問われる民主主義のあり方


毎日新聞No.673【令和6年9月29日発行】

 暑い夏から涼しい秋への季節の移り変わりがなかなかみられないところであるが、NHKの朝の連続ドラマは下半期の新番組に切りかわる。

 今年度上半期のドラマは実際に存在した女性裁判官をモデルにその生涯を描いたものだったが、その背景には、昭和初期から太平洋戦争を経た戦後の社会経済情勢の混乱の様子や、それに対する政治的な混乱の様子も描かれている。
 戦後まもない日本においては、アメリカの意向に従わざるを得ない敗戦後の暗たんとした雰囲気が強く残っており、1946年に小説家の坂口安吾が、当時の日本の様子を描いた評論「堕落論」の最期の一文に、「政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である」と書いている。
 また、戦争の記憶が薄らいできた1963年、広島市と長崎市で原子爆弾による被ばくを受けた原告が国に対し損害賠償請求を行った、いわゆる下田事件の最高裁判所判決が言い渡された。主文として国に対する損害賠償は認められず、判決理由の終わりには「われわれは本訴訟をみるにつけ、政治の貧困を嘆かずにはおられないのである」との一文が述べられている。

 いずれも何もしない政治への憤りが強く感じられる言葉である。ただ、政治はどこか遠くにある自分とは直接関係ないものではない。今年度はアメリカ大統領選挙や自由民主党の総裁選、身近なところでも、山梨県内及び静岡県内ではそれぞれ3つの首長選挙が、長野県内では7つの首長選挙が行われるなど、政治を変えることができる機会がある。
 政治は決して選挙や議会で行われるだけではない。住民による損害賠償請求や請願など、住民自身が行使できる政治的手段は多く存在する。中学校や高校で学ぶイギリスのジョン・ロックは、「市民政府論」の中で「立法権(最高権力)は社会があり続ける限りは個人の手に戻ることはないが、依然としてなお人民の手に残されている」と述べている。
 政治は自分たちの知らないところで自分ではない知らない誰かが行っているものなのではなく、住民自身がそこに関わることで成り立つものなのであり、それが民主主義なのではないだろうか。今、改めてそのあり方が問われているように思われる。

(公益財団法人 山梨総合研究所 主任研究員 宇佐美 淳