時には立ち止まり
毎日新聞No.15 【平成10年9月17日発行】
~一服が教えてくれたこと~
別れは突然やってきた。十数年にわたって、毎日付き合ってきたのに、すっかりご無沙汰である。
友人の名前は「たばこ」である。1ヶ月以上吸うことをやめている。 せきが続き、胸が苦しくなったのでやめてみた。体調が戻った今も、吸って みようとは思わないのだが、吸わなくなって初めて、「たばこ」について色々と考えるようになった。
たばこは、コロンブスによって新大陸からヨーロッパにもたらされ、全世界に広まっていったらしいのだが、人類との、最初の出会いについては不明である。宗教的な儀式や、薬としても使われた形跡があるが、なぜ人類は、 数百年、あるいはもっと長きにわたって、煙を吸ったり、出したりしてきたのであろうか?
学生時代、おそらく私が愛煙家の仲間入りをしたころだと思うが、「たばこは心の日曜日」というキャッチフレーズがあった。当時は、何も感じなかった この文句であるが、思い出してみると、なかなか意味深い。たばこに火をつける のには止まらなければならない。歩いている足をとめ、仕事の手を休め、発言している口の動きを止めないと、たばこに火をつけることはできないのだ。紙巻た ばこの登場で、「一服」の時間は非常に短くなってしまったが、私たちの先輩は、この「一服する」という時間に、何か重要な意味を見出していたのではないか。
これまでたばこに対して、比較的寛容であった日本の社会にも、「たばこは 迷惑な存在である」という認識が浸透した。「健康を損なう恐れがあります」と 書いてあるくらいだから、健康に良くないことは確かだ。フランスでは、「2番目 に危険な薬物」との報告もある。しかし、極めて個人的な意見ではあるが、私は、 たばこの有害性は認めても、たばこの全てを否定したくはないのである。立ち止ま ることを知らず、休みなく働き、常に右肩あがりを目指してきた日本の社会が、今 どんな状態にあるかはあえて申すまでもない。愛煙家や、たばこ会社の味方をして いるわけではないが、立ち止まり、振り返り、思いにふける時間を与えてくれた『たばこ』に、実はとても感謝しているのである。ちなみに、現在の「一服」のパート ナーは、キャンディーとお茶である。
(山梨総合研究所研究員・水石和仁)