの現場でも、意思決定に対する「素早さ」「効率の良さ」「わかりやすさ」が求められる場面は多く、確かにそれが評価やキャリアアップに直結するスキルとなっている。
 しかし、迅速さのみを追い求めると、問題の本質や解決の方向性を見誤り、拙速な結論や判断に陥る危険性も高まる。
 ネガティブ・ケイパビリティは、AIによる代替が難しいと考えられており、人間ならではの深い洞察力と創造性を育む思考の土台ともいえる。スピードや効率が重視される時代だからこそ、あえて立ち止まり、曖昧さに耐えながら熟考する姿勢が、判断に厚みと柔軟性をもたらす。
 不確実な時代をしなやかに生き抜き、より本質的で持続的な価値を生み出すために、ネガティブ・ケイパビリティは、これからますます重要な力となるであろう。

(公益財団法人 山梨総合研究所 専務理事 降矢 結城