「自分らしさ」に必要なこと


山梨日日新聞No.65【令和7年6月2日発行】

 1990年代以降、「自分らしく生きたい」「自分の価値観を大切にしたい」といった言葉が、社会の中で広く使われるようになった。その背景には、バブル経済の崩壊という大きな転換点がある。それまでの高度経済成長に支えられていた集団主義的な価値観や終身雇用制度が揺らぎ、個人の生き方や価値観が尊重される社会へと、価値の軸が移行しはじめたといえるだろう。

 就職においても、若者たちは自分らしい働き方や暮らし方を模索するようになった。
 人材育成・社員研修を手掛ける「Recurrent」が2022年に実施した「若手意識調査」では、「何か物事を決定する・選択する際に「自分らしさ」を意識する」と答えた割合は、「頻繁に意識する」(18.4%)「時々意識する」(43.2%)と意識する層は6割を超え、また、企業向けeラーニングを提供する「SoZo」(本社・大阪府)が2022年に大学生・大学院生を対象に行った調査でも「働き方のイメージ」の第1位は「自分らしく働ける環境を選びたい」となっている。
 一方で、現実の志望先として高い人気を誇るのは、大手企業や公務員など、安定性や伝統的なキャリアパスを持つ組織である。自由と安定、理想と現実のはざまで、若者たちは揺れている。「やりたいことを仕事に」といった理想はしばしば語られるが、その(実現に対する)不安やプレッシャー、そして自己責任の重さを、無意識に背負っている若者も少なくないだろう。

 こうした中で、近年あらためて関心が寄せられているのが「分人」という考え方である。作家の平野啓一郎氏は、2012年刊行の著書『私とは何か「個人」から「分人」へ』において、「人は単一の不変の人格を持つのではなく、関係性や場面ごとに異なる分人としてふるまっている」と論じている。家庭での自分、職場での自分、友人といるときの自分。それぞれは異なるが、いずれも本当の自分であり、人はそれらを無意識のうちに使い分けているという。
 SNSの普及も、こうした自己像の多層化をさらに加速させているのかもしれない。若者たちは複数のアカウントを使い分け、相手や状況に応じて異なるキャラクターや語り口を選び取る。その柔軟性は現代的な適応力ともいえるが、一方で、進学や就職といった人生の節目では、「本当の自分はどこにいるのか」「本当にやりたいことは何か」といった問いが浮上し、揺らぎが顕在化しやすくなる。自己の軸が定まらないまま、「自分らしく」と励まされることは、時に過剰な負担となる。

 こうした時代に求められるのは、若者の迷いや揺れを否定するのではなく、人間の自然な状態として受け止める社会のまなざしである。「自分らしさ」とは、決して一つに固定された明確な答えではなく、経験や他者との関係性のなかで少しずつかたちづくられていくものだ。
 その前提に立てば、実務や人間関係のなかで育まれる「自分らしさ」を、仕事へのエンゲージメントへとつなげていくには、「どんなときにやりがいを感じたのか」「何が自分に合わないと感じたのか」といった感覚を言葉にし、組織内で共有・すり合わせていく機会が欠かせない。こうした対話と相互理解の積み重ねが、結果として離職率の低下や人材の定着にもつながっていくのではないだろうか。

(公益財団法人 山梨総合研究所 主任研究員 渡辺 たま緒