今年も年賀状を書きました
毎日新聞No.706【令和8年1月11日発行】
ここ数年、「年賀状じまい」という言葉をよく耳にするようになった。高齢や体調、デジタル化、あるいは「これからは無理をせずに」という前向きな理由まで、その背景はさまざまだ。私のところにも、「今年限りで失礼します」という丁寧な言葉とともに、毎年少しずつ枚数が減っていく。ポストに入るはがきの束は確実に薄くなり、社会の変化を静かに物語っている。
年賀状は、かつては義務に近いものとして受け止められていた時代もあった。「書かなければならないもの」「出して当然のもの」。年末の多忙な時期に時間とお金と労力をかけ、へとへとになって郵便局に持ち込んだ際は、大学時代にレポートを締め切りぎりぎりで提出したときのような妙な達成感を覚えたものだ。しかし今は、それを義務としてではなく、「やめるか・続けるか」という選択の対象として、一人ひとりが改めて考える段階にきているのだろう。
それでも、我が家は年賀状を「送る派」である。もちろん、「年賀状じまい」を宣言された方に送ることはしないが、毎年のやり取りが“細く長い縁”として続いている人には、今年も家族全員の写真入り年賀はがきに一枚ずつ宛名を書き、近況や言葉を添え、投函する。年に一度だけ確かめ合うつながりが確かにあるように思うからだ。
メールやSNSなら、もっと手軽に、もっと頻繁に連絡ができる。しかし「いつでも連絡できる関係」は、「わざわざ連絡しない関係」にもなりやすい。年賀状は、不便で、少し面倒で、しかし「今、あなたを思い出している」という行為そのものが可視化された文化だ。相手の名前を書き、住所を確認し、インクのかすれや筆圧まで含めて相手に届く。その手触りは、効率性の対極にある。
人口減少や高齢化、生活の多忙化、合理化――社会全体が「続ける理由」より「やめる理由」を見つけやすくなっている時代である。だからこそ、少しの非効率を抱え込みながら続ける習慣が、人と人の関係を支えることもあるのではないか。年賀状がなくても人間関係は成立する。それでも、ポストに届く一枚の紙が、新年の空気を少しあたためてくれることも、確かにあるように思う。
我が家の年賀状は、今年も静かに旅に出た。来年、何枚戻ってくるだろうか。それを確かめる楽しみを、もう少しだけ手放さずにいたいと思う。
(公益財団法人 山梨総合研究所 主任研究員 渡辺 たま緒)